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四階にある第二家庭科室は使われていない。
昔は使われていたらしいが生徒数が少なくなった今は、利用されていない。
そうやって使われなくなった教室が、私が通う私立御園井学園中等部の四階には集まっている。
四階の窓から差し込む夕日が人気のない廊下をオレンジに染める。セーラー服の紺色のプリーツにも白い上履きにも夕日がのっている。
うつむくと、半端に伸びた髪が視界をさえぎった。
ずっとショートボブだったから縛らずとも良かったが、そろそろ結ばないと注意されるかもしれない。
吹奏楽部の練習の音が下の階から響いてくる。だがそれ以外は、自分の足音しか聞こえなかった。
今更もう真新しさなんてない通い慣れた学校なのに、急に知らない場所に迷い込んだような怖さを覚えた。
ふと足が止まる。
すると動きと連動するように、帰ろうかな。なんて、急速に気持ちがしぼんでいくのがわかった。
だいたい別に約束したわけでもないのだ。
仲良くもない相手から一方的に言われただけで、私は行くなんて返事もしていない。
なのに「じゃあ放課後、第二家庭科室にきてよ」なんて急に言われて、ちょっと、なんか、告白なんじゃとか、いやそうじゃなくても青春っぽい何かなのかもだなんて、期待に心が浮き立ってここまで来てしまった。けれどそんなことあるわけないと急に冷静になる。
だって、クラスメイトになってから一ヶ月ちょっとたつが彼と話したのは今日が初めてだったのだ。
どうして突然話しかけてきたのかもわからないくらい、接点はこれまでなかった。
だからきっと、少女漫画とかドラマみたいなそういうのじゃない。何か手伝ってとか、その程度だ。多分。
行かなくちゃいけないわけじゃない。そう思い目的地に背を向けようと方向転換したが、でもここまで来て帰るのも、なんだかきまりが悪く感じた。
それにやっぱり声をかけてきた理由だって気になる。行かなかったのにあとから理由を聞くことは気まずくてできない。
どちらを選んでも、なんとなくの気が進まなさがある。その場合、どうするか。
しばし悩んで、止めていた足を家庭科室へ向けて進めた。
帰っても、いい。でも最近の私はやることがなくて時間をもて余している。とっても暇なのだ。
だから、いい。雑用を頼まれたとしたって別にいい。ちょっと期待して浮かれた自分は恥ずかしいけれど、それが誰にバレたわけでもないし構わない。
使われていない家庭科室で何をするのか想像もできないけれど、何をするにしたって暇潰しにはちょうどいいだろう。そんな風にちょうどいい諦めで、私は第二家庭科室の扉に手をかける。
扉を開けると、同級生の女の子が裸足で謎の踊りをしていた。
「すみません間違えました」
情報が頭にたどり着く前に反射で扉を閉める。
だが、閉まりきる前に反対側から力をかけられ止められた。
「いやいや間違えてないよ。いらっしゃい花巻さん」
私を出迎えたのは、ここに来るように声をかけた張本人だった。
「柳井くん……」
柳井嵐くんとは、中学三年生になって初めてクラスが同じになった。
頭ひとつ分くらい自分より高い目線に合わせて上を向くと、爽やかな顔立ちに友好的な笑顔が浮かぶ。
何故だかぼんやりとブレザーより学ランの方が似合うだろうから、御園井の制服が学ランとセーラーで良かったね。なんてどうでも良いことを思った。
「入りなよ。作り終わる前に来てくれて良かった、伸びちゃうからさ」
「伸びる?」
家庭科室で作るものといえば料理か裁縫だろうが、伸びるとはなんのことだろう。その伸びる何かを作るのを手伝えばいいのだろうか。
ちなみに柳井くん以外にも人がいた時点で、告白という線はきれいさっぱり消えている。
「花巻さん?」
家庭科室に入ると、先程踊っていた女の子が裸足のままきょとんと首を傾げた。
「えっと、失礼します」
「いらっしゃーい」
ふよふよと両手で手を振ってきたのは、去年クラスが同じだった野々原雲雀さんだった。
