あの日の返事を、今
蓮がレナトスに旅立つ決意を告げ、その意思が揺るがないものだと確かめ合った翌日から、城の空気はわずかに変わった。
変わった、と言っても、誰もがそれを言葉にできるほどではない。
ただ、歯車がひとつ、確かに次の段階へ噛み合った、そんな感覚だった。
カイは、その日の午後、仲間たちを集めた。
場所は、荷造りで散らかりきった自室ではなく、城の中庭に面した小さな談話室だった。
「……急に呼び出して悪い。」
珍しく、カイは最初にそう前置きした。
集まったインキュバスやサキュバスたちは、何となく察しているのか、騒がずに彼を見ている。
「俺も……旅に出ることにした。」
一瞬、空気が止まった。
「え?」
「旅って……ガランじゃなくて?」
「カイ、冗談でしょ?」
いくつもの声が重なる中で、カイは首を横に振った。
「荷物は、ガランへ送る。」
そこで、はっきりと告げる。
「……あそこが、俺の帰る場所だから。」
ざわめきが、静かに収まっていく。
ガランは、人間と魔族が共に暮らすための街。
新しい生活、新しい挑戦。
そこに行くこと自体が、誰にとっても大きな決断だった。
「でも、俺は……外を見てくる。」
視線を上げ、仲間たちを見渡す。
「それが終わったら、ちゃんと帰る。」
誰かが、ふっと笑った。
「……ほんと、変わったわね。」
「前のカイなら、そんなこと言わなかった。」 「でも、顔が違う。」
からかうような声の中に、確かな安堵が混じっている。
「ちゃんと戻ってくるんでしょ?」
「ああ。」
「なら、行ってきなさい。」
ミュリエルが、腕を組んで言った。
「帰ってきた時、ちゃんと“居場所”があるってこと、忘れないで。」
「……分かってる。」
短く答えたが、その言葉は、胸の奥に深く残った。
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インキュバスとサキュバスたちがガランへ移ってから、一週間が過ぎた。
城は、少しだけ静かになった。
それでも、寂しさよりも、どこか前向きな余韻が残っている。
旅立ちの朝。
まだ日が高くなる前、蓮はレナトスの私室に呼ばれていた。
重厚な扉が閉じる音がして、二人きりになる。
「……緊張してる?」
そう聞かれて、蓮は小さく笑った。
「してないって言ったら、嘘になるね。」
「そうだろうな。」
レナトスは歩み寄り、蓮の前に立つ。
いつもの王としての威圧感はなく、そこにいるのは、一人の男だった。
「蓮。」
名前を呼ばれただけで、胸が少し高鳴る。
「これは、王命でも、命令でもない。」
静かな声。
「……私個人の願いだ。」
そう前置きしてから、そっと彼女の頬に手を伸ばす。
「加護を与える。」
「……加護?」
問い返すより先に、レナトスは額を寄せ、唇を重ねた。
一瞬の、深く静かな口づけ。
その瞬間、温かい何かが、胸の奥に流れ込んでくる。
「……っ」
思わず息を呑む蓮を、レナトスはしっかりと抱き留めた。
「致命傷は負わない。」
低く、確かな声。
「どんな危険があっても、命は守られる。」
額を離し、真剣な眼差しで見つめる。
「無茶をしろという意味じゃない。だが……もしもの時は、これがお前を帰してくれる。」
「……ありがとう。」
胸がいっぱいで、それ以上、言葉が出なかった。
「帰ってこい。」
短く、しかし重く。
「必ず。」
「……うん。」
それだけで、十分だった。
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城門の前には、多くの人影が集まっていた。
見送りのために集まった家臣たち、兵士たち、城で働く者たち。
そして、レナトスと、その弟、ユリウス。
「本当に、行くんだな。」
ユリウスは、どこか楽しそうに言った。
「うん。」
「へぇ……」
意味ありげに視線を巡らせたあと、彼は軽く手を挙げる。
「じゃあ、俺も行く。」
「……へ?」
蓮とカイの声が、見事に重なった。
「ちょっと待って。」
「聞いてない。」
「だってさ。」
ユリウスは肩をすくめる。
「蓮とカイだけじゃ、不安だろ?」
その言葉に、レナトスは何も言わない。
ただ、視線を逸らしたままだ。
本心は、分かっている。
ユリウスは、蓮のそばにいたい。
そしてレナトスは、蓮とカイを完全に二人きりにしたくない。
さらに言えば、弟を通して、彼女の近況を知りたい。
そのすべてが、言葉にされないまま、成立していた。
「……まあ、賑やかな方がいいよね。」
蓮が苦笑すると、
「だろ?」
ユリウスは満足げに笑った。
こうして、予定より少しだけ人数が増えた旅立ちとなった。
「行ってくるね。」
蓮が言う。
「行ってらっしゃい。」
それぞれの声が重なる。
レナトスは、最後まで何も言わなかった。
ただ、その青と金の瞳で、確かに蓮を見送っていた。
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城門を抜け、街道を進み始める。
振り返らない。
それは、決めていたことだった。
(……進む。)
蓮は、心の中でそう呟く。
あの朝、眠るレナトスの言葉を聞いた時。
胸に芽生えた、あの考え。
(私が……この人を、この世界の“王”にする。)
魔族だけの王ではない。
恐怖で支配する存在でもない。
人間と魔族、すべてを背負って立つ者として。
(そのために、私は知る。)
世界を。
人を。
痛みも、希望も。
選んで、戻る。
そして、隣に立つ。
蓮は前を向いたまま、次の街へと歩みを進めた。
旅は、始まったばかりだった。




