4
いつもと違う配置で机と椅子が置かれた教室で、緊張しているのは多分私だけだった。
「みぞれさんは内部進学希望ですね」
三年にあがってすぐに提出させられた進路調査のプリントを手にしながら、正面の席に座った担任の佐藤先生が言う。
私の隣には、お母さんがよそいきの空気感をまとってきちんと座っている。
中間テストの結果が返ってくるタイミングで、三者面談が実施されたのだ。
「ええ。……大丈夫、ですよね?」
お母さんの声は不安気だった。
「みぞれさんは授業態度も良いですし、成績も問題ありませんよ」
「そうですか、良かった。お恥ずかしい話、この子から学校のことあんまり聞いてあげられていなくて……。急に部活やめたっていうのもだいぶたってから聞いたんです」
「……聞かれなかったから」
だって、本当だったら部活で学校に行くはずの休みの日も家にいるのに何も聞かれなかったのだ。
一ヶ月以上たってから「そういえば部活は?」なんて聞いてくるから、こっちのほうがびっくりした。
「聞かれなきゃ言わなくてもいいじゃないでしょう、もう……」
でも、私の試合を見にきたこともないのに。部活の話を聞こうとすることもなかったのに。
それなのに、知ってどうするんだろう。そんなことを思う。
「まあ部活はせずに学業に集中する子もいれば、学外で自分がやりたいことをする子もいますし」
フォローするように佐藤先生が言うと、お母さんもそれ以上は追及してこなかった。
進路がもう決まっているからか、三者面談はあっさり終わった。
何かの埋め合わせをするように学校の話を聞いてくるお母さんと、連れ立って昇降口へと向かう。
校門から出たところで、漫然と相槌をうちながらちらりとお母さんの横顔をのぞく。
話が途切れたタイミングで、意を決して自分から口を開いた。
「お母さん……」
今日は、一緒に帰れる? そう口にしようとした。
「ごめん、みぞれ。お母さんこれから仕事に戻るから。一人で帰れるわね?」
からりと、普通に、当然のように、お母さんは言った。
「……うん、わかった。平気」
学校から出て大通りに向かうと、お母さんはちょうどやって来たタクシーを停めて乗り込む。
「いつもより遅くなると思うけど、大丈夫ね?」
「うん」
早口で言われたそれに頷く。
ばたんと、扉がしまり車は走り出した。
帰宅時間に差しかかっているからか、通りは車が行き交っている。
エンジンの音が、何重にもなって聞こえてくる。
急かすように点滅する信号機がたてる音が鳴り響く。
お母さんは仕事を抜け出して三者面談に来てくれた。
無理をして、来てくれた。
ありがとうって、思うべきで。
こんな気持ちになるのは、多分間違っている。
こんな気持ち、持つべきじゃない。
時間がたてば消えるでしょと、消えてと願って、心のなかで唱えながら帰路につく。
けれど胸のなかに渦巻くそれは、どれだけ歩いても消えはしなかった。
その日、いつも通り一人で食べる夕飯は、いつも以上に味がしなかった。
ただ噛んで、のみこんで、眠る頃には何を食べたかなんてこと、覚えてもいられなかった。
料理部の活動での食材は、あらかじめ冷蔵庫のなかにスミレさんが用意してくれている。
部費は月々五百円だ。足りなくないかと思って聞いたが、内緒の部活とはいえ顧問が理事長だから学校の部活に使う予算をうまいこと他と同額くらいは回しているらしい。
「あれ? 一つ足りなくない?」
三度目の活動の今日は前回話しにも出たオムライスを作ることになった。
今日は私たち以外はみんな来るのが遅くなるからと、嵐くんがあらかじめ皿やスプーンも端のほうに置いていったのだがその数がいつもより一人分少なかった。
雲雀ちゃんは今日は委員会で遅くなると連絡があったから、後から来るはずだ。なら後輩の二人のうちのどちらかだ。
でも、みんなの予定が合う日を活動日にしているはずなのに。急な予定でも入ってしまったのだろうか。
さあさあと窓の外から雨が降り込む音が聞こえる。窓に視線を向けると、ひとつだけ空いていた。
換気するのに一番最初についた嵐くんが開けたのだろうか。雨脚は徐々に強くなっている、吹き込んできてしまう前に閉めておこう。
窓際に向かい鍵もかけてから調理台に戻ると、ちょうど嵐くんも食材や器具の準備がおわったところだった。
「美月は今日は休み」
「お仕事?」
仕事なんてまだ想像もつかない身からすれば、学校がありながらも仕事をしているなんて超人のように思えてしまう。
「いや病院に行くから今日は来られないだけ」
「え! 病院? 風邪? 大丈夫? 嵐くんついててあげたほうがいいんじゃない?」
嵐くんはあっさりと口にしたけれど、病院に行くってことはちょっと体調が悪い程度ではないだろう。熱でも出たのかもしれない。
「ちがうちがう風邪とかじゃないから大丈夫」
「え?」
じゃあどうして病院に?