会うのは久しぶりだが、髪を低い位置で二つにくくっているのは同じだったからすぐわかる。相変わらず小柄だけれど明るくて存在感のある子だ。
「野々原さんは、ええと、何を、してたの?」
言葉を選びながら恐る恐る問いかけると、彼女の大きな目が二度瞬く。
「何をって見たままだけど……。え? なんかめちゃめちゃ引いてない!? いや変なことしてたわけじゃないよ!」
「いや変ではあっただろ」
「急に裏切るな嵐くん!」
びしりと効果音でも付きそうな勢いで、腰に手をあてた野々原さんが柳井くんを指差す。
「盆踊りなんだか悪魔を呼び出す儀式でもしてるんだかわけわからん動きをしてたくせによく言うよ」
その呆れた調子からは親しみが感じられた。二人が仲が良いなんて誰からも聞いたことがなかったのに。
「いま人気のやつ踊ってたの! 盆踊りでも悪魔召喚でもないから!」
ほら! と、野々原さんが見せてきたスマホの画面には、言った通り最近よく流れてくるダンス動画が再生されていた。
「そうだな、手と足が動いてるのは同じだな」
「ほらあ! 同じ………………ん?」
いぶかしげな表情で「ねえ、ちょっと、今のさあ……」と何か言いたげな野々原さんを無視して、柳井くんが苦笑する。
「変なの見せてごめんな花巻さん」
「え、いや、そんな」
驚いたのは確かだが、だからといって野々原さんの手前、肯定するわけにもいかない。
「あやしいことしてるわけじゃないからさ、引かないでくれると助かる」
多分、歓迎はされている。そう思うとすぐ帰る気にはならなかった。
「えっと、じゃあ聞きたいんだけど」
「お、何か気になることでもあった?」
「結局、野々原さんはどうして裸足で踊ってたの?」
疑問を口にすると、仁王立ちした野々原さんが堂々と言う。
「うどん踏むのに上履き履いてたらなんか嫌でしょ」
「うどん」
彼女の足元に目を向けると、ラップを引いた白いものの上に立っているようだった。
スーパーで麺になっているものしか見たことがなかったから、うどんを自分たちで作れることにも驚くが、それよりも。
「どうして?」
「え?」
「なんで放課後にうどん作ってるの?」
家庭科の授業では今ミシンでランチョンマットを作っている。料理の実習は二学期のはずだ。休んだ授業の振り替えとかではないだろう。
部活も違う。家庭科部は第一家庭科室を使っているはずだ。友達の一人が家庭科部だから知っている。
「嵐くん、説明したんじゃないの?」
「ん? あれ、どうだったかな」
「柳井くんからは『暇なの? じゃあ放課後、第二家庭科室にきてよ』としか……」
今日の昼休み。クラスの子と話しているときに、柳井くんから急に話しかけられたのだ。
「説明不足すぎ! 私より断然嵐くんのほうが不審者じゃん! というか花巻さんそれでよく来たね」
「いやまあ……暇だったから……」
あやふやな笑いを浮かべると野々原さんが心配そうな顔をする。
「暇だからって変な人についてっちゃ駄目だよ?」
「でも柳井くんが良い人なのは知ってるから」
優等生というタイプなわけではないが、友達だけじゃなく先生からまで頼られている姿を見たことがある。彼はいつも仕方なさそうにしながらもそれに答えていた。
「お、おおう」
奇妙に裏返った声を出した柳井くんに目を向けると、顔が真っ赤に染まっていた。
「嵐くんどうした」
「いや、なんか、ちょっと照れた」
他意はなかったはずなのに、その反応にこっちまで顔が赤くなる。
「私これそっと姿を消したほうがいいやつ?」
「妙な気を利かすな」
「ここにいてください」
間髪を入れずに柳井くんと私が言うと、にまにまとした笑いをこらえきれていない野々原さんが意味深な視線を向けてくる。
「こいつのことは無視しよう」
さくっと切り替える発言をした柳井くんの顔はまだ赤かった。
「なんの話してたっけ、あー、そうだ、どうしてって聞かれたんだったな。俺たちさあ、」
