心の勘定
エルフの森を出発してから、随分と日数が経っていた。
四日目に目隠しが外されてから、景色はすっかり人の世界のものになった。
石畳の道、往来する旅人、行商の呼び声。
森にいた頃より、音は多く、匂いも雑多だ。
フォルトゥナ城までは、まだ少し距離がある。
街道沿いの宿を転々としながら、二人は旅を続けていた。
その日の昼、次の街へ向かう途中。
街道脇の木陰で休憩を取っていた時、蓮はふと口を開いた。
「ねえ、エリアス。」
「どうした。」
水筒を傾けながら、彼は短く答える。
相変わらず感情の起伏は乏しいが、以前より声は柔らかい。
「……もう、目隠しも外れたし。」
少し言葉を探してから、蓮は続けた。
「今までの宿代とか、食費とか……結構、かかってるよね。」
エリアスは一瞬、動きを止めた。
「気にする必要はない。」
即答だった。
視線もこちらに向けない。
「でも。」
「森からここまで送るのは、俺の役目だ。」
彼は淡々と言う。
「その途中で発生した費用も、含めてな。」
「……そういう問題じゃなくて。」
蓮は膝を抱え、少しだけ前屈みになる。
「私、何も返さないままなのが、落ち着かないの。」
エリアスは、そこでようやく彼女を見る。
困惑が、ほんのわずかに浮かんでいた。
「金の話か?」
「違う。」
蓮は首を振る。
「心の話。」
しばらく沈黙が落ちた。
街道を行く旅人の足音が、二人の間をすり抜けていく。
「……それで?」
エリアスが促す。
「街で、少し働いてもいい?」
蓮は、まっすぐに彼を見る。
「全部じゃなくていい。少しでいいから。」
「却下だ。」
即答だった。迷いもない。
「危険だ。身元も定まっていない。時間も無駄になる。」
理由は淡々としている。
だが、そのどれもが、彼女を案じてのものだと分かる。
「分かってる。」
蓮は、苦笑する。
「全部、正論。」
それから、少しだけ声を落とした。
「でもね……お願い。」
エリアスは眉をひそめる。
「私の心の安寧のために。」
その言葉に、彼ははっきりと息を止めた。
「……それは、脅しか?」
「交渉。」
蓮は即答する。
「私、迷惑をかけたままだと、前に進めないタイプなの。」
しばらく、エリアスは黙り込んだ。
視線は遠く、街道の先に向けられている。
(厄介なことを言う。)
そんな気配が、はっきり伝わってくる。
「……どんな仕事を想定している。」
折れた。
それは、蓮にも分かった。
「宿の手伝いとか。食堂の配膳とか。短期で終わるやつ。」
「危険なものはやらない?」
「やらない。」
「夜遅くまで?」
「しない。」
「俺の目の届く範囲で?」
「うん。」
条件が、一つずつ積み上げられる。
まるで、契約のようだ。
「……数日だけだ。」
最後に、エリアスはそう言った。
「それ以上は認めない。」
蓮の顔が、ぱっと明るくなる。
「ありがとう!」
「礼は言うな。」
彼は小さくため息をついた。
「納得しないまま進まれる方が、面倒だ。」
それでも、その声音はどこか諦めが混じっていた。
次に立ち寄った街は、フォルトゥナ城への中継地として栄えている場所だった。
城下ほど大きくはないが、宿と商店が集まり、人の往来も多い。
エリアスは宿を確保すると、蓮を連れて食堂へ向かった。
「ここで聞いてみる。」
厨房から漂う匂いに、蓮の腹が鳴る。
それを聞き逃さなかったエリアスが、わずかに口元を緩めた。
「……空腹は、判断力を鈍らせる。」
「今のは関係ないから。」
店主は、二人を見るなり首を傾げた。
エルフと人間の組み合わせは、やはり珍しいらしい。
事情を簡潔に説明すると、店主は蓮をじっと見てから言った。
「三日だけなら。昼の手伝いね。」
「本当ですか?」
蓮の声が弾む。
「お兄さんの言う通り、力仕事はさせない。危ないこともなし。その代わり、真面目にね。」
「はい!」
