三百年目の花
距離は、最初に聞いていたほど遠くはなかった。
だが、森の奥へ向かう道は緩やかな起伏を繰り返し、ところどころで根が地表に露出している。
特に最後の坂は思いのほか急で、足場も安定しない。背中のフィオレルの重みは軽いとはいえ、慎重に歩かなければならなかった。
「はぁ……少し、時間がかかってしまいましたね。フィオレルさん、遅くなってごめんなさい。」
息を整えながらそう言うと、背中から穏やかな声が返ってくる。
「いやいや。わしのわがままに、ここまで付き合ってくれただけで十分じゃよ。ありがたい。」
その言葉に、蓮は少し肩の力を抜いた。
木々の合間から差し込む光は、すでに昼の鋭さを失い、柔らかく森を包み始めている。
「……この辺りに、咲いているはずなんだがな。」
フィオレルは周囲を見回しながら言った。
「どんな花なんですか?」
「赤色だ。情熱を感じる色でな……花弁はもっと大きく、こう、重なり合うように咲く。」
蓮は視線を巡らせ、足元や木の根元、少し開けた場所を探す。
「これですか?」
彼女が指差したのは、低い草むらに咲く小ぶりな赤い花だった。
「いや、それではない。もう少し……存在感のある花じゃ。」
何度か同じやり取りを繰り返しながら、二人は少しずつ場所を変えていった。
だが、時間だけが静かに流れ、目当ての花はなかなか姿を見せない。
気づけば、森の色がゆっくりと変わり始めていた。
木々の影は長く伸び、空気に夕方特有の冷たさが混じる。
「……このままだと、夜になってしまいますね。」
蓮はそう言って、背中のフィオレルに声をかけた。
「暗くなると、見つけにくくなります。フィオレルさん、私……明日も、また背負って来ますから。今日は、ここまでにしませんか?」
一瞬、沈黙が落ちた。
「……そうじゃな。」
フィオレルの声は、どこかしょんぼりしていた。
「妻には、少し待ってもらうとしよう。」
その背中越しの落胆が、蓮の胸にちくりと刺さる。
彼の言葉は理性的だったが、三百年という歳月を共にした相手への想いが、そこに滲んでいた。
蓮は立ち止まり、少しだけ考える。
「……分かりました。」
そう言って、顔を上げた。
「じゃあ、見えなくなるまでは探しましょう!」
自分でも驚くほど、明るい声が出た。
「最後まで、諦めるのはやめましょう。」
「……すまんな。」
フィオレルの声に、少しだけ張りが戻る。
二人は再び歩き出した。
今度は、互いに言葉を交わすこともなく、ただ必死に視線を走らせる。
木の根の陰、岩の隙間、崖に近い斜面。
夕暮れの光が、森の輪郭を曖昧にしていく。
「……もう、厳しいかもしれませんね。」
そう呟いた、その時だった。
「あった! あそこじゃ!」
フィオレルの声が、森に響いた。
蓮は思わず顔を上げる。
彼の視線の先、少し崖に近い場所に、確かにひときわ大きな赤色が揺れていた。
重なり合う花弁は、夕陽を受けて輝いている。
「本当だ……!」
蓮は慎重に近づき、足場を確かめながら進んだ。
「ここまで運びますね。」
崖の手前、あと数歩というところで、フィオレルを地面に降ろす。
「ここからは……わしが行く。」
杖をつきながら、彼は一歩ずつ前へ進んだ。
蓮は息を詰めて、その背中を見守る。
指先が、花の茎に触れた瞬間。
フィオレルの表情が、子供のようにほころぶ。
「……ああ。」
だが、その次の瞬間だった。
足元の土が、ずるりと滑る。
「――っ!」
身体が前のめりに傾く。
「フィオレルさん!」
蓮は反射的に駆け寄り、その手首を掴んだ。
踏ん張る。
足が震える。
それでも、離さない。
「……っ、今、引き上げます!」
全身の力を込めて、彼を引き寄せる。
数瞬後、二人は無事、安定した場所へ戻っていた。
「怪我は……!?」
蓮が息を乱しながら尋ねると、フィオレルは一瞬きょとんとした後、にやりと笑った。
「無事じゃ。」
そして、握りしめた手を差し出す。
「これもな。」
そこには、しっかりと赤い花があった。
胸の奥から、安堵が溢れる。
「……よかった。」
そう呟いた蓮の声は、少し震えていた。
森を戻る頃には、すっかり日が落ちかけていた。
だが、集落の近くまで来ると、松明の光がいくつも揺れているのが見えた。
「フィオレル爺さんが帰ってこないって、家族が心配してさ。」
駆け寄ってきたエルフが言う。
「みんなで探してたんだ。」
「すみません……私が……」
蓮が頭を下げかけた、その時。
「もう! 本当に、心配したんだから!」
そう言って、一人の女性エルフがフィオレルの元へ駆け寄った。
同じ白銀がかった髪。
優しくも芯のある眼差し。
「……ああ、すまんかった。」
フィオレルは蓮の背中から降り、彼女の前に立つ。
「どうしても、今日渡したくてな。」
そう言って、先ほど摘んだ花を差し出した。
「わしと、三百年も共にいてくれて、ありがとう。これからも……ずっと側にいてくれ。」
一瞬、言葉を探すような間。
それから、はっきりと。
「愛している。」
周囲から、わっと拍手が起こる。
女性エルフは涙を浮かべ、花を受け取り、フィオレルに抱きついた。
その光景を、蓮は少し離れた場所で見つめていた。
三百年。
言葉にすれば簡単だが、その重みを想像することすら難しい。
それでも、確かにそこにある想いは、胸を打った。
「……全く、心配したぞ。」
隣から、低い声がする。
振り向くと、エリアスが立っていた。
「いつも帰ってくる時間になっても戻らないし。」
「ごめんなさい。」
蓮は素直に謝った。
「どうしても、フィオレルさんを手伝いたくて。」
「……そういう時は、俺にも相談してくれ。」
少しだけ、言葉を選ぶような間。
「一人で抱え込む必要はない。」
「……うん。これからは、そうするね。」
そのやり取りの後、蓮は思い出したように声を上げた。
「あ、そうだ。」
彼女は小さな布袋から、淡い水色の花を取り出す。
「私も、花を摘んだの。いつもお世話になってるお礼に……はい。」
エリアスは、目を瞬かせたまま、それを受け取った。
「……俺に?」
「うん。」
それだけ言って、蓮はくるりと向きを変える。
「リュミエ!」
名前を呼ぶと、すぐにリュミエが振り返った。
「これ、あげる。いつものお礼!」
今度は、淡いピンクの花。
「え、いいの?」
「もちろん!」
二人は顔を見合わせて笑う。
その様子を、少し離れた場所で、エリアスは黙って見ていた。
手の中の水色の花を、じっと見つめながら。
エルフの森には、今日も変わらず、静かな優しさが満ちていた。