だが柳井くんの言葉の続きは、勢いよく開かれた家庭科室の扉の音によって遮られた。
「すんません遅くなりました!」
「遅れてごめん、もう作っちゃった?」
背の高い短髪の男の子が出した大声にびくりとする。だがそんなことよりも、一緒にやって来た女の子に目が釘付けになった。
「美月ちゃん!?」
有名人だ。学校の、というだけじゃなくて同い年なら彼女を知っている子は多いだろう。
子役からモデルになった美月ちゃんのSNSのフォロワー数は十万人を超えていたはずだ。
「あれ、知らない人だ」
「俺が誘ったんだよ」
「そうなんだ。初めまして、私のこと知ってくれてるんですね。ありがとうございます」
顔が小さい。なのに目が大きい。手足が細くてすらっと長い。本当に同じ人間なんだろうか。綺麗すぎて、なんだか違う生き物なんじゃないかとすら思う。
「多分うちの中等部の子は、みんな美月ちゃんのことを知ってると思う……」
「そうなら嬉しいですけどね」
謙遜するように笑うその顔も、絵画みたいに整っていた。
「どうして美月ちゃんが……」
つい口に出た私の発言を聞くと、美月ちゃんは苦笑しながら私の後ろを指差す。
「そこの、私の兄です」
「どうも。そこの兄です」
おどけた調子で柳井くんが片手をあげた。
「え?」
「結構みんな知ってるもんだと思ってたけど知らなかったんだな」
おずおずと頷く。兄弟もこの学校に通っているとは聞いたことがあったが、それが柳井くんだとは知らなかった。
けれど兄妹だとわかった今、二人を見比べてみると自然と納得する。
男女の差はあるけれど、柳井くんも綺麗な顔をしているのだ。
「先輩、ですよね。お名前聞いてもいいですか?」
私の制服のスカーフが青色なのを確認した美月ちゃんが言う。三年生は青色、二年生の美月ちゃんは臙脂色のスカーフをつけている。ちなみに一年生は緑色だ。
「花巻です。花巻みぞれ」
「可愛い名前! みぞれ先輩って呼んでいいですか」
意外な美月ちゃんの人懐っこさに面食らっていると、裸足のまま地味にまだうどんを踏んでいた野々原さんからも声が飛んでくる。
「え、ずるい私も私も! 私もみぞれちゃんって呼びたい!」
「便乗ですかあ?」
意地悪そうな顔で美月ちゃんが笑った。
「もうちょっと仲良くなってから言おうって、タイミング見計らってただけだもん……!」
悔しそうにじたばたと野々原さんがうどんを踏みしめる。その本当に悔しそうな姿を見たら、言い知れぬ気持ちが腹の底からこみあげてきた。
「雲雀ちゃん! って、呼んで、いいかな……?」
思ったよりも大きな声が出てしまったことに恥ずかしくなって、尻すぼみになってしまう。
なんだか初めて友達ができたちっちゃい子みたいだ。
「もちろん!」
でもそんな恥ずかしさは、雲雀ちゃんのきらっきらのまぶしい笑顔の前に消えていった。
そわそわする嬉しさに口がゆるむ。ここに来てからずっと身の置き場のない緊張が少しあったけれど、それがほどけて身体から力が抜けていった。
「俺も仲間にいれてよ、みぞれさん。美月も柳井だしさ」
「う、うん」
ちょっと話をするくらいならともかく、仲の良い男友達ができたことはなかったのでどぎまぎする。
でもさっきみたいな雰囲気になるのは居たたまれないし、妹の美月ちゃんもいるので避けたい。
顔が赤くなってないことを祈っていると、美月ちゃんの後ろに立っている男の子がじっとこちらを見ていることに気づいた。
「上里大樹っす! 大樹って呼んでください。よろしくお願いします、みぞれ先輩!」
私は見上げて、彼は下に視線を向けて、ばちりと目が合うと彼はにぱっと笑って言った。
からっとした笑顔と大きな声は、いかにも体育会系という感じの挨拶だ。
「よろしくお願いします……」
なんだか大型犬みたいな子だ。ゴールデンレトリバーとかラブラドールの姿が頭に浮かんだ。
「よし! 全員集合したことだし始めますか!」
ぱちんと胸の前で両手を合わせて雲雀ちゃんが言う。
「なんと麺はもうできています。踏みしめた私の足に感謝してよね」