話がまとまると、店主はエリアスを見る。
「……過保護ね。」
その一言に、彼は答えなかった。
否定もしない。
昼の食堂は、想像以上に忙しかった。
蓮は店主から借りたエプロンをきっちりと結び、厨房と客席を行き来している。
皿を運び、空いた食器を下げ、注文を聞き取る。
動きはまだぎこちないが、声ははっきりしていた。
「こちら、日替わりのシチューです。」
皿を置く手が、ほんの少し震える。
だが、客が礼を言うと、蓮はすぐに小さく笑った。
(……真面目すぎる)
客席の隅。
壁際の席で、エリアスは飲み物を前にして座っていた。
頼んだのは、薄めの果実酒を一杯だけ。
ほとんど口はつけていない。
視線は、終始、蓮の動きを追っていた。
皿を落としそうになって踏みとどまる瞬間。
別の客に呼ばれて小走りになる背中。
店主に指摘され、深く頭を下げる姿。
そのたびに、エリアスは無意識に肩に力が入る。
(過剰だ……)
そう思いながらも、止める気はなかった。
蓮は、誰かに見られていることに気づいていない。
いや、気づいてはいるのだろうが、それどころではないのだ。
「すみません、今お水を!」
声が裏返りかける。
慌てて咳払いをしてから、もう一度言い直す。
「今、お持ちします。」
エリアスは、ふっと息を吐いた。
店主が厨房から顔を出し、蓮に声をかける。
「蓮ちゃん、包丁使える?」
「はい。」
即答だった。
「じゃあ、野菜刻んで。」
「分かりました!」
厨房に入った蓮の姿は、客席からは半分しか見えない。
だが、エリアスには十分だった。
まな板の音。集中した横顔。
手際はいいほうではない。
だが、一つひとつ、確認するように丁寧だ。
(……だから、放っておけない。)
二日目、三日目。
蓮は少しずつ慣れていった。
客に呼ばれる前に動き、皿を下げるタイミングも掴み始める。
「ありがとう、助かるよ。」
そんな言葉をかけられるたびに、蓮は照れたように笑った。
エリアスは、相変わらず同じ席にいた。
同じように飲み物を頼み、同じように、彼女を見ていた。
「……あんた、監視役?」
最終日の午後、店主が苦笑しながら言った。
「保護者だ。」
即答だった。
「はは、でしょうね。」
その日の仕事が終わる頃。
蓮は店主に呼ばれ、厨房に残った。
「今日で最後だろ?」
「はい。」
「何か作っていきな。」
蓮は一瞬、目を丸くした。
「私が、ですか?」
「簡単なのでいいよ。あそこの保護者に成長具合を見せな。」
少し迷ってから、蓮は頷いた。
火を起こし、鍋をかける。
刻んだ野菜に、少量の肉。
調味は控えめだ。
(エリアス、濃いの苦手そうだし……)
出来上がったのは、素朴なスープだった。
「……どうぞ。」
恐る恐る、器を差し出す。
向かいに座るのは、言うまでもなくエリアスだ。
彼は一瞬だけ器を見てから、匙を取った。
一口。
次の一口。
無言。
蓮は、落ち着かない。
「……どう?」
「悪くない。」
それだけだったが、
空になった器が、答えだった。
「よかった……!」
蓮の顔が、ぱっと明るくなる。
「ごちそうさま。」
そう言って、器を返すエリアスの表情は、いつもより柔らかい。
(この三日間は、無駄じゃなかった。)
その夜、宿の部屋に戻る途中。
「……働くの、向いてるな。」
ぽつりと、エリアスが言った。
「え?」
「一生懸命すぎるのは、問題だが。」
それでも、否定はしない。
蓮は少し照れて、笑った。
「じゃあ、次は適度に休みながらやる。」
「そうしろ。」
そう言いながら、彼は歩調を、ほんの少しだけ蓮に合わせた。
その夜。
蓮は布袋に、わずかな銅貨をしまった。
大した額ではない。
だが、それでいい。
借りを返すためではなく、自分が自分であるために。
(ちゃんと、自分らしく前に進めている。)
蓮は、静かに目を閉じた。




