スキル・オープン
「や、やだぁ!!聞いてないよこんなの!!」
その時、リリスの背中から、コウモリを思わせるような巨大な翼と、臀部から尻尾が生える。変化を解いたのだ。その理由はただ一つ。この場からの逃走───。
「っっ!?んなぁ!?」
だが、男がそれを許すはずもなかった。翼を広げて飛び立とうとした瞬間、リリスの体は強い力で引っ張られる。神がかった反射神経。ゼロコンマにも等しい世界の中、男は一瞬にしてリリスとの距離を詰めて、彼女の尻尾を掴んでいた。
「何逃げようとしてんだてめぇ」
「わ……わあ……ああ……!」
振り返り、男を見た時、リリスは言葉を失った。
それは、まさしく阿修羅の如き表情。あるいは目の前の"獲物"を確実に殺しに来ている捕食者か。どちらにせよ、リリスはこの瞬間、完全に理解らされてしまった。このままだと、自分は間違いなく殺されることに。
「やだやだやだやだやだ!!」
ブチリと音がする。自らの尻尾を引きちぎったのだ。サキュバスにとって尻尾は当然のことながら肉体の一部。その欠損は計り知れないもの。それでも恐怖が勝った。このまま行けば、確実に殺されることが分かっていた!
男は逃げ出したリリスを見て、手元に残された彼女の尻尾を投げ捨て、舌打ちをする。
「……おいクソ自称女神、いるんだろ」
呟く。群衆の中で様子見をしていたシュブに彼は気がついていた。
「じ、自称て!私は本物の女神……」
「あいつを追いかける方法はねぇのか」
シュブの抗議の言葉を無視して、男はリリスの逃げた先をずっと見つめていた。彼は知っている。ああいう類のものは、殺せる時に殺さなくてはまずいと。
「くっ……スキルオープン、ほらこれがお前のスキル。そん中から空でも飛べるチートスキルとかないの?」
男の態度に、シュブは怒りを感じるが抑える。事実として上級魔族サキュバス・リリスをこの場で討伐できれば大金星である。
スキルオープン。そう彼女が唱えると、男の前には半透明の画面が表示される。
この中の技能、スキルと呼ばれるものが自分が今、使えるものだと男は理解した。
「……こいつならいけるな」
「ん?飛翔系スキルがあったの?へ~中々便利なんだよねぇそれ」
「行くぞ!!『跳躍』!!」
「え、それちが」
そう言うと同時に、男は天高く飛び上がった。一瞬にして高く飛翔し、その姿は見えない。
無論、跳躍は飛翔系スキルではない。言葉通りの意味である!加えて言うならば、それは神が与えたチートスキルでもなく!ただの基礎技能なのだ!
つまるところ、今高く飛び上がったのは、男の身体能力でしかない!
「……まぁいっか!」
シュブは色々と突っ込みたかったが、遠く飛んでいった男を今は見守っていた。
遥か高い空の上、リリスはようやく恐怖に満たされた心から平静さを取り戻しつつあった。
「はぁ……はぁ……なんなのあいつ……あんな奴知らないし……ムカムカする……!」
そして次に来るのは苛立ち。理不尽な目にあったと、彼女の心は怒りに満ちていく。
「ていうか、ズルじゃない?不意打ち気味に突然やってきて、そうよ!私、サキュバスだし!あんな奴、ちゃんと色仕掛けいればよゆーだっつーの!」
ただの人間に一方的にやられたこと。それは彼女のプライドを大きく傷つけたのだ。
「あー!おしりがジンジンする!あの雑魚人間、尻尾を引きちぎりやがって……!」
「見つけたぞてめぇ!!」
「ぎゃあああああああああぁぁぁ!!!!」
突然の襲来!
リリスは遥か高い空の上。完全に安全地帯であると確信していた!だが違うのだ!男はずっと捉えていた!逃げる彼女を!そして跳躍により追い詰めたのだ!
「な、なんで!?チートスキル!?飛翔系の!?」
「跳躍じゃあ……思うようにてめぇをぶん殴れねぇなぁ」
そう、跳躍とはただ跳ねているだけ。空中制御などできない。ゆえに自由に空を飛ぶリリスに格闘戦などできるはずがない。
その事実を知ったリリスの表情はうって変わる。
「なにそれ?お、脅かしに来たわけ!?人間風情が……愚かねぇ!?」
「だから、てめぇをぶっ殺すスキルを……使う!!」
「ひぃぃ!!」
そんな彼女に与える絶望の言葉。それは他にスキルを所持しているということ。複数のチートスキルを有している勇者はいない。
跳躍とは基本スキルであり、決して特殊なものではない。
だが、現実として、リリスの飛翔を追いかけている時点でその異常性は明白であり、リリスにとっては「跳躍」とは何らかのチート的スキルだと誤認するには十分だった!
「いくぞ……ウェポンマスタリー!」
「……へ?」
男は、スティック状の長いパンを掴み、そう唱える。
ウェポンマスタリー。武器修練。跳躍と同じく、チートでもなんでもない、基本スキルである!
「ぷっ……ぷぷ!キャハハ!!なにそれ!なにそれ!パンじゃん!そんなんで私を倒そうって言うの雑魚人間がぁ?」
当然!リリスはこの時点で、男が自分に対して致命傷を与える術がないと確信した!だが……それは通常の範疇!
「ウェポン!マスタリー!!」
「キャハハ!だからそんな……の」
指を差し男を嘲笑うリリスの表情から少しずつ余裕が失われていく。
パンを掴む男の指が、パンに深く食い込んでいく。それと同時にパンそのものが、まるで重くそして鈍い武器のようなイメージが、リリスの頭の中になだれ込むのだ!
男はただスキル名を叫ぶだけ。それが敵を仕留める技と信じて。その狂気とも呼べる執心は、パンを武器と認識し、武器修練を強制適用させていく。
「ま、待って!実はわ、私には悲しき過去が」
男の修羅にも迫るその凄まじき闘気からリリスは確信した。男の持つパンはもはやパンではなく、パンの形をしている神器の類。少しずつなだれ込んでいく、男の力が、リリスを確実に殺す武器へと変えているのだ!
「な、仲間になります!ほら勇者パーティーって紅一点的なのいるでしょ!?」
「ウェポンッッ!!マスタリィッッ!!」
「あぁぁぁあぁああぁ゛゛ぁ゛!!」
叩き込まれるパン。その一閃はただ重く、そして暴力的にリリスの肩から腰に向けて振り下ろされる。
ただ力任せに振り下ろされたそのパンは、リリスの胴体を引き裂き、致命の一撃を与えたのだ。
「やめ」
リリスの命乞いの言葉、同情を誘う言葉。それら全てを無視し、男は更にリリスの頭頂部に向けてパンを振り下ろした。
「ぶっ潰れろぉぉぉッッ!!」
遥か高い空の上。重力に従い落ちていく中、その勢いに身を任せ、大地へと叩きつける!
リリスが垣間見た最後の景色は、涙で潤む景色と、阿修羅の如き戦鬼の姿。これは勇者か、否、暴力の化身そのもの!
「うわぁ!?な、なんだ!?なにが……ひぃ!」
村の群衆たちは、何が起きたのか理解できていなかった。
とてつもない爆裂音。クレーターのような跡地の中心部に、男と、原型を失ったリリスの死体が残されていた。