静謐の森で
青年に導かれ、森の奥へと進むにつれ、周囲の気配はさらに静まっていった。
枝葉の擦れる音も、夜鳥の声も、どこか遠い。
焚き火の名残の匂いすら、森に飲み込まれていくようだった。
やがて視界が開け、小さな木造の家が現れる。
巨木の根元に寄り添うように建てられたそれは、森と一体化しているかのようで、外壁には蔦や苔が自然に絡みついていた。
青年が扉に手をかけた瞬間、中から軽やかな足音がして、勢いよく扉が開いた。
「お兄ちゃん、おかえり!」
ぱっと現れたのは、淡い金色の髪を揺らす少女だった。
大きな瞳を輝かせ、青年の胸元に飛びつく。
長い耳が感情に合わせてぴくりと動くのが印象的だった。
「今日は少し遅かったね。……あ、」
少女はそのまま視線を横に滑らせ、蓮の存在に気づく。驚いたように一瞬言葉を詰まらせ、それからおずおずと問いかけた。
「そ、そちらの方は……?」
蓮は一歩前に出ると、背筋を伸ばした。
夜の森での疲労が嘘のように、所作が整う。
「はじめまして。獣に襲われていたところを助けていただきました、蓮と申します。本日はこちらでお世話になります。」
腰を折り、丁寧に礼をする。
アストリアで身につけた、貴族子女向けの挨拶そのものだった。
その瞬間、青年と少女はそろって目を瞬かせる。
その外見とは別人のように整った態度を見せたのだから無理もない。
「……ずいぶん、きちんとしてるな。」
青年がぽつりと呟く。
「あ、えっと……。」
蓮は少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
少女はすぐに気を取り直し、ぱっと笑顔になる。
「私はリュミエ! この人はお兄ちゃんで、エリアスっていうの。」
紹介され、青年エリアスは軽く頷いた。
「エリアスだ。……改めて言うが、人間がこの森にいるのは異例だ。今夜は遅い。詳しい話は明日聞く。」
「はい。ありがとうございます。」
リュミエは蓮の周りをくるりと一周し、興味津々といった様子で覗き込む。
「人間って、ほんとに耳が短いんだね。あと、目の色も……」
「リュミエ。」
エリアスが低く名を呼ぶと、少女ははっとして口を閉じた。
「今日はもう夜だろ。話すのは明日だ。」
「……はーい。」
不満そうに頬を膨らませながらも、兄の言葉には逆らわず、素直に頷く。その様子に、蓮は思わず微笑んだ。
家の中は外観と同じく質素だったが、驚くほど整っていた。
木の香りが心地よく、必要最低限の家具が無駄なく配置されている。壁には弓と矢が立てかけられ、棚には薬草らしき束や、丁寧に磨かれた道具が並んでいた。
案内された客間は小さな寝台と机、椅子が一つあるだけの簡素な部屋だったが、布は清潔で、窓辺には乾いた花が飾られている。
「ここを使え。」
「ありがとうございます。」
部屋に入った途端、緊張が緩んだのか、蓮の腹が「ぐう」とはっきり音を立てた。
静寂の中で妙に響き、蓮は一瞬固まった後、顔を真っ赤にする。
「……何も食べていないのか?」
エリアスが眉を寄せる。
蓮は小さく頷いた。
「は、はい……気づいたら、もう夜で……」
「そうか。」
それだけ言うと、エリアスは部屋を出ていった。
しばらくして戻ってくると、木皿に盛られた簡単な食事を差し出す。香草のスープと、焼いた根菜、硬そうだが香ばしいパン。
「口に合うかは分からない。」
「いえ、十分すぎます。」
蓮は両手で皿を受け取り、ゆっくりと食べ始めた。素朴な味だが、身体に染み渡る。森の中で張り詰めていたものが、少しずつ溶けていくのを感じた。
その夜、蓮は久しぶりに深い眠りに落ちた。
翌朝。
「ねえ、蓮! 起きて!」
勢いよく扉が開き、リュミエの声が響く。
「朝だよ、朝!」
蓮は慌てて飛び起き、慌ただしく身支度を整えた。
朝食の席には、すでにエリアスも着いていた。昨日と同じように質素だが、温かい食事が並ぶ。
しかし、食事が始まるや否や、矢のような質問が飛んできた。
「あなた、本当に人間なの?」
「どうしてあんなところにいたの?」
「魔物、怖くなかった?」
「なぜフォルトゥナ城に行きたいの?」
蓮は一つ一つ、言葉を選びながら答えた。
「人間です。……迷っていました。怖かったですけど、どうしようもなくて。フォルトゥナ城には、どうしても行かなければならない理由があって……」
核心には触れず、曖昧に笑って誤魔化す。
少し考えてから、付け足すように言った。
「もしフォルトゥナ城が難しければ、ガランでもいいんですけど……」
その言葉に、エリアスとリュミエは顔を見合わせた。
しばしの沈黙の後、エリアスが静かに口を開く。
「……どちらにせよ、ここからは非常に遠い。」
「え?」
「人間の足で、無事に辿り着ける保証はない。道も、安全もな。」
リュミエも頷く。
「この森の外は、今あんまり良くないよ。魔物も増えてるし。森の皆も、戦える人以外は森の外に出ないようにしてるの。」
蓮は箸を止め、二人を見つめた。
遠い。その言葉は、覚悟していたはずなのに、改めて胸に重くのしかかる。
それでも、蓮は俯かなかった。
「……教えていただき、ありがとうございます。」
その声音には、諦めも恐怖も混じっていたが、それ以上に、進む意思がはっきりと宿っていた。
エリアスはその目をじっと見つめ、何かを測るように、しばらく黙り込んだ。




