名もなき手当て
翌朝。
森に差し込む光は、いつもと変わらず柔らかだった。
蓮は、いつも通りの時間に起き、いつも通りの身支度を整え、
エルフの集落の中へと足を運んだ。
食料の仕分けを手伝い、子供たちと顔を合わせ、
空いた時間には弓の手入れをする。
それは、ここへ来てから変わらず続けてきた日課だ。
だが、その「いつも通り」は、周囲にとってはそうではなかったらしい。
「おはよう、蓮。」
「今日も頼むぞ。」
声をかけられる回数が、明らかに増えていた。
しかもその声音が、どこか柔らかい。
(……あれ?)
蓮は内心で首をかしげる。
今までだって冷たくされていたわけではない。
だが、今朝のエルフたちは、距離が一段階縮まったような、そんな親しみを含んだ視線を向けてくる。
物を渡す時、ほんの少しだけ手を近づけてくる。
頼みごとをする時、遠慮がない。
それでいて、尊重もある。
「……なんか、空気変わった?」
広場で合流したリュミエにそう囁くと、彼女は嬉しそうに頷いた。
「うん。フィオレルお爺ちゃんのことだと思う。」
「ああ……そんな大したことじゃないのに。」
「でもね。」
リュミエは声を落とす。
「仲間を大切にしてくれて嬉しかったんだと思う。」
何かを成し遂げた感覚は、本人にはほとんどなかった。
ただ、背中を貸した。
ただ、手を伸ばした。
それだけだ。
だが、エルフたちにとっては、外の者が手を貸してくれたことが珍しかったのだ。
午前の手伝いを終えた頃、蓮は子供たちと森の外れで遊んでいた。
木の実を使った簡単な遊びや、追いかけっこ。
弓を持ちたがる子には、危なくないよう構えだけを教える。
その中で、ふと、一人の子が蓮の顔をじっと見つめた。
「ねえ、蓮。」
「なあに?」
その子は、少し言いにくそうに視線を泳がせてから、
意を決したように言った。
「その、おでこの傷……どうしたの?」
一瞬、周囲が静かになる。
他の子供たちも、同じことを思っていたのだろう。
蓮の額に走る、薄く残った傷跡。
ここへ来た時から、ずっと消えていない。
「……来た時から、治らないね。」
その言葉に、蓮は思わず苦笑した。
「ああ、これ?」
軽く指でなぞりながら言う。
「この傷はね、どうやら消えないみたいなの。」
その瞬間だった。
特に女の子のエルフたちが、はっと息を呑み、
みるみるうちに悲しそうな顔になる。
「え……」
「ずっと、そのまま……?」
その反応に、蓮の方が慌てた。
「いやいや! そんなに深刻なものじゃないよ。」
慌てて手を振る。
「痛くもないし……ほら、勲章みたいなものだから。」
そう言って、にっと笑ってみせる。
「勲章?」
「うん。色々あった証、みたいな。」
子供たちは顔を見合わせる。
納得したような、していないような。
それでも、蓮の笑顔に安心したのか、遊びは再開された。
だが、その裏で。
子供たちの胸に残ったのは、
「消えない傷」という言葉だった。
その日の夕方。
それぞれの子供たちは、こっそりと親に相談した。
「蓮の傷、消えないんだって。」
「可哀想だよ。」
「なんとかできないの?」
親たちは最初、困ったように笑った。
だが、話は一人から二人へ、家から家へと広がっていく。
「フィオレルの件の蓮だろう?」
「あの子か……」
「確かに、ずっと残っているな。」
気づけば、集落のあちこちで、
“蓮の傷をどうにかできないか”という話題が交わされるようになっていた。
もちろん、本人は知らない。
リュミエも、その一人だった。
夕食後、彼女は少し迷ってから、エリアスに切り出す。
「ねえ、お兄ちゃん。」
「どうした?」
「蓮の額の傷……消えないんだって。」
エリアスは、ぴたりと手を止めた。
「……そうか。」
「なんとか、できないのかな?」
リュミエは真剣な顔で言う。
「薬草とか……」
エリアスは少し考え、首を横に振った。
「簡単な話じゃない。でも……医者に聞いてみる。」
それだけ言って、話を切り上げた。
翌日、エリアスは森の医師を訪ねた。
事情を説明し、蓮の傷について尋ねる。
医師は静かに頷き、こう答えた。
「本人の傷を、実際に見ないと何とも言えない。だが……見たところで、消せるかどうかは分からん。」
「……そうか。」
「それに」 医師は少し言葉を選ぶ。
「下手に期待を持たせれば、心の傷の方が深くなることもある。」
エリアスは黙って聞いていた。
「消えないものを、無理に消そうとすることが、
必ずしも善とは限らん。」
それは、エルフとしての慎重な判断だった。
だが、それでも。
その夜。
集落の片隅で、静かな話し合いが行われていた。
長老、医師、数名の年長のエルフ。
「消す、というより……」
誰かが言った。
「“癒やす”方法はないか。」
「あの薬草があるだろう。」
「だが、あれは色がつくやも…」
意見は割れた。
誰も、無責任なことは言えない。
結局、決断したのはエリアスだった。
直接触れない。
本人に知らせない。
生活を変えない。
ただ――
「いつも使っているもの」に、ほんのわずかな可能性を忍ばせる。
森の清水と医者からもらった薬草。
顔を洗うために使われる水に、薬草を溶かしておく。
誰にでも影響しないほど薄く、だが、確かに再生を促す調合。
それが成功するかどうかは、分からない。
失敗すれば、何も起きないだけだ。
数日後。
蓮は朝の身支度の途中で、ふと手を止めた。
鏡代わりの金属板に映る自分の額を、もう一度見る。
(……あれ?)
確かに、薄い。
よく見なければ分からない程度にまで、色が落ちている。
指でなぞっても、引っかかりはない。
触感も、周囲と変わらない。
「……本当に?」
信じられず、何度も角度を変えて見る。
その日の昼、リュミエや子供たちが駆け寄ってきた。
「蓮! やっぱり薄くなってる!」
「……やっぱり?」
「うん! ほとんど分からないよ!」
蓮は呆然としながら、自分の額を押さえた。
「どうして……?」
その答えを、誰も口にしない。
そして、一週間後。
「……消えかけてる?」
完全ではない。
だが、遠目にはほとんど分からないほどに、傷は和らいでいた。
「この森のおかげかな……」
そう呟いて、蓮はそれ以上深く考えなかった。
その夜。
エリアスは一人、森を見上げる。
(これでいい)
功績を誇るつもりはない。
感謝される必要もない。
ただ、彼女が笑っていられるなら、それで。
森の奥で、静かに風が木々を揺らした。




