祝福を携えて
一ヶ月目の朝は、驚くほど静かだった。
森に差し込む光も、鳥の声も、いつもと何も変わらない。
けれど蓮は、胸の奥に小さな実感を抱いていた。
今日で、ここでの時間が終わる。
荷は多くない。
借りていた道具を返し、身の回りのものをまとめるだけだ。
それでも、集落を歩くたび、声をかけられる。
「もう行くのか?」
「気をつけてな。」
引き止める言葉はない。
だが、送り出す空気がある。
それが、かえって胸に残った。
広場の端で、エリアスが待っていた。
「準備はいいか?」
「うん。色々助けてくれてありがとう!」
「あぁ。」
短くそう言って、彼は視線を森の奥へ向ける。
「……出発前に長老のところへ寄ろう。」
蓮は一瞬、首をかしげたが、何も聞かずについていった。
長老のもとに集まっていたのは、数人だけだった。
医師、年長のエルフ、そしてエリアス。
長老の家の奥、普段は使われていない部屋に通された。
天井は高く、絡み合う枝葉の隙間から、朝の光が静かに差し込んでいる。
床には、淡い色の紋様が描かれていた。
それは装飾ではなく、長い年月をかけて自然に刻まれた“痕”のように見えた。
「そこへ立ちなさい。」
促され、蓮は円の中央に足を踏み入れる。
空気が、わずかに変わった。
重くなるわけでも、張りつめるわけでもない。
ただ、森に包まれる感覚が、はっきりとした。
長老のほか、医師と年長のエルフが数名、円の外側に立つ。
エリアスは一歩後ろに控えていた。
「これは儀式の一つだ。」
長老はそう告げる。
「我らエルフが、“仲間として害さぬ”と認めた者にのみ行う。」
蓮は、思わず息を呑んだ。
医師が、小さな器を差し出す。
中に入っているのは水だ。
だが、森の清水とは違う。
わずかに金色を帯び、静かに揺れている。
「受け取り、飲みなさい。」
言われるまま、蓮は器を受け取る。
水は冷たくも熱くもなく、手のひらにしっとりと馴染んだ。
口に含んだ瞬間、胸の奥に、すうっと何かが流れ込む感覚があった。
痛みはない。
ただ、身体の内側で、長く留まっていた違和感が、静かにほどけていく。
年長のエルフたちが、低く詠唱する。
森の呼吸に近い、調べのような音だった。
「この森は、お主を受け入れた。」
長老の声が、重ねられる。
「外の者でありながら、奪わず、踏み荒らさず、支えることを選んだ。」
詠唱が止み、光がゆっくりと薄れていく。
円の紋様も、最初からそこになかったかのように消えた。
「これより先」 長老は静かに告げる。
「お主が森に背を向けぬ限り、この森もまたお主に背を向けることはないだろう。」
蓮は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。」
集落を離れる時間になった頃、リュミエが駆け寄ってきた。
「蓮!とうとう行っちゃうのね。」
「うん。」
「……また来る?」
その問いに、蓮はすぐには答えなかった。
「分からない。でも……来られたら、来たいな。」
リュミエは、少し安心したように笑った。
その様子を見ていたエリアスが、口を開く。
「フォルトゥナ城まで、俺が送る。」
蓮は目を瞬かせた。
「え?」
「森を出たら、悪いが目隠しをさせてもらう。この場所が外にばれないようにするためだ。」
「はい。」
「ある程度、背負って行ったら、ちゃんと下ろすから。」
言葉は公的で、感情は挟まれていない。
だが、拒否の余地もなかった。
「……お願いします。」
それだけ言うと、エリアスは頷いた。
森を出てしばらく歩いたところで、エリアスは足を止めた。
「ここからだ。」
そう告げると、用意していた布を取り出す。
柔らかい布で、目を覆っても息苦しさはなさそうだった。
「結ぶぞ。」
「うん。」
視界が閉ざされた瞬間、音が際立つ。
足元の土を踏む音、葉擦れ、遠くで鳴く鳥。
だが不思議と、恐怖はなかった。
隣にいる存在が、揺るがないと分かっているからだ。
次の瞬間、ふっと身体が浮く感覚。
エリアスが背負ったのだと、すぐに分かった。
「重くない?」
「問題ない。」
それだけのやり取りで、再び歩き出す。
森の中を進んでいるはずなのに、どこか違和感があった。
枝が頬をかすめない。
地面の起伏が、妙に滑らかだ。
(……道が、分からない。)
そう気づいた時、蓮は内心で小さく息を吐いた。
これが、エルフの森なのだ。
入ることはできても、知ることは許されない。
どれくらい歩いたのか分からない。
時間の感覚が、曖昧になっていく。
だが、不意に胸の奥が、ほんのりと温かくなるのを感じた。
(……あ)
儀式の後から、時折感じる感覚だ。
森の中で深呼吸をした時と、よく似ている。
安心とも違う、拒絶されていないという確信。
エリアスは、何も言わない。
だが、歩調がわずかに変わったのを、蓮は感じ取った。