高らかな言い様にぱらぱらと不揃いな感謝の声が返る。
「美月ちゃんと大樹は手を洗ってからね。ああ、みぞれちゃんもまだだったね」
「あの! ごめん、私まだみんながここにいる理由を聞いてなくて」
さくさくと雲雀ちゃんが話を進めていくが、私は待ったをかけた。
「理由?」
「まさかお兄ちゃん無理矢理みぞれ先輩のこと連れてきたの?」
大樹くんが不思議そうに、美月ちゃんがいぶかしげに言う。
「無理矢理じゃない。ちょうど説明しようとしてたとこに、美月たちが来て話が中断したってだけだ」
「でもそれ、みぞれ先輩は何も知らないままここまで来たってことでしょ? それってちょっとどうなの?」
「もうそのくだりは雲雀ともうやったんだよ……」
げんなりとした顔をして嵐くんは肩を落とした。
「ええと、それで、ね。聞いていい? みんながここにいるのって――」
答えは、大樹くんの更に後ろから返ってきた。
「料理部の活動ですよ」
大人の、もっといえば祖母くらいの年齢の女性の声。
「スミレさん、こんにちは」
「はい、こんにちは」
ひょっこりと大樹くんの後ろから、綺麗な白髪を丁寧にまとめたおばあちゃんが顔を出す。
「いつの間に来てたんですか?」
「みんながご挨拶してるあたりからですかねえ」
先生、なんだろうか。見たことのない人だ。でも学校にいるからには先生のはずだ。
役割のない大人は学校にはいない。先生か、用務員のおじさんか。それくらいしか選択肢がない。
「スミレさん?」
「はいはいスミレさんですよお」
疑問を含めて口にしたが、スミレさんとやらはふくふくと笑うだけだった。
「料理部は、ないはずです」
家庭科部はある。友達も入っている。けれど料理部はないはずだ。
うちの学校は同好会みたいな少人数の部活がそうあるほうではないから、三年生になっても知らない部活があるとは思えない。
それとも新設なのだろうか。でもついこの前やっていた新入生に向けた部活紹介に料理部はいなかった。
「ここはね、内緒の部活なんです」
内緒話をするようにスミレさんは言った。
「美月ちゃんが……」
芸能人の美月ちゃんがいるから、問題が起きないようにそうしているのだろうか。
そう思ったけれど、途中で口をつぐむ。
例えそれが事実だったとしても、学生生活を普通には送れないことをわざわざ口にされたくはないだろう。
「あなたは中等部三年二組の花巻みぞれさんですね」
口ごもったまま黙っていると、近寄ってきたスミレさんが穏やかな調子で言った。
「なんで、私の名前」
「スミレさんは生徒全員の顔と名前を覚えてるんだよ。すごいよねえ」
自分は知らないのに相手からは知られているというのはちょっと怖いことだ。けれどその不安は雲雀ちゃんの一言が拭ってくれた。
「スミレさん? は、中等部の先生なんですか?」
「授業は受け持ってないですけど、この学校の人ですよ」
「……どういうことですか?」
用務員か購買、もしくは給食のおばちゃんなんだろうか。でも白いブラウスに紺のパンツ、小ぶりなピアスを耳につけたスミレさんの姿は、作業仕事をするには綺麗すぎてなんだかちょっと違う気がした。
戸惑う私の様子に気づくと、スミレさんはちょっと申し訳なさそうに笑った。
「みんなみたいに私もちゃんと挨拶をするべきでしたね。ごめんなさい。この学校の理事長をしています、御園井スミレです。どうぞよろしくお願いいたしますね、花巻みぞれさん」
「理事長先生!?」
理事長先生といえば、学校で一番偉い人だ。
でも顔を見たことはなかったので知らなかった。全校集会で挨拶をするのは校長先生で、理事長先生が顔を出したことはない。
もしかしたら学校のパンフレットとかには名前が乗っているのかもしれないが、自分でこの学校に来ると決めたわけでもなかったので読んだこともなかった。
読んだとしても偉い人の文章なんて読み飛ばしてしまうから、覚えてなかっただろうけど。
「理事長先生が料理部の顧問をやってるんですか?」
校長先生や副校長だってやっていないのに?
