仮面を外したあとは
セリオンの別邸に戻ったのは、王城を出てからさほど時間が経っていない頃だった。
門をくぐった瞬間、出迎えに現れた執事長アルバートが、わずかに目を見開く。
その横に控えるメイド長メリッサも、そしてアムレーナ付きのメイド、リディアも、同じように内心で驚いた。
(あまりにも、早い。)
そしてもう一つ。
送り出したとき、蓮は間違いなく“姫君”だった。
飾られ、整えられ、王城という舞台にふさわしい姿で。
それが今、目の前にいる蓮は、装飾のない動きやすい服に身を包み、化粧も落とした、すっかり身軽な姿だった。
だが三人とも、それを表情には出さない。
「お帰りなさいませ、アムレーナ様。」
アルバートが、いつもと変わらぬ声音で頭を下げる。
「お戻りが早うございましたね。」
メリッサも、柔らかな微笑みを浮かべたままだ。
「お部屋へご案内いたします。」
リディアは一歩前に出ると、蓮の様子を一目見て、すぐに察したようだった。
(ああ、これは。)
「先に、お風呂の準備をいたしますね。」
「え? あ、うん……お願い。」
迷いのない判断に、蓮は小さく笑う。
湯気の立つ浴室で、衣服を脱ぎ、湯に身を沈めると、ようやく身体の奥まで張りつめていたものがほどけていくのを感じた。
「……はぁ。」
自然と、息が漏れる。
背後で、リディアが静かに湯を汲み、蓮の髪を洗いはじめた。
「アムレーナ様。」
柔らかな声で、問いかける。
「……何か、ございましたか?」
責めるでも、詮索するでもない。
ただ、主を案じる声。
蓮は一瞬、どう答えるべきか迷った。
(どこまで話していいんだろう。)
王の言葉。
魔王の登場。
貴族たちの動揺。
すべてを話す必要は、ない。
「……ちょっと、アクシデントがあってね。」
そう前置きして、言葉を選ぶ。
「セリオンが退出して、リードも『今は帰った方がいい』って判断して。だから戻ってきたの。」
「そう、でしたか。」
それ以上、リディアは踏み込まなかった。
主人が話したがらないことは、深追いしない。
仕えてきた者ならではの絶妙な距離感だった。
蓮は、内心でほっとする。
身体を洗い終え、湯から上がる頃には、少しだけ気持ちも落ち着いていた。
だが問題は、まだ残っていた。
パーティーへ行く予定だったため、別邸ではディナーの準備がされていなかったのだ。
厨房では、戻ってきた蓮のために、料理人たちが慌ただしく動き始めている。
「……あの。」
着替えを済ませた蓮が、遠慮がちに声を上げる。
「もし、差し支えなければ……なんだけど。」
集まった使用人たちが、一斉にこちらを見る。
「みんなで、同じものを食べられたら、嬉しいなって。私だけ別の料理じゃなくて、みんなと同じで。」
一瞬の沈黙。
驚き。
戸惑い。
そして、どう反応すべきか分からない空気。
「……やっぱり、だめ、かな。」
しょんぼりと肩を落とす蓮。
その様子に、アルバートが小さく咳払いをした。
「アムレーナ様。」
穏やかながら、どこか楽しげな声音。
「今宵は、せっかくの祝宴が十分に楽しまれなかったご様子。」
「ですので――」
一拍置いてから、告げる。
「特別に、その願いをお受けいたしましょう。よろしいですか。今夜だけ、でございますよ。」
次の瞬間。
「……ほんと!?」
ぱっと、蓮の顔が明るくなる。
花が咲いたような笑顔だった。
それを見て、厨房の空気も一気に和らぐ。
豪華な晩餐ではない。
だが、温かい料理を囲み、皆で言葉を交わしながらの食事は、蓮にとって久しぶりのものだった。
「これ、美味しい。いつもは一人で食べてるから、なんだか新鮮。」
笑い声。
何気ない会話。
パーティーとは比べ物にならないほど、心が満たされる時間だった。
やがて部屋に戻り、ソファに身を沈める。
灯りを落とし、今日一日の出来事を、ゆっくりと思い返していた。
(……いろいろ、あったな。)
その時、コンコン、と扉がノックされた。
「アムレーナ様。」
外から、使用人の声。
