ただいまの場所
城門の内側へ門番が消えてから、そう時間はかからなかった。
最初に変わったのは、空気だった。
静かに、だが確実に、城全体がざわめき始める。
「戻った、って……?」
「まさか、本当に?」
「蓮様が……?」
誰かが小声で漏らし、それが連なっていく。
足音が増え、階段を駆け上がる音、廊下を行き交う気配が重なった。
抑えきれない緊張と高揚が、城全体を揺らしているのが、蓮にも分かった。
「……なんだか、すごいことになってる?」
小声で呟くと、隣に立つエリアスがわずかに肩をすくめる。
「お前の帰還がよほど嬉しかったんだろ。」
城の奥から整った足並みが響く。
ほどなくして、正門が大きく開いた。
現れたのは、近衛兵と使用人たち。
その表情は一様に驚きと安堵に満ち、蓮の姿を見つけるなり、誰かが息を呑む音がした。
「……本当に」
「帰ってきた……」
「蓮様……!」
名を呼ぶ声が、次々に重なる。
蓮は思わず目を瞬かせ、少し困ったように笑った。
「うん。ただいま。」
それだけで、何人かが泣き出した。
事態は一気に動いた。
二人はほとんど間を置かず、玉座の間へと通されることになる。
広く、天井の高い空間。
久しく足を踏み入れていなかったはずなのに、不思議と懐かしさが先に来た。
玉座の間の扉が開かれた瞬間、蓮は思わず息をのんだ。
そこには、城内の多くの者が集まっていた。
兵士、文官、侍女、騎士。
仕事を中断して駆けつけたのだろう。
誰もが一様に、信じられないものを見るような表情で蓮を見つめている。
足音が響くたび、視線が集まる。
そして、玉座の上。
魔王レナトスは、静かにそこに座していた。
久々に見る蓮の姿に、胸の奥で何かが強く揺れた。
安堵、後悔、怒り、自責。 さまざまな感情が渦を巻く。
だがそれらは、王として決して表に出してはならないものだった。
彼は、あくまで威厳を保ったまま、玉座から一段降りる。
「……よく戻ってきてくれた。」
低く、よく通る声。
「セリオンから連絡を受けた時は、非常に心配した。」
それだけを、簡潔に述べる。
本当は聞きたいことが山ほどある。
どこで、どうして、どんな思いをしてきたのか。
だが、ここは玉座の間。 多くの者が見守る場だ。
蓮は、その言葉を受けて、驚くほど素直に笑った。
「はい。ただいま戻りました。」
飾り気のない笑顔。 それを見た瞬間、城内の空気が一気に緩んだ。
ミレーヌは、胸元を押さえ、涙をこぼしている。
メルフェリアは口元を手で覆い、必死に嗚咽を堪えていた。
ミュリエルは泣くまいとしているせいで、顔がひどく歪んでいる。
「……よかった……」
ソラは耐えきれず、わんわんと声を上げて泣き出した。
その小さな身体を、カイが慣れた手つきであやしながら、じっと蓮を見つめている。
その目にあるのは、言葉にしきれない安堵だった。
玉座の側には、魔王の弟、ユリウスの姿もある。
彼は静かに微笑み、優しい眼差しを蓮へ向けていた。
「……無事で、何より。」
短い言葉。 だが、そこに込められた思いは深い。
レナトスは、城内を一度見渡す。
「本来であれば、話をここで聞くべきではない。」
そう前置きしたうえで、続ける。
「だが、最初にこの場へ連れてきたのは…城にいる全員が、お前の無事を知り、確かめたかったからだ。」
その言葉に、ざわめきが起こる。 喜びが、はっきりとした形を持つ。
蓮は少し照れたように頭をかいた。
「……心配かけて、ごめんなさい。でも、ちゃんと帰ってきました。」
簡単に、ここまでの経緯を説明する。
エルフの森にいたこと。
エリアスに助けられたこと。
働きながら、少しずつ戻ってきたこと。
詳細は省いても、十分だった。
レナトスは一度、頷いた。
「後ほど、場を改めよう。」
そう告げると、視線をエリアスへ向ける。
「エリアス殿。蓮をここまで導き、守ってくれたこと、心から感謝する。」
静かな宣言。
「フォルトゥナ城は、最高級の客人として、そなたを迎える。」
エリアスは一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから一礼した。
「過分なお言葉です。私は、すべきことをしただけだ。」
だが、周囲の視線は、すでに彼を“恩人”として見ていた。
玉座の間の役目は、そこで終わった。
やがて、城内の者たちはそれぞれの持ち場へ戻っていく。
だがその足取りは、どれも軽い。
玉座の間に来られなかった者たちへ、喜びの報告が伝えられる。
蓮が無事に帰ってきた。
それは、瞬く間に城全体へ広がっていった。
用意されたのは、応接室だった。
レナトス。 ユリウス。 カイ。 ソラ。 ミレーヌ。 そして、蓮とエリアス。
扉が閉じられ、ようやく、静けさが戻る。
「さて。」
レナトスが口を開いた。
「ここからは、細かく聞かせてもらおう。」
その瞬間、次々に声が上がる。
「どうしてエルフの森へ!?」
「怪我は!?」
「怖くなかった!?」
「ちゃんと食べてた!?」
ソラは前のめりになり、カイは落ち着けと肩を引く。
ミレーヌは何度も頷きながら、蓮の言葉を一つも逃すまいとしていた。
ユリウスは質問を整理するように目を細めている。
蓮は、できる限り丁寧に話した。
エルフの森での生活。
働きながらの旅。
魔族の街での厳しさ。
エリアスも必要な部分を補足する。
質問は尽きない。
だが、その中でレナトスだけは、口を挟まなかった。
腕を組み、じっと蓮の話を聞いている。
視線は鋭いが、責める色はない。
ただ、一言一句を逃すまいとするような、静かな集中。
蓮はふと、その視線に気づき、言葉を切った。
「……レナトス?」
名を呼ばれ、ようやく彼は口を開く。
「続けてくれ。」
短い言葉。
だがその声には、王ではなく、 ただのレナトス個人としての重みが滲んでいた。
蓮は頷き、再び話し始める。
その背中を、レナトスは目を離さず見つめていた。
戻ってきた。 確かに、ここへ。
その喜びを噛みしめながら。




