紅き瞳の皇子
午後になっても、フォルトゥナ城の空気は落ち着かなかった。
廊下を行き交う足音、書簡を運ぶ侍従たちの小走り。
レナトスは朝から執務室にこもり、明日の会談に向けて各地の報告をまとめていると聞いた。
窓辺に腰掛け、蓮は手にした湯杯をそっと傾けた。
紅茶の表面に、雲の切れ間から射す光が揺れている。
(……食事も取らずに働いてるんじゃないかな)
そう思うと、胸の奥がじんわりと痛む。
ミレーヌが静かに近づき、報告をする。
「魔王様がお越しです。お部屋へご案内してよろしいでしょうか?」
「!!うん。ありがとう。」
疲労を隠せぬ表情のレナトスが部屋に入ってきた。。
「……今日も働き詰めなんでしょう?少しは休んで。」
蓮が眉を寄せると、彼は微笑んで首を振る。
「休むのは、すべてが終わってからでいい。明日の会談が、今後の戦を止める大事な機会だから。」
「戦を止める……?」
「そうだ。人間側は、我ら魔族領へ進軍する準備を整えている。
明日の目的はただ一つ――“侵攻を食い止める”こと。」
その言葉には、王としての決意が宿っていた。
だが同時に、その肩に積もる重圧も見えた。
「この後、人間達が明日の会談のためやってくる。今夜は歓迎パーティーを行うから、夜は来れないと思う。」
蓮はしばらく黙ってから、思い切って言う。
「……私、パーティーの様子を見てもいい?」
レナトスは驚いたように目を瞬かせる。
「危険かもしれない。」
「それでも。見ていたいの。あなたが、どんな思いでこの世界を守ろうとしているのか、ちゃんと自分の目で見たい。」
しばらく沈黙が流れた。
やがてレナトスは小さく息をつき、頷いた。
「……ならば、給仕係として参加するといい。危険だと感じたら、すぐに奥にひっこむんだ。」
「ありがとう。」
彼の真剣な眼差しに、蓮は小さく微笑み返した。
じっとしていると落ち着かない。
人間達はどんな様子なのか
そして、ルシアンが言った“見極めてくれ”という言葉が、何度も脳裏をよぎるのだった。
レナトスとの会話後、蓮はミレーヌのもとで、給仕としての礼法を学んでいた。
カップの持ち方、会釈の角度、言葉を発さずに立ち居振る舞いで意を伝える作法。
「緊張しすぎず、けれど一挙一動が見られているつもりで。」
ミレーヌはそう言いながら、最後に小さく微笑んだ。
「蓮様なら、きっと大丈夫です。」
夕方――。
空はどこか重く、曇りの色を帯びていた。
人間側の使節団がフォルトゥナ城へ到着する。
第一皇子を筆頭に、騎士団長、参謀、神官などが同行しており、城門の外には数百の兵が整列して待機しているという報せが入った。
重厚な馬車の車輪の音が、石畳を軋ませる。
魔族たちは静かに見守り、空気が一気に張り詰めた。
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夜になると、フォルトゥナ城の大広間は、琥珀色の灯火に満ちていた。
長卓には銀の燭台と花々が飾られ、絹のカーテンがわずかな風に揺れる。
明日の会談を前に、人間側の代表団を迎える歓迎の晩餐が始まろうとしていた。
蓮は給仕の列に並び、黒の制服に身を包んで立っていた。
顔を隠すための半面のヴェールが、燭光を受けて淡く光る。
手には銀盆。揺れるワインの赤が、彼女の指先を染めていた。
今日はただ、見ていればいい。彼が何を、どう言葉にするのか。それを知るために。
扉が開き、金の刺繍を施した軍服を纏う人間たちが入場した。
先頭に立つ男――第一皇子セリオン・ヴァルガード。
炎のような紅の瞳を持ち、歩くたびに周囲の空気を変える。
その後ろには騎士団長ロウガ、参謀オルフェ。
鎧の金属音すら威圧のように響いた。
迎える側には、黒衣の魔王レナトス。
その姿は静かでありながら、どこか空気を支配する重みを持っていた。
対峙する二人が一礼を交わす瞬間――
見えない火花が散ったように、広間の空気がわずかに震えた。
微かな緊張が場を走るが、レナトスは落ち着いた笑みを浮かべ、杯を掲げた。
「遠き地よりの来訪、感謝する。
明日こそが、互いの未来を定める日だ。
今宵は、剣を置き、杯を取ろう。」
拍手とともに音楽が再び流れ始める。
蓮は給仕として、列の端に控える。
ワインを注ぎ、皿を差し出し、誰にも話しかけられないように。
けれど、目だけはどうしても離せなかった。
――あの人が、レナトスの相手。
世界を力で征服しようとする、もう一つの“頂点”。
ふと、セリオンが何かの拍子に顔を上げた。
その紅の瞳が、まっすぐ蓮の方を見た。
一瞬。
ただ、ほんの一瞬なのに――空気が止まった。
見つめられたというより、射抜かれた。
彼の瞳には冷たさと、測りきれない野心が宿っている。
セリオンはすぐに視線を逸らし、何事もなかったように杯を取る。
それだけの出来事なのに、蓮は息を忘れていた。
胸の奥で、何かがざわめく。
――この人が、レナトスと正面から対峙する。
宴は形式的に進み、音楽が響く。
だが、笑い声の裏では誰もが互いを探っている。
グラスが触れ合う音すら、警戒の合図のように響いていた。
蓮はその様子を見つめながら思う。
“共存”という言葉は、きっとまだ遠い。
それでも――明日が、少しでも血の色に染まらないことを願って。
彼女は静かに銀盆を持ち上げ、次の卓へと歩いていった。
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翌日午前、会議室の扉が開かれる。
長卓の中央に魔王レナトス、対する席には、第一皇子と人間の使節たちが着席した。
誰も言葉を発しない。
ただ、重く沈む空気の中で、二つの世界の代表が向かい合う。
――争いを止めるための、最初で最後の会談が始まろうとしていた。