「セリオン殿下がお越しになり、アムレーナ様をお呼びです。」
「……え」
胸が、どきりと鳴る。
急いで応接室へ向かうと、そこには既にリードの姿があった。
そして。
「お前がついていながら、何をしているんだ!」
セリオンの声が、室内に響いていた。
「申し訳ありません。」
リードは、深く頭を下げたまま。
「あ……」
思わず、蓮の口から声が漏れる。
その気配に、セリオンが気づいた。
ちらりとこちらを見て、すぐに言う。
「リード、下がれ。」
「ですが――」
「いいから。」
短い命令に、リードは一礼し、部屋を後にした。
残されたのは、二人。
気まずい沈黙。
蓮が言葉を探していると、先にセリオンが口を開いた。
「蓮。」
低く、落ち着いた声。
「お前、一度退出したにも関わらず、あの場に戻ったそうだな。」
「あ……はい。」
「……あのな。」
セリオンは、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「それが、どれだけ危険な行為か、分からなかったのか?」
先ほどの怒声とは違い、静かで、淡々とした口調。
それが、かえって蓮の緊張を煽った。
「ごめんなさい。」
素直に頭を下げる。
「でも、あのままじゃルシアンがかわいそうだったし……ちゃんと、お祝いを伝えたかったの。」
顔を上げて、続ける。
「それにね、ちゃんと化粧も落として、服もリードのいつもの服を借りたし、アムレーナと同一人物だって、バレてないと思う。」
その瞬間。
セリオンの反応が、止まった。
「……リードの服を、お前が?」
「え? あ、うん。」
きょとんとしながら答える。
「動きやすくて、フォルトゥナ城で着てた訓練服に似てたよ。」
なぜか、セリオンは黙り込む。
視線を逸らし、考え込むように。
(……どうしたんだろう)
不思議に思いながらも、蓮は話を続けた。
「あとね、あの場に残った貴族も、確かめておきたかったの。」
その言葉に、セリオンがこちらを見る。
「ルシアンにも伝えたけど、ガラン移住の候補になると思うし、そうじゃなくても、魔族に拒否反応がない人たちだと思って。」
一瞬の沈黙。
それから、セリオンはわざとらしく、大きなため息をついた。
「……お前には、お前の考えがあることは分かった。」
だが、すぐに続ける。
「だがな、勝手に動いて、俺の肝を冷やさせないでくれ。」
心中で、ふと思う。
(……あの魔王も、こんなひやひやを味わっていたのだろうな。)
小さく、苦笑が漏れた。
そして、気づく。
「蓮。俺はてっきり――」
一瞬、言葉を切る。
「……あの魔王に会いたくて、戻ったのかと思っていた。」
「ち、違うよ!」
蓮は、すぐに否定した。
「確かに、レナトスとは会いたかったし、少しでも会えて、すごく嬉しかったけど」
その言葉に、セリオンの胸の奥が、ちくりと痛む。
だが、蓮は続けた。
「でも、ここにいる目的を、私は忘れてないよ?」
少し困ったように笑って、付け加える。
「あ、でも……結局レナトスの近くにいたから、また一か月、気配を消すことに集中しなくちゃ、かな?」
ちらりと、申し訳なさそうにセリオンを見る。
「……まあ」
セリオンは、肩をすくめた。
「魔王がパーティーに来たこと自体は、周知の事実だ。言い訳は、できるだろう。」
「よかった……」
蓮は、ほっと息をついた。
そして、少しだけ真剣な顔になる。
「ねえ、セリオン。リードを、あんまり怒らないであげて。」
まっすぐな視線。
「今回は、私のわがままが原因だし、彼は悪くない。むしろ、困らせちゃった。」
必死の説得に、セリオンはしばらく黙っていたが――
「……分かった。」
短く、それだけ言った。
そして、不意に。
自分の上着を脱ぎ、蓮の肩にかける。
「夜は冷える。」
「……?」
状況が飲み込めず、蓮は首を傾げる。
「……ありがとう?」
上着を羽織ったまま、少し間の抜けた声で礼を言う。
セリオンは、それ以上何も言わなかった。
ただ、どこか安堵したような表情で、蓮を見ていた。




