箱に入らないもの
ガランへの移住の日程が決まってから、フォルトゥナ城の一角は、毎日が小さな騒ぎの連続だった。
廊下には箱が積まれ、あちこちから布の擦れる音や笑い声が聞こえてくる。
インキュバスやサキュバスたちは、期待と不安を半分ずつ抱えながら、新しい生活の準備に追われていた。
「これ、ガランに持っていく? 向こうでも使えるわよね?」
「それより、あっちの街って夜どうなるのかしら?」 「人間と一緒に住むって、やっぱり緊張するわよねぇ。」
そんな声が行き交う中で、ひときわ静かな部屋があった。
カイの部屋だ。
床にはいくつかの箱が置かれているものの、中身はほとんど空のまま。
衣類も本も、壁際に整然と並んでいる。
そこへ、扉を開け放つ勢いでミュリエルが入ってきた。
「カイ!」
びしっと指を突きつける。
「あんた、何やってるのよ。荷造り、全然進んでないじゃない。」
「……あぁ。」
返事はしたが、視線はどこか宙を彷徨っている。
「“あぁ”じゃないわよ!」
ミュリエルは腰に手を当てた。
「出発日より前に、荷物だけは先に送るって決まってるでしょ? このままじゃ間に合わなくなるわよ!」
「……分かってる。」
だが、分かっていると言うわりに、手は動かない。
その様子に、ミュリエルは眉をひそめた。
「もう……」
振り返ると、廊下に向かって声を張る。
「ちょっと! あんたたちも来なさい!」
すぐに、数人の仲間がぞろぞろと部屋に入ってきた。
「え、カイの部屋?」
「相変わらず何もしてないじゃない。」
「仕方ないな、やろう。」
半ば強引に箱が開けられ、衣類が放り込まれ、棚の物が仕分けされ始める。
その騒ぎの中で、カイは一歩、二歩と後ずさった。
胸の奥が、ざわつく。
(……違う。)
ここじゃない。
今、ここにいるべきじゃない。
「……ちょっと、出かけてくる、」
ぽつりとそう言い残すと、カイは部屋を飛び出した。
「は?」
ミュリエルが呆然とする。
扉が閉まった直後、部屋に残されたのは梱包途中の荷物と、取り残された一同。
「……もう! これどうするのよ!」
怒りの声だけが、空の部屋に響いた。
カイは城の中を早足で進んでいた。
考えるより先に、体が動いている。
(蓮……)
部屋を訪ねたが、返事はない。
庭にも姿は見えなかった。
胸が少しだけざわつく。
(どこだ……)
ふと、訓練所の方から、鋭い掛け声が聞こえた。
足が、自然とそちらへ向かう。
訓練所では、兵たちがペアで訓練をしている。
その中で、蓮も一緒に動いている。
相手は、兵隊長だった。
剣は使っていない。
素手での体術。
踏み込み、受け、流し、崩す。
動きはまだ荒削りだが、確かに“護身術”の域を超えていた。
(……護身術じゃないんだな。)
カイは、思わず息を呑む。
知らない間に。
自分が見ていないところで。
蓮は、また一つ、何かを吸収していた。
区切りのいいところで、兵隊長が手を上げる。
「今日はここまでにしよう。」
輪がほどける。
そのタイミングで、カイは声をかけた。
「……蓮。」
振り向いた彼女は、一瞬驚いた顔をしてから、微笑んだ。
「カイ。どうしたの?」
「少し、話がある。」
その声音に、蓮は何かを察したようだった。
「……うん。」
二人は訓練所を離れ、人の気配の少ない回廊へと移動した。
窓から差し込む光が、床に細い線を描いている。
沈黙が、数秒流れた。
カイは、拳を握りしめる。
(……言え。)
逃げるな。
ここで言わなければ、きっと一生、後悔する。
「……蓮。」
呼びかけると、彼女は静かにこちらを見た。
「蓮が……旅に出るって話。」
「……うん。」
「もし、それが本当になったら。」
一度、息を吸う。
「……俺も、連れて行ってくれないか。」
蓮の目が、大きく見開かれた。
「え……?」
「ガランへ行くのは……いいのかって思うだろ?」
先に、その疑問を潰す。
「正直に言うとさ……俺、今まで、言われたことをそのままやってきただけだった。」
視線を落とす。
「やりたいこともなかった。考えたこともなかった」
ゆっくりと、顔を上げる。
「でも今は……」
蓮を、まっすぐに見る。
「蓮と、世界を回りたい。」
言葉にした瞬間、胸の奥が熱くなった。
「だめか?」
真剣な眼差し。
冗談じゃない。
逃げ道も作らない。
蓮は、しばらく黙っていた。
そして、慎重に言葉を選ぶ。
「……まだ、決まったわけじゃないよ?」
「分かってる。」
「それに、もし行くことになっても……私は当てにならない。」
自嘲気味に笑う。
「辛い旅になるかもしれない。衣食住だって、ちゃんと確保できるか分からないし。」
それでも。
カイは、一歩、踏み出した。
「俺も、協力する。」
迷いのない声。
「守られるだけのつもりはない。役に立つかどうかは分からないけど……一緒に考える。」
一瞬、言葉を探すようにしてから、続けた。
「だから……」
少しだけ、声が低くなる。
「一人で行こうとしないでくれ。」
沈黙。
蓮は、じっとカイを見つめていた。
その目に映るのは、覚悟だった。
誰かの影ではない。
自分の足で立とうとする、強さ。
やがて、蓮は小さく息を吐いた。
「……カイ。」
「うん。」
「ありがとう。」
柔らかな声。
「正直、ちょっと怖かった。旅に出るって考えた時、一人で大丈夫かなって。」
視線を逸らし、照れたように続ける。
「だから……その、嬉しい。」
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「ただし。」
蓮は指を立てた。
「本当に行くって決めるなら、ガランのことも、ちゃんと整理してからだよ?」
「分かってる。」
「それに、レナトスに話す時……たぶん大変だよ?」
「……覚悟してる。」
苦笑しながらも、逃げない。
蓮はしばらく考えたあと、そっと手を差し出した。
「じゃあ……決まった時には。」
カイは、その手を取った。
強くは握らない。
だが、確かに。
「一緒に頑張ろう。」
二人の間に、静かな合意が生まれる。
遠くで、鐘の音が鳴った。
ガランへ向かう日まで、残された時間は多くない。
けれど、この瞬間、カイははっきりと分かっていた。
自分はもう、ただ流される存在ではない。
選び、歩く側に立ったのだと。




