薔薇の庭、紅茶の雨
庭園に朝の光が満ちていた。
薔薇の葉の先にはまだ小さな雫が残り、風が吹くたびにきらりと揺れる。
「殿下がお越しになりますからね、アムレーナ様。今日は少しだけ、きちんとした装いで。」
メイドたちはいつにも増して念入りだった。
髪を整え、淡い色のドレスを選び、装飾は控えめだが上質なものを添える。
鏡に映る自分を見て、蓮はどこか落ち着かない気持ちになった。
“殿下に会う”ただそれだけで、周囲の空気が変わる。
やがて、庭園の入口にルシアンの姿が見えた。
柔らかな笑みを浮かべ、軽く手を振る。
「今日はいい天気だね。」
「はい。こんな日は、外でお茶が気持ちいいですね。」
用意された白いテーブルに向かい合って腰を下ろす。
小鳥のさえずりが、会話の合間を縫うように流れた。
「先日の夜会では、本当にありがとうございました。あなたのおかげで、僕は救われました。」
「そんな……私は、ただお祝いしただけで。」
「それが本当にうれしかった。」
そう言って微笑むルシアンの表情は、どこか穏やかで、兄とは違う柔らかさを持っていた。
最近の出来事、庭園の花の話、城での噂話。
深刻な話題を避けるように、二人は穏やかに言葉を交わしていた。
そのときだった。
「お話し中、申し訳ありません。」
控えめだが焦った声が割り込む。
メイドが小走りで近づいてきて、深く頭を下げた。
「アムレーナ様。サラ・ルナド侯爵令嬢がお越しです。」
「……え?」
蓮は思わず目を瞬かせた。名前に覚えがない。
「誰……ですか?」
小さく呟くと、ルシアンが一瞬だけ視線を伏せ、慎重に言葉を選ぶ。
「兄上の……側室候補です。」
「えっ?」
思考が追いつかない。どうして、そんな人が自分のところに――。
「おそらく……兄上が囲っている女性がどんな人物か、確認に来られたのでしょう。」
「そ、そうなんですか……」
胸の奥がざわつく。
どうしよう。断ったら失礼? 会わない方がいい?
でも、ここで追い返したら、セリオンの立場が……。
ルシアンもまた、迷っていた。
この令嬢が、帰還の鍵を握っている。その事実を、今ここで伝えるべきかどうか。
相談する間もなかった。
「侯爵令嬢、お待ちください!」
甲高い、悲鳴に近い声が庭園の外から響く。
「今、アムレーナ様にお取次ぎをしている最中ですので――」
「うるさいわね。」
冷ややかな声が重なる。
「この家も、そのうち私のものになるのよ。居候の意見なんて、聞く必要ないでしょう。」
次の瞬間、サラ・ルナド侯爵令嬢は、当然のように庭園へ足を踏み入れてきた。
艶やかな髪、豪奢なドレス。視線には、はっきりとした優越が宿っている。
「あら。ルシアン殿下もいらしていたのですね。」
一転して、完璧な礼。
だがすぐに視線は蓮へと向けられた。
「あなたが、アムレーナ嬢?」
刺すような目だった。
「は、初めまして……」
「あなた、一体セリオン殿下の何なの?」
間髪入れずに問いが飛ぶ。
「え……」
答える前に、サラは続けた。
「私は近々、セリオン殿下と婚約することが決まっていますの。そういうことですから――」
薄く笑い、
「早く出て行ってくださる?」
胸が冷たくなる。
「あ……私は、もうすぐ出ていきます。」
蓮は慌てて立ち上がり、言葉を探した。
「少し事情があって、こちらでお世話になっていただけで……」
そのとき。
「アムレーナ様~、今日はこの花を植えませんか~?」
能天気な声が、場違いなほど明るく響いた。
ユウリだった。
だが、空気を察したのだろう。すぐに顔色を変え、深く頭を下げる。
「す、すみません。お客様がいらしているとは知らず……すぐに――」
鋭い視線が突き刺さる。
サラのにらみに怯えたユウリは、足をもつれさせ、そのまま転んだ。
「……汚い。」
サラは鼻で笑い、護衛に顎で指示する。
「早く、その泥だらけのものを片づけなさい。目障りよ。」
騎士は無言でユウリの首根っこを掴み、乱暴に引きずろうとした。
「何をするんですか!」
蓮は思わず駆け寄り、ユウリのそばに膝をつく。
「大丈夫?」
「アムレーナ様……」
「さすがね。」
サラはカップを手に、ゆっくりと近づいてくる。
「下っ端同士、仲がいいこと。」
その動きに、リードが即座に前に出た。
ルシアンも立ち上がる。
だが、蓮はルシアンを見上げ、静かに首を振った。
ここで殿下が出れば、兄の婚約者との争いになる。それは、よくない。
「あなた、邪魔よ。どきなさい。」
「ですが……」
「あなたは誰の騎士?」
サラの声は冷たい。
「セリオン殿下でしょう? その婚約者が指示しているのよ。」
リードが迷う。
「……リード。」
蓮は小さく言った。
「言うことを聞いて。」
リードは歯を食いしばり、一歩退いた。
「ほら。」
サラは微笑む。
「土がついてしまったでしょう?」
そして、何の躊躇もなく、カップを振り上げた。
「これできれいになるわよ。」
次の瞬間、熱い液体が降りかかる。
衝撃とともに、カップが割れ、破片が額を切った。
視界が揺れ、赤が滲む。
「――アムレーナ!」
ルシアンの声が響いた。
「サラ嬢! それが、兄上の婚約者として正しい振る舞いですか!」
「あら」
サラは肩をすくめる。
「私は婚約者に近づく悪い虫を追い払っているだけですわ。」
ちらりとルシアンを見る。
「それに殿下。ご自身の立場をお考えになって? 王からも見放されているくせに。」
「お嬢様、それは――」
護衛の騎士が慌てて止める。
「……ふん」
サラは不機嫌そうに背を向けた。
「もう帰るわ。」
去り際、騎士は一度だけ深く頭を下げ、足早に後を追った。
静寂が戻る。
「すぐに医務室へ人を!」
ルシアンは叫んだ。
「エリオットを呼べ! 水も用意しろ!」
ユウリは泣きながら蓮の手を握る。
「アムレーナ様……大丈夫ですか?」
「大丈夫……」
リードは震える手で止血をしながら、唇を噛みしめていた。
庭園には、割れたカップと、まだ湯気の残る紅茶の匂いだけが残っていた。




