背に預けられた想い
エルフの森での生活は、想像していたものとは少し違っていた。
もっと閉鎖的で、よそ者には冷たい場所なのだと思っていた。
だが実際には、静かで、慎重で、そして自然の優しさを感じられた。
朝は、鳥の声で目を覚ます。
目覚まし時計の電子音ではなく、複数の音が重なり合った、自然の合図。
最初の頃はそれだけで起きてしまい、二度寝という概念が通じないことに戸惑ったが、数日もすると身体が勝手に順応していた。
エリアスは相変わらず寡黙だったが、必要なことはきちんと教えてくれる。
森で踏んではいけない場所。
音を立ててはいけない時間帯。
採集してよい植物と、触れてはいけないもの。
「森は生きている。だが、すべてが優しいわけじゃない。」
そう言って差し出された注意書きのような言葉を、蓮は一つずつ胸に刻んでいった。
食料調達の手伝いは、最初こそ失敗の連続だった。 罠の仕掛け方を間違え、空振りに終わったり、採集した木の実が“まだ若い”と注意されたり。
それでも、誰も責めなかった。
「覚えが悪いんじゃない。人間の尺度で考えているだけだ。」
エリアスのその言葉に、妙に救われた気がした。
責められない代わりに、期待もされていないのではないか、そんな不安が消えたわけではない。
だが、少なくともここでは、学ぶ時間が与えられている。
子供たちとの時間は、さらに意外だった。
最初は遠巻きに様子をうかがわれていたのが、今では嘘のようだ。
「この人、面白いよ! 変な歌知ってる!」
変な歌、というのは、おそらく元の世界で覚えた童謡のことだった。
旋律も言葉も、この世界では奇妙に聞こえるらしい。 それが逆に受けた。
「もう一回!」
「今の、どういう意味?」
「踊りはないの?」
気づけば、蓮は即席の先生役になっていた。
歌って、追いかけられて、転んで笑われて。
その輪の中で、彼女は久しぶりに“考えずに笑う”という感覚を思い出していた。
夜になると、弓の稽古が待っていた。
「力じゃない。視線と呼吸だ。」
エリアスはそう言って、蓮の背後に立ち、腕の角度を直す。
指先に伝わる微かな緊張。 弓弦が鳴る、乾いた音。
弓を引く時間は、不思議と頭が空になる。
フォルトゥナ城のことも、魔王のことも、元の世界のことも、いったん脇に置ける。
ただ、今ここに立ち、呼吸を整え、放つ。
その感覚が、蓮には心地よかった。
夜は、焚き火を囲む。
誰かが薬草の話をし、誰かが狩りの失敗談を語る。 笑い声は大きくないが、確かに温度があった。
蓮はその輪の端に座り、聞き役に回ることが多かった。
言葉の端々から、エルフたちが森とどう付き合っているのかが伝わってくる。
守るために、距離を置く。
愛するために、踏み込まない。
その在り方は、どこか彼女自身の立場と重なっていた。
時折、夜更けに一人になると、手紙のことを思い出す。
届いたかどうか。
読んで、誰が、どんな顔をしたのか。
想像はできる。
だが、それ以上は考えないようにしていた。
ここでの生活を通じて、朝の空気が澄み渡る瞬間や、 子供たちに名前を呼ばれるとき、 弓の弦が指に馴染んできたと感じるとき。
蓮は、ふと、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
もし、違う形で出会っていたら。
もし、帰る場所がなかったら。
そんな「もしも」を考えてしまうほどに。
ある夕暮れ、蓮は森の縁で採集を終え、立ち止まった。
木々の隙間から差し込む光が、金色に揺れている。 遠くで、子供たちの笑い声が聞こえた。
「……もう、迷子じゃないよね。」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
この森で生きることはできる。
それは、確かだった。
このようにして、蓮は少しずつ、エルフの森での生活に馴染んでいった。
ある日の午後、採集の帰りに森の奥へ続く小径を歩いていると、切り株に腰を下ろして休んでいるエルフの姿が目に入った。
白銀がかった長い髪を後ろで緩く束ね、年齢を重ねた皺さえも気品に変えてしまう、さすがエルフと言うべきか、老齢であっても整った、美しい男性だった。
「こんにちは!」
蓮が声をかけると、彼はゆっくり顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「やあ。人間の娘か。もう、この森にも慣れたようだな。」
その声音は落ち着いていたが、よく見ると、片足をかばうようにしている。
「こんなところで、どうされたんですか?」
そう尋ねると、彼は少し照れたように視線を逸らした。
「実はな……今日は、わしと妻の結婚三百年目の記念日でな。」
「三百年……!」
思わず声が上がる。
彼はくすりと笑った。
「若い頃、妻に求婚した時に渡した花がある。今日も、同じ花を贈ろうと思って森に入ったのだが……」 そう言って、痛めた足に視線を落とす。
「年には勝てん。休み休み来ていたが、少し無理をしたようだ。」
「それなら、私が取ってきましょうか?」
自然と口をついて出た提案だった。
だが、老エルフは首を振った。
「気持ちはありがたい。だが……あの花は、わし自身が摘んで、わしの手で渡したい。」
その目は、驚くほど真剣だった。
「プロポーズの時も、そうだった。今も、それだけは譲れん。」
そこまで遠い場所ではない、と彼は言った。
だが、この足では時間がかかるだろう。
蓮は少し考え、それから、ぱっと顔を上げた。
「じゃあ……背負っていきましょうか?」
一瞬、時が止まったようだった。
老エルフは目を丸くし、次の瞬間、声を上げて笑った。
「はは……人間とは、本当に面白い。そうしてくれると、わしは非常に助かるが…。」
「背中の心地は悪いかもしれませんが。」
「構わん。わしの名はフィオレルだ。三百年連れ添った妻のためなら、どんな姿でも恥ではない。」
そう言って、素直に背中を預けてくる。 想像以上に軽く、拍子抜けするほどだった。
「では、お願いする。」
どこか少年のように弾んだ声で、フィオレルはそう言った。
蓮はしっかりと足を踏みしめ、森の奥へと歩き出す。 背中越しに伝わるのは、長い時を生きてきた者の温もりと、変わらぬ想いだった。
この森には、まだ知らない優しさが、たくさんある。
そう思いながら、蓮は静かな木々の間を進んでいった。