疑問が顔に出てたのか、嵐くんは少し悩むそぶりを見せたあとに口を開いた。
「……聞かれたらみぞれさんには教えていいって美月から言われてたから、話すんだけどさ」
そう言うと、嵐くんはひたりと私に視線を合わせた。いつもと異なる雰囲気にどんな話をされるのかと緊張が走る。
「美月さ、去年まで拒食症だったんだよ」
「きょしょくしょー」
ニュースとか、なにか、多分なにかでは聞いたことのある単語のはずだ。なのに頭のなかで漢字に変換されない。
「簡単に言うと、食べるのが怖くなっちゃう病気」
そうだ。きょは、拒むだ。
「美月さ、今はモデルの仕事が多いけど元々は子役やってただろ? でも小学生の高学年のとき――その頃って成長期だから当たり前のはずなんだけど、ちょっといつもよりふっくらした時期があってさ」
嵐くんの語り口は静かで、するすると詰まることがなかった。
きっと何度も頭の中で繰り返してきたのだろうなと、思った。
「それで、それに対してSNSでちょっと色々言われて、見なきゃいいのにあいつは見て、見てしまって見続けてしまって、そうしたらどこにいても自分が見られているように思いはじめて、ほんのちょっとでも体重が増えるのが怖くなって、食べなくなった」
骸骨みたいに痩せてるのに、その姿を見て、安心するように笑ってた。そう美月ちゃんの過去を語る彼の横顔は、寒々しかった。
衣替えをして生地の薄くなった長袖の上から自分の腕をぎゅっと掴む。
窓は閉めたのに、雨のひやりとした風が部屋を埋めたような気がした。
「まあでも、今のあいつは元気だから。うどんだってカレーだってちゃんと食べられる。美月が食べてる姿みぞれさんも見ただろ?」
私の反応を見てか、空気を明るくするように嵐くんが言った。
「うん、とっても普通だった。言われるまでまったく……美月ちゃんが、だなんて気づかなかったよ。それに、」
噂でだって、聞いたことがなかった。
「美月の症状、小学六年生のときが一番ひどかったんだけど、中学受験があるからって言って、その頃仕事ほとんど入れなかったんだ。ちょうど子役の仕事も減ってたところだったらしいから、タイミングが良いのか悪いのかって感じだったけど、休めて。あいつは休むのも嫌がってたけど、でも、見たらもうわかるくらいになってたから、そんな姿で出たらまた好き勝手にSNSで言われて美月は余計に駄目になる。だから止めた、あいつがちゃんと大丈夫になるまで」
嵐くんは、SNSをやっていない。
全部消したと、言っていた。
聞いたときは、珍しいな、男の子はSNSやらないのかな、なんてそんなことしか思わなかった。
どんな、気持ちで、嵐くんはSNSのアカウントを消したのだろう。
「なんでもいいから何かに集中するって美月にとっては良かったみたいでさ。当時の美月の成績だと御園井結構ギリギリだったんだけど、必死になって勉強しまくってたら成績も症状も良い結果が出て、入学する頃にはだいぶましになったんだ」
御園井には美月ちゃん以外には芸能の仕事をしている子はいない。だから入学してきたときはものすごく目立っていた。
一目見ただけで心配になるほど痩せていたなら誰かが口にしていただろうから、入学時には本当に症状は良くなっていたのだろう。
「けどあいつさ、去年の夏頃にSNSでバズっただろ? みぞれさんも多分知ってるよな」
「うん、見たよ」
小学二年生の美月ちゃんと、中学生になった美月ちゃんの写真を並べて「美月ちゃん中学生!?」とコメントがつけられた投稿が拡散されていた。
美月ちゃんは子役時代に当たり役があって、そのときのイメージが強かったのもあって大きくなった姿が話題になったのだろう。
