揺れる昼下がり
昼の光が天井のステンドグラスを透かし、食堂の床に淡い色を落としていた。
長いテーブルには香ばしいスープの匂いと、焼きたてのパンの湯気。
蓮はソラとカイと並んで席につき、いつものように談笑していた。
「このスープ、すっごく美味しい。カイが昨日仕入れた香草?」
「そう。市場の奥にいた婆さんから譲ってもらったやつだ。ちょっと高かったけどな。」
「ふふ、やっぱりカイは食べ物の話になると目が輝くね。」
そんな穏やかな空気の中、コン、と靴音が響いた。
「ここにいた!」
扉の向こうから、明るく通る声。
瞬間、食堂の空気が凍る。
出入りする使用人たちが一斉に動きを止め、ざわめきが走った。
「……ユリウス様?」
「陛下の弟君……どうしてここに……?」
ざわつく視線の中、黒衣を翻して現れた青年は、どこか楽しげだった。
金色の瞳が迷いなく蓮を捉える。
「やあ、蓮。ここにいたんだね。」
軽やかに言って、彼は迷うことなく蓮の隣に腰を下ろした。
「えっ……あ、はい?」
蓮は慌てて姿勢を正す。
一方で、対面に座るソラとカイは警戒心を隠さず、揃って眉を寄せた。
「ど、どなたですか……?」
「レナトスの弟、ユリウスだよ。」
レナトスの弟。
その一言に、ソラとカイは息をのんだ。
「ま、魔王陛下の……!」
「ちょ、ちょっと待て、そんな人が何で食堂に……」
二人がうろたえる様子を見て、ユリウスは小さく笑う。
「気にしないで。堅苦しい挨拶は好きじゃないんだ。で、君たちは?」
促され、蓮が順に紹介していく。
「こちらがカイ。こちらがソラ。ふたりとも、わたしを助けてくれた人たちです。」
「ふむ、カイとソラ、ね。」
ユリウスは二人を見比べ、口元に柔らかい笑みを浮かべた。
「良い名前だ。兄さんの周りにいる者は、皆どこか“選ばれてる”感じがする。」
「……は、はあ。」
ソラが困ったように笑い、カイは無言でパンをかじる。
少し沈黙が流れたあと、カイが切り出した。
「で、ユリウス様は……どうしてこの城に?」
「兄の様子を見に来たんだ。それと――」
ユリウスは蓮に視線を向け、微笑んだ。
「君と仲良くなりたいと思ってね。」
唐突な言葉に、蓮はスプーンを落としかける。
一方、カイの眉がぴくりと動いた。
「……仲良く?」
「うん、そう。兄があれほど心を動かされた人間だ。私も興味がある。」
柔らかく笑うユリウスの瞳は、底の見えない湖のようだった。
会話はそのまま穏やかに続き、城の話や食堂のメニューの話など、他愛もない雑談へと移っていった。
やがて蓮とソラが立ち上がる。
「そろそろ訓練所の方へ行くね。」
「俺も暇だし行こうかな。」
三人が出て行こうとしたその瞬間、ユリウスが軽く声をかけた。
「ねえ、カイ。少し私と話そう。」
「……俺と?」
「うん。長くは取らせない。ちょっと、聞きたいことがあって。」
カイは少し迷ったが、結局頷いた。
蓮たちが出て行き、食堂は一気に静まり返る。
遠くで皿を洗う音だけが響く中、ユリウスはゆっくりと口を開いた。
「君、インキュバスだよね?」
カイはスプーンを置き、警戒した目を向ける。
「ああ。それが何か? さっきも言ったが、俺たちは魔王様に呼ばれて――」
「そうじゃない。」ユリウスは軽く笑った。
「君は、蓮に好意を抱いているよね?」
カイの手が止まる。
心臓の鼓動が一瞬跳ねた。
「な……っ」
「なぜ、能力を使って自分のものにしないんだ?」
ユリウスの声は穏やかだった。
だが、その中に含まれる冷たい好奇心が、カイの胸を刺す。
「だって君たちインキュバスは、そういうのに長けている種族だろう?」
ユリウスは淡々と続ける。
「たかだか人間一人。能力を使えば簡単に君に夢中にさせられる。そうしない理由があるのかい?」
カイはゆっくり息を吐いた。
「……能力を使うのが嫌なんだよ。」
「嫌?」
「偽りの形で選ばれても、虚しいだけだ。」
ユリウスは首を傾げた。
「ほぅ……。」
まるで、未知の生物を観察するような目つきだった。
「ユリウス様は、魔王様が蓮に夢中なのは知っていますよね?」
「もちろん。」
「それを知ってる上で、俺にそんなことを言うのか?」
「兄にしても君にしても、力づくで自分の者にしないのが不思議でならないんだ。」
ユリウスはカップを軽く揺らし、氷を鳴らした。
「……誠実、というやつか。どうも私には理解できない感情だね。」
カイは苦く笑い、立ち上がる。
「言っても、あんたには分かんなさそうだな。――もう話は終わりだ。」
そう言い残し、彼は無言で食堂を後にした。
ユリウスはその背を見送りながら、小さく笑った。
「ふむ。兄さんの周りは、本当に“異質”だ。」
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レナトスの執務室。
書類の山の向こう、兄は黙々とペンを走らせていた。
ユリウスがドアを開け、軽く手を振る。
「やあ兄さん。少し話していい?」
「構わん。」
ペンを止めずに答える声。
ユリウスは窓辺の椅子に腰を下ろし、足を組んだ。
「いやー、まったくもって不思議だね。あの人間に関して、魔族みんなが“まっすぐ”になるんだ。」
レナトスの手が止まる。
「何の話だ。」
「さっき、食堂でカイってインキュバスと話してね。」
ユリウスはにやりと笑う。
「彼も自分の能力で、蓮を堕としたがらないんだよ。」
「……そうか。」
短い返答。その声に、微かな緊張が走る。
「二人とも、力を使えばすぐに問題を解決できるのに、蓮の意思を一番に考えてる。
まったく、魔族らしくないね。」
レナトスは書類を伏せ、ゆっくりと顔を上げた。
「相手への誠実さに、人間も魔族もないだろう。」
ユリウスはわざとらしく肩をすくめた。
「ま、私はまだ“彼女を元の世界に戻してあげたい”とは思ってないけどね。」
「……どういう意味だ。」
「つまり、みんながやれることは一つってこと。」
ユリウスは立ち上がり、窓辺に歩み寄る。
「蓮が“この世界で生きていきたい”と思わせること。
本人がそう望めば、還す必要なんてないだろ?」
「だが、どうやって。」
振り向いたユリウスは、からかうように笑った。
「それを頑張るのが――兄さんたちでしょ?」
軽く指を鳴らし、ユリウスは部屋を出ていった。
閉まる扉の音が、静寂の中に落ちる。
レナトスはしばらく何も言わず、視線を窓の外へ向けた。
青い空に雲が流れ、遠くで鐘の音が響く。
(蓮がこの世界を“選ぶ”――か。)
レナトスはただ、窓の外を見つめ続けた。遠くの鐘が、静かに午後を告げていた。