「なんていったって料理部は内緒の部活ですからね。内緒の部活には、内緒の顧問がいるものです」
いたずら気な瞳だった。
「はあ…………」
反応に困りまぬけな返しになってしまう。大人のこういうのってどう返事をしたらいいのかわからない。
「さて、では初めましての挨拶もしたことですしそろそろ始めましょうか」
みなさん手は洗いましたか? と問うと美月ちゃんと大樹くんが「まだでーす」と子どもらしく答える。
「ほら、みぞれちゃんも」
言われるままに美月ちゃんたちのあとにつづき手を洗う。
「はいこれエプロン」
嵐くんに手渡された水色のエプロンは、市販品ではなくて小学校の授業で作るタイプのものだった。作りに見覚えがある。
「俺のじゃないよ、学校の余ってるやつだから気にせず使って」
「ありがとう」
セーラー服の上からエプロンをつける。家で料理の手伝いをすることもないから、久しぶりだ。
「麺はもうできてるよ! あとは切るだけ!」
「つゆは俺がやっといた」
「ありがとう二人とも。それじゃあもう、茹でて葱を切るくらいねえ」
そう言うと、スミレさんは私に話を向けてきた。
「せっかく来てくれたのだし、花巻さん葱切る?」
「切るだけなら……」
つい了承してしまったけれど、最後に包丁を触ったのがいつなのか思い出せない。去年の家庭科の料理実習では皿洗いをしていたから、小学生ぶりだろうか。
「じゃあ俺、うどん切って茹でるっす」
「それなら今日は私が片付けだね」
急に不安がわいてきたが、できないとは言いにくかった。だって野菜をちょっと切るだけだ。
子どもだってできるようなことをできないと口に出すのは抵抗がある。
「……花巻さん、大丈夫?」
「だだだだ大丈夫です! 切ります!」
勢いのままに調理台に向かう。雲雀ちゃんが用意してくれたようで、包丁と葱はすでにまな板の上に置かれていた。
一つ息をつくと、包丁を手に取る。細めに葱を切るだけだ。簡単だ。
大丈夫。きっと大丈夫。唱えながら右手を動かした。
「左手ぇ!」
途端にかけられた声の勢いにびくりと肩が跳ねる。
「左手、なんで左手、いやまず包丁を置いてくれ」
あわあわと動いた嵐くんの手は、最終的に頭を抱えていた。
「そ、添えると切りそうで……」
だったら切りにくくとも包丁オンリーで野菜と戦う方が安全だ。
「切らないために、押さえるほうの手は猫の手って習っただろ」
「習ったけど、でもなんか関節のとこそのままぞりっていきそうで怖くて……」
呆れられると思ったが、嵐くんはちょっと考える様子を見せた。
「ちょっと見てて」
そう言って学ランの上着を脱いで包丁を手に取ると、慣れた調子で葱を刻んでいく。
「こうやって包丁に対して指を垂直にすれば大丈夫だから」
私が手元をのぞき込むと、わかりやすくするためにかゆっくり包丁を動かして見せてくれた。
「な。大丈夫だろ? 安全だってわかれば怖くないよな」
やってみて、と言われるままに場所を交代する。
包丁を手に取る前に、左手を猫の手にして葱を押さえた。
「あってる?」
「あってるあってる」
恐る恐る垂直にした指に添わせて包丁を何度か動かす。
「……できた」
不格好で全然細くも切れていないけれど、怪我もせずにちゃんと切れていた。
そんなことが、嬉しくて。でもこんな誰でもできることで――。