「美月の仕事的には多く見られるって良いことなんだろうけどさ、でもたくさん見られるってことは、山ほどの個人の感想を向けられるってことで、それは当然良いものばかりなわけなくて」
SNSで流れてきた投稿に、コメントはたくさんついていた。
大きくなったねえとか、可愛いとか、肯定的な意見はたくさんあった。けど、劣化、とか。見た目を茶化すような発言も少なくない数あった。
それを見たときの私は、芸能人って色々言われて大変なんだなあ、ちょっとひどいなあなんて、そんなことしか思えなかった。
だってSNSでよく見かけることだから。昨日も今日も明日も、相手を変え状況を変え、何度も何度も見かけてきたことだったから。
たまたま対象になったその人が、どんな思いをするのかなんてこと、ちゃんと考えたことなんてなかった。
ここで出会って関わった美月ちゃんは、普通に笑って、普通にふざけたりもする、中学生だったのに。
そんな子が、ご飯の代わりにたくさんの嫌な言葉をのみ込んで、それだけで自分がいっぱいになって破裂してしまった。
想像するだけで、それはとても――。
「怖かった」
淡々とそう言ったけれど、嵐くんは多分強がる人で、本当なら怖かったなんて簡単に口にする性格じゃない。
「また美月が一番ひどい時期に逆戻りするんじゃないかって、怖がって、でも何ができるわけでもくて、そうしたらさある日、雲雀が言ったんだよ」
そのときのことを思い出すように嵐くんは目を細めた。
「料理部をつくろうって」
もともとは雲雀ちゃんのお母さんの話を聞いたことがきっかけだったらしい。
雲雀ちゃんのお母さんと、嵐くんたちのお母さんは同級生で、御園井のOGで、そして私たちと同じように内緒の料理部をやっていたそうだ。
その頃も顧問はスミレさんで、今とまったく同じスタンスで見守っていたらしい。
「なんか……すごいね……」
「な、すごいよな。俺も美月も御園井に来たのは母さんの影響だったけど、今もたまに不思議な気持ちになるときあるよ」
私も御園井に入学したのはお母さんたちが強く勧めてきたからだったけれど、嵐くんたちとは随分違うなとふと思う。嵐くんたちも雲雀ちゃんのところも家族仲がとってもいいんだな。すごいな。
「料理部の活動、美月すごい好きみたいでさ。毎回楽しそうにしてて、はじめて本当に良かったよ」
癪だけど、雲雀に感謝だな。なんて茶化すように言って嵐くんが笑う。
「俺たちだけでも良かったのかもしれないけど、大樹が来るようになって、最近はみぞれさんも来てくれるようになって、賑やかでなんかますますいいよな」
楽しそうに言ってくれることになんだか胸の奥がむずむずする。
「大樹くんのお母さんが美月ちゃんと知り合いだったんだよね? お仕事で一緒だったの?」
「いや看護師さんだったんだよ。病院でよく担当してくれてたのが大樹のお母さんだったんだ。ずっと気にかけてくれててさ、すごい助けてもらった」
「そうだったんだ……」
「定期健診のときに美月が料理部の話をしたら、うちの息子がしょっちゅう腹空かしてるから混ぜてやってくれない? 力仕事全部任せていいから。って言われてさ」
でも多分それは建前で、本当は美月のことを今も心配してくれてるからなんだよな。とそう言った彼の顔はちょっと大人びて見えた。
「良い人だね」
「ああ。なんか、大人って結構助けてくれるんだなーとか、思ったよ」
家族と先生以外の大人は遠い存在だけれど、良い人もたくさんいるらしい。それはちょっといいなと思った。
「まあそんなわけでさ、なんか色々言っちゃったけど、美月は大丈夫ってことが言いたかったんだよ。色んな人が助けてくれたからさ」
「うん……」
こういうとき、なんて言うのが正解なんだろう。わからない。
励ますのが正解? それとも、気にしないように接するのが正解なのかな?
