消えない傷、消えない想い
医務室から駆け付けた白衣姿のエリオットが静かな声で状況を確認しながら、アムレーナ――蓮の額を覗き込む。
「……応急処置は適切です。血も止まっていますし、このまま動かして問題はありませんね。」
そう言って、リードの方を見る。
リードは一礼しただけだったが、その表情にはわずかな安堵が滲んでいた。
「念のため、こちらで本格的に処置をします。医務室へ運びましょう。」
「分かりました。」
リードがそっと蓮の身体に腕を回し、抱え上げる。
その揺れに、蓮は小さく息をついた。
「……リード。」
「はい」
「ユウリも……ケガ、してるから。一緒に……見てあげて。」
目を閉じたまま、途切れがちな声でそう告げる。
意識が完全に飛ぶ前の、最後の気遣いだった。
「承知しました。」
リードは短く答え、医師に視線を送る。
エリオットは頷き、すぐに指示を出した。
「ユウリも一緒に。軽傷でしょうが、確認は必要です。」
泣きはらした顔のユウリも、別の侍女に支えられて同行することになった。
「殿下は、別室で――」
エリオットがそう言いかけたところで、ルシアンが遮る。
「いや。僕もついていく。」
その声音は、静かだが強かった。
エリオットは一瞬考え、やがて頷く。
「……分かりました。ただし、処置の妨げにならないように。」
こうして、一行は医務室へと移動した。
アムレーナの処置は、思ったよりも時間がかかった。
割れた陶器の破片による傷は深くはないが、額という目立つ場所ゆえ、慎重を要した。
「……終わりました。」
エリオットが手袋を外しながら告げる。
「縫合は必要ありません。ただ――」
言葉を選ぶように、一拍置く。
「傷跡が、完全には消えない可能性があります。」
その瞬間、空気が凍りついた。
「……それは」
ルシアンの声が、低く震える。
「本当ですか?」
「ええ。個人差はありますが……」
それ以上は言わせなかった。
「ふざけるな……」
吐き捨てるように呟いたのは、リードだった。
拳を握りしめ、怒りを押し殺しているのがはっきりと分かる。
「……失礼。」
それ以上何も言わず、リードは踵を返した。
「次は、ユウリ君ですね。」
エリオットの言葉に、場の空気が少しだけ動く。
「……リード。」
ベッドに横たわったまま、蓮が声をかけた。
「ユウリの、手……握ってあげて。」
一瞬、リードは驚いた顔をした。
「私がそうしてあげたいけど……さすがに、ケガしてるからさ。」
困ったように笑う。
「……お願いします。」
こくりと頷き、リードはユウリの傍へと向かった。
震えるユウリの手を、包み込むように握る。
「大丈夫だ。」
低い声で、ただそれだけを告げる。
ユウリは涙をこぼしながら、何度も頷いた。
医務室の片隅で、ルシアンは蓮の傍に立っていた。
「……本当に、申し訳ない。」
深く、頭を下げる。
「殿下が謝ることじゃありませんよ。」
蓮は、少し困ったように笑った。
「それに……セリオンは、あの婚約者さんだと、苦労するかもしれないね。」
苦笑混じりの言葉。
「あ。」
ふと、思い出したように続ける。
「今日のこと、できれば……秘密にしてもらえるかな。
セリオン、困るでしょ?」
ルシアンは、首を横に振った。
「……無理です。」
「え。」
「屋敷内で起きた出来事は、即座に兄上へ報告が行きます。
今回の件も……もう、早馬が城へ向かっているはずです。」
「あちゃー……」
蓮は、間の抜けた声を出した。
「迷惑ばっかりかけちゃうなあ。」
あまりにもあっけらかんなその様子に、ルシアンは一瞬、言葉を失う。
だが、意を決したように、静かに口を開いた。
「……僕は」
蓮が顔を上げる。
「サラ殿が、兄上にふさわしいとは思っていません。」
まっすぐな言葉だった。
「今まで兄上が婚約を保留にしていたのも、そういうことだと思います。」
「……」
「ですが」
ルシアンは一度、息を吸った。
「兄上は、蓮のために、受け入れたのです。」
「……え?」
蓮の思考が止まる。
「サラ殿の身内に、聖職者がいます。
今回の帰還に協力する人物です」
言葉が、ゆっくりと落ちてくる。
「その報酬として、サラ殿との婚約を要求してきました。」
「そんな……」
声が、掠れる。
「……え……」
何も言えなくなった蓮に、ルシアンは続ける。
「これは、兄上が決めたことです。
あなたが、後ろめたさを感じる必要はありません。」
そして、少しだけ視線を伏せる。
「ただ……兄上が、それだけあなたを大切に思っているということだけは、伝えたくて。」
蓮は、何も言えなかった。
胸の奥が、静かに、でも確かに締めつけられる。
「ユウリ君の処置も、終わりましたよ。」
エリオットの声が響く。
リードはユウリを背負い、家まで送り届けることになった。
医務室の外では、リディアが執事たちを連れて待っていた。
「アムレーナ様、お部屋へ戻りましょう。」
蓮は頷き、支えられながら部屋へと戻る。
その夜。
強いノックの音が、静寂を破った。
「……はい、どうぞ。」
扉が開くや否や、セリオンが飛び込んでくる。
「大丈夫か!」
ベッドで上半身を起こしている蓮の元へ、駆け寄った。
その必死な様子に、リディアは一瞬で察し、静かに頭を下げて退室する。
二人きりの部屋。
「報告を受けた時は、心臓が止まるかと思った……」
セリオンは、悔しさを滲ませた声で言う。
「すまなかった。本当に……」
「大丈夫だよ。」
蓮は、にこりと笑った。
「すぐに治療も受けたし。」
「……傷は?」
「え?」
「見せてみろ。」
言われるまま、前髪を上げる。
額の大部分は、ガーゼと包帯で覆われていた。
セリオンの顔が、歪む。
「……こんな。」
「見た目ほど、痛くないのよ。みんなが大げさなだけ。」
軽く言うが、セリオンは首を振る。
「……傷が消えないかもしれないと、聞いた。」
悲痛な表情だった。
「……」
「大丈夫だよ。」
蓮は、少し照れたように笑う。
「私、動き回るの好きだから。傷なんて、いつものことだし。」
その言葉を、セリオンは聞いていなかった。
突然、強く抱きしめられる。
「……お前を」
耳元で、低く、震える声。
「無事に、何事もなく、還したかった……」
悔しさが、そのまま滲み出ていた。
蓮は、そっと腕を回し、背中を撫でる。
「ありがとう、セリオン。」
柔らかな声。
「その気持ちは……十分、伝わってるよ。」
抱きしめる腕が、さらに強くなる。
二人の間に、言葉はなかった。
ただ、確かに共有された想いだけが、静かにそこにあった。