「できたじゃん。やったな!」
「上手上手! ……うん、いや本当に私より上手だよ」
「それはまじでそう」
どことなく遠い目をした雲雀ちゃんの発言を嵐くんが真顔で肯定すると、その背中からすごい音が聞こえてきた。
「いってえ!」
「残りは嵐くんよろしくねー」
言い逃げながら雲雀ちゃんは私の両肩を掴む。押し進められるままに足を動かすと、うどんを茹でていた後輩コンビのもとにたどり着いた。
「私はきつねうどんにするけど、二人はどうする? 天ぷらは海老があるよ」
「私もきつねで」
「海老でお願いします!」
「おっけー。みぞれちゃんは?」
「私は、残ったやつで大丈夫だよ」
そもそも急に参加したのだ、もしかしたら私の代わりに誰かが食べられなくなるかもしれない。
「じゃあ、きつねと海老どっちが好き?」
「……海老」
軽やかな問いについ答えてしまうと、雲雀ちゃんは嬉しそうに「はあい」と言って笑った。
「はいよ、切るだけ切ったから好きなだけ使え」
そう言って机に置かれた皿の上には、こんもりと均等に切られた葱がのっていた。
隠れてしまっているのか私が切った大きすぎる葱はその中には見つからない。
じっと葱を見つめていると、視界の隅から小皿がずいっと押し出された。
「せっかくだし自分で切ったの食べたいかと思って分けたんだけど。葱、苦手?」
黙ったままなんとも言えない表情で見ていたから誤解したのだろう。否定するために慌てて手を振る。
「苦手じゃない」
「なら良かった」
ふと笑った顔は年下の子に向けるような優しさがあった。きっと美月ちゃんにたいしてもそうしてきたのだなと思うと、その優しさはすっと受け取ることができた。
「ありがとう、嵐くん」
受け取った小皿の上には自分が切った大きすぎる葱がのっている。うどんの薬味にするには主張が強すぎるサイズだ。
けれど自分で切ったものだと思うと妙な愛着がわく。
「柳井くんは面倒見がいいですね」
「まあ人生の大部分を兄として育ってきたんで」
「私のおかげだね」
美月ちゃんがにっこり笑うと、嵐くんは微妙そうな顔をした。美少女の微笑みも身内に対しては効果は薄いようだ。
「うどん茹であがりましたよ」
大樹くんはそのままちゃっちゃと人数分のどんぶりにうどんを分けていく。
「私のちょっとだけ少なめにしといてよ」
「もうしてる」
美月ちゃんのリクエストはいつものことなのだろう。端に置かれていたどんぶりを大樹くんは彼女の方に押し出した。
「ありがとー」
どんぶりを持ち上げた美月ちゃんは、もうひとつのガスコンロで煮たてられていたつゆをうどんにかけた。
そうすると先程からしていた香りが一層強くなった。
うどんの、つゆの匂い。醤油と、あとこれはなんの匂いだろう。
何が混ざって料理ができているのかなんて、これまであんまり気にしてこなかったからわからない。
「つゆは各自で好きなようにやってくれ」
「きつねはこっちね。海老天はこれです! なんとスミレさんが作っておいてくれました、拍手!」
雲雀ちゃんに言われるままに、みんなまばらにぱちぱちと手をたたいた。
「揚げたてを準備できたら良かったのだけど、今日に限って直前まで抜けられない仕事が入っちゃったのよねえ」
「いえいえ充分ありがたいっす!」