わからない。でもわからないから、自分の心に正直に動くことにした。
「次の活動のとき、美月ちゃんが好きなもの作りたいんだけど、いい?」
別に、今更。昨日今日起きた症状でもないのに、昨日今日治ったわけでもないのに、今そんなことしたって仕方ないだろう。
そう思うけれど、でも、好きなものを食べて笑う彼女を無性に見たくなってしまったのだ。
「ありがとう、みぞれさん」
一度目を丸くしてから嵐くんはふわりと笑った。
ただ私がそうしたいからってだけだけど、美月ちゃんに喜んでもらえたらいいな。
「嵐くんが料理できるのは、美月ちゃんのためでもあるんだね」
普通の中学生男子にしては料理をする手つきが慣れ過ぎていると思っていたけれど、理由を知れば納得しかない。嵐くんは本当に良いお兄ちゃんなんだ。
「あー……、まあそれもあるかな」
予想していた照れではない濁しかたに違和感を覚えた。
「それ、も?」
「料理できるのは、美月がどうの以前に普通にただ必要だったからっていうか……」
「必要ってどうして?」
「俺が小学四年生のときに母さん死んでるから、自然と覚えたんだよね」
さあっと血の気が引いたのが自分でわかった。恥ずかしすぎて手が震える。
「ごめん」
同時に、さっき自分が思ったことが余計に胸を刺す。
家族仲がいいんだな。すごいな。――羨ましいな。なんて、そうじゃない。
そうじゃなかった。ただ、自分から大切にしようとしているだけなんだ。何も言えないままの、私とはちがって。
気まずさにうつむく。爪が白くなるくらいに両手を組んで握りしめた。目をぎゅっとつむる。謝ったって仕方ないのに、謝る以外の言葉が出てこない。
私が自己嫌悪でどうしようもなくなっていると、それを吹き飛ばすようにあっけらかんとした声が投げかけられた。
「なにが?」
頭を上げれば、嵐くんはいたって普通の顔をしている。
「なにがっ、て……」
無遠慮に聞いてしまった。美月ちゃんの話を教えてもらえて、みんなの内側に入れてもらえたような気になって。
きっと言いたくなかっただろうことを言わせてしまった。
「昔は俺もむかついてたよ。どいつもこいつもやべーこと聞いちゃったって顔するし。でもまあわかるんだよ。だってまさか親、死んでるとか思わないよな。そりゃ、びびるって」
親が離婚したって子はこれまで友達にもいたことがある。だから親のどちらかがいない子もいるんだってことはわかってたし、人はいつか死ぬんだってことは知識としては知ってる。
けれど、思わない。目の前にいる子の親が、そうなのかもしれないだなんてこと。
死なんて重いもの、どう扱っていいかわからない。こんなことを思うこともきっとひどい。でもわからない。
さっきみたいに、美月ちゃんのときみたいに、何か言えたらいいのに、今度は本当に何も言えることがない。
そして今、何も言えないまま傷つけただろう相手に気を遣わせている。
「ごめんなさい……」
申し訳なさすぎて目元に熱が集まる。絶対にいま泣くわけにはいかない。ぐっと奥歯を噛みしめた。
情けない顔をしているだろう私を見て、嵐くんは弱ったように笑う。
「でもさあ、みぞれさん。知らないから仕方ないのに、わざとでもないのに、後悔してさ。俺のこと傷つけたんじゃないかってへこんじゃうやつってさ、すげーいいやつだと思わない?」
そう言って、彼は裏のない笑みを浮かべた。鬱屈としたものなどない、晴れやかな顔だった。
「……嵐くんは、すごいね」
同じ立場になったとして、きっと私はそんな風には思えない。
どうすれば、どんな風に頑張れば、そんなことを思えるようになるんだろう。
「考えなきゃいけないから考えて、納得したかったから納得する理由を自分でくっつけただけだって、だからこんなのはすごいとかじゃないよ」
嵐くんは軽い感じで言ったけれど、そこまでちゃんと答えを出せているのがもうすごいと思う。
だからやっぱりすごいであってるよ。一緒にいるのが気後れするほどに、ちがうなと感じる。
そわりと行き場のない指先同士をきゅっと絡ませる。冷たい指先と冷たい指先では触れても温まりはしなかった。
「それに、本当にすごいやつ。なんかヒーローみたいなやつだったら、妹が拒食症になる前に気づけてたんじゃないかな」
ぽつりとこぼされたそれは、ひとりごとのような小ささだった。
伝えるためにしては小さすぎる言葉。けれど、彼の声は通りがいいから聞こえてしまった。
「嵐く……」
「お待たせー!」
元気のいい声に肩がびくりと跳ねる。
「――おせーよ、雲雀」
いつもの調子で嵐くんが言う。雰囲気の違いからして先程までの話はもう中断だろう。
最後の発言は気になるが今から蒸し返すこともできない。
「あれ、あんま進んでないね? どうかした?」
「どうもしてない」
すっかり中断していた作業を嵐くんはてきぱき進めていく。
「準備されてるこいつらが見えないのかお前には」
「見えてる見えてるそれはありがとう」
ふっと雲雀ちゃんが私のほうに視線を向ける。数秒ほどの時間でもじっと見つめられると、なんだか落ち着かない。
「みぞれちゃんケチャップは好きなんだっけ?」
「……うん」
ほっとした。一体何に? 答えは出ないまま、せっかくみんなで作ったオムライスなのに、この日の私は味気なく飲み込んでしまった。




