庭へ続く一歩
その後しばらく、蓮は文字通り“ベッドの上の人”になった。
額の傷は順調に塞がっているものの、医師の判断で外出は厳禁。
聖職者との面会日も、当然ながら延期となった。
帰還がまた少し先延ばしになったという事実は、蓮の胸に小さな不安を落としたが、それよりもじっとしていることそのものが、彼女には拷問だった。
「……暇だなあ。」
ベッド脇の小机には、刺繍枠と糸が並べられている。
リディアが「せめて手慰みに」と用意してくれたものだ。
丁寧な図案も添えられていた。
針を持ち、布に糸を通す。
最初は新鮮だった。模様が少しずつ形になっていくのは楽しい。
だが三十分もすると、蓮は深くため息をついた。
「……体動かしたい。」
身体の奥がむずむずして、落ち着かない。
歩きたい。走りたい。土の上を踏みしめたい。
「アムレーナ様?」
控えていたリディアが、すぐに気づいて声をかける。
「ねえ、ほんの少しだけでいいから、外に――」
「なりません。」
即答だった。
「まだ安静が必要です。医師の許可も出ていません。」
「五分でいいのに……」
「なりません。」
微動だにしない。
蓮は肩を落とし、枕に顔を埋めた。
そんな日々の中で、唯一の救いだったのがユウリの見舞いだった。
毎日、欠かさず季節の花を一輪、あるいは小さな花束にして持ってくる。
「アムレーナ様、この花はですね――」
今日は淡い紫の花だった。
ユウリは目を輝かせ、名前や育つ場所、花言葉まで丁寧に説明する。
「……へえ」
ベッドに横になったまま聞くその声は、自然と柔らかくなる。
「この花、朝露を含むと香りが強くなるんですよ。だから、朝の庭園が一番きれいで……」
「行きたいなあ……」
「え?」
「あ、なんでもない」
思わず漏れた本音に、蓮は慌てて笑った。
ユウリは一瞬だけ困った顔をしたが、すぐに花瓶に花を活けてくれる。
「……きっと、すぐ良くなりますよ。」
その言葉が、じんわりと心に染みた。
そして、セリオンもまた忙しい中で時間を作り、毎日顔を出していた。
ほんの三十分。 政務の合間を縫っての訪問だ。
互いに多くを語るわけではない。 その日の体調、食事の話、他愛のない話題。
だが、その三十分が、蓮にとっては一日の支えになっていた。
ベッド生活が数日続いたころ。 蓮は、意を決して切り出した。
「ねえ、セリオン。」
「どうした?」
「リハビリってことで……普通の生活、させてくれない?」
セリオンの眉が、わずかに寄る。
「体力、落ちちゃうよ。このままだと、歩くのも大変になりそう」
冗談めかした口調だったが、目は真剣だった。
セリオンはしばらく黙り込み、やがて低く言った。
「……エリオットの許可が出れば、だ」
「ほんと!?」
ぱっと顔が明るくなる。
「じゃあ、すぐ呼んでもらおう!」
数分後。
医師エリオットが部屋に入ってきた。
「……状況は把握しています。」
淡々と診察し、額の包帯を確認する。
「正直に言えば、このままずっと寝かせておく方が危険ですね。」
「ほら!」
蓮が身を乗り出す。
「心の方が病みかねません。軽い日常動作、歩行や庭への短時間の外出は許可します。」
「やった!」
思わずガッツポーズをする。
「ただし」
エリオットは人差し指を立てた。
「体術、鍛錬、過度な運動は厳禁です。」
「あー……」
分かりやすく肩を落とす。
「もう少し我慢してください。」
「……はい」
渋々、頷いた。
エリオットが退室し、部屋に残ったのは二人。
蓮は、ふと思いついたように顔を上げる。
「ねえ、セリオン。」
「なんだ」
「……まだ、時間ある?」
問いに、セリオンは一瞬だけ逡巡した。
本当は、次の予定まで余裕はない。
だが。
「……少しなら」
そう答えていた。
「じゃあ!」
蓮は嬉しそうに笑う。
「せっかくだから、庭園に一緒に行こうよ。久しぶりだし。」
期待に満ちた瞳。
「楽しみだなあ。」
その言葉に、セリオンは小さく息を吐いた。
「……分かった。」
本来なら、部屋で休ませるべきなのだろう。
だが、彼女が外を恋しがっていることも、痛いほど分かっていた。
ゆっくりと、庭園へ向かう。
歩幅を合わせ、決して急がせない。
庭に出た瞬間、蓮は深く息を吸った。
「……ああ」
草と土と、花の匂い。
「これこれ。これが必要だった。」
目を細めるその横顔を、セリオンは黙って見つめる。
その横顔を見て、自分の方が心が温かくなる。
ずっとずっと見つめていたくなる笑顔だった。