「ふふ、上里くんありがとうね。多めに作っておいたから食べたい人は遠慮せずに食べちゃってね」
スミレさんの申し出に、男子二人がすぐに反応する。
「余るならもう一本もらっていい?」
「俺もできれば……!」
男子ってなんでいっぱい食べられるんだろう。一人っ子で兄弟がいないから、学校での様子しか知らないけど、それでも自分とは食べる量がだいぶ違うのはわかる。
一体その食べた量はどこに消えているのだろう。ちょっと不公平だ。
「いいわよお。いっぱい食べなさい」
「あざす!」
みんなてきぱきうどんをよそっていく。
「みぞれちゃん、どうかした?」
ぼうっとみんなの様子を見ていると、雲雀ちゃんに顔をのぞき込まれた。
「うどん伸びちゃうよ。はやく食べよ」
ぎこちなく頷き、雲雀ちゃんから受け取ったお玉でどんぶりにつゆを注ぐ。
湯気がふわっと顔にあたった。どんぶりをささえる左手が熱い。
「ほい、海老天」
自分のにのせたついでに、嵐くんが私の持つうどんの上に天ぷらをのせてくる。
ありがとうという私の返答に生返事をして、彼は美月ちゃんの隣に腰をおろした。
みんな定位置がもう決まっているのか、悩むことなく座っていく。
「みぞれちゃんここおいで」
雲雀ちゃんの隣に着席する。向かいには、美月ちゃん嵐くん大樹くんの順で座っていた。
「みなさん準備できましたね」
最後に、ひとつ空いていた私の隣の椅子にスミレさんが座ると「それでは」の声かけでみんな手を合わせる。
「いただきます」
ずずずっとうどんをすすると、つゆのちょうどいいしょっぱさが口のなかに広がる。
雲雀ちゃんが踊りながら踏みしめたうどんは、お店みたいにちゃんと弾力のある噛みごたえがあった。
スミレさんが作ってくれた海老の天ぷらは、揚げたてじゃなくてもさくさくだった。
一口噛んでのみこんでいくたびに、お腹の底の方から身体があったまっていく。
食べながらみんなは「結構上手くできたんじゃない?」とか「美味しい! いっぱい踏んだ甲斐があるね!」とか「天ぷらめちゃめちゃ美味いっす」とか楽しそうに話していた。
給食以外で、こうやってわいわいしながらご飯を食べるのは最近もう全然なくて。だから。
お腹の温かさが、別のところまでやってきそうで。
「美味しいね!」
それは嘘じゃないけど、ごまかすために勢いよく食べすぎて、結局私も海老の天ぷらは二本もらってしまった。
「ただいま」
家にたいして帰宅の挨拶をして、薄暗いリビングに明かりをつける。
返事が返ってくることはない。まあいつものことだ。今にはじまったことじゃない。
部屋は、いつも冷たい。
「うどん、美味しかったな」
みんなで作って、みんなで食べて、それで帰りに次もまたおいでって言ってもらった。
時間がたったのに、まだほかほかと身体の内側があたたまっている気がする。
冷蔵庫にはいつも通り作り置きの夕飯が入っているだろうけれど、今日はもう何もいらないだろう。何しろ、うどん一人前分と海老の天ぷらを二本も食べてしまったのだ。
楽しかったけどなんだか疲れてしまったので、制服から部屋着に着替えてすぐにベッドに横たわる。すると、またたく間にすぐに眠気がやってきて意識はゆるゆると溶けていった。
意識が落ちる前に、目が覚めて今日の出来事がなくなったりしてないといいな。なんて、子どもじみたことを思った。




