サキュバス
そして、その遺体を少女の前に突きつけて、小悪魔めいた笑みを浮かべて、告げる。
「あなたのパパは、ここにいるじゃない、パパの顔も忘れるなんて、ひどい子でちゅね~」
「え……」
そして思い切り、少女に黒焦げの、かつて父だった遺体を押し付ける。つい先程まで焼かれていたその遺体は熱が籠もっていて、異臭を発していた。少女は思わず尻もちをつき、反射的に父の遺体を払いのける。
払い除けた父の死体を、少女は見返す。
「ひっ……あっ……あぁ……!」
それの正体が、人間であることに、ようやく気がついた少女は嘔吐した。そしてリリスの言葉が頭の中に反芻し、遺体に父の面影があることに気がつき、嗚咽する。
「駄目じゃない、パパを粗末に扱ったら……親不孝な子……可哀想でしょう?」
少女の様子を、リリスは嗤いながら見る。心底楽しそうに。
群衆たちも一斉に嗤い出す。ゲラゲラゲラと、一斉に。
「ちっ、悪趣味な見世物だ」
男は踵を返し、立ち去ろうとする。彼は見世物に興味はない。目の前に映る光景も、戦場ではよくあること。もっと凄惨な光景を、山程見ている。
だと言うのに、この胸に響く鼓動は、何なのか。
「どうして!どうしてこんなことをするんですか!?おねぇさんは何なの!?私のパパは!?」
「その表情が見たかったの」
錯乱する少女。しかし、リリスのその言葉と同時に突然、大人しくなる。まるで糸が切れた人形のように。
「おお!リリス様の食事だ!」「羨ましい……あのクソガキ」「リリス様ー!俺も俺も!」
群衆はその様子を食事と例えていた。その言葉に、男は振り返る。
「……食事?」
広場の中央へと視線を送る。そこにはリリスとパン屋の少女が二人。だが少し、様子がおかしい。
「あ、あぁ……」
少女は口から泡を吹き痙攣をしていた。明らかな異常。
「あぁ~美味しい!素敵なご飯……♡」
一方リリスは、恍惚な表情を浮かべながら、少女の頭を掴んでいた。食事風景と呼ぶには、明らかに異様な景色。
「もう無理!我慢できない!ねぇ……もっと食べさせて!」
リリスは涎を垂らし、目を見開き、その名の通り捕食者のように、少女を両手で掴みかかろうとする。だが少女は無反応だった。どこか意識が遠のいていて、酷く憔悴しているようだった。
「お前にはこいつで十分だろ」
「ぶっ!?」
硬いカビの生えた干し肉の塊が、リリスの口に叩き込まれる。
気がついた時、男は駆け出していた。そして、少女が襲われる直前に、手に持った干し肉をリリスの口にフルスイングしたのだ!
「別にガキの一人がどうなろうが知ったことじゃあねぇけどよぉ……」
男は周囲を見回し、呆然とする群衆たちを睨みつける。
「手前が原因で命まで奪われるってんなら、流石に目覚めが悪いんだよこちらとしてはなぁ!」
パン屋の少女が、今こうして父を殺され、そして自身の命まで奪われようとしている。
その原因は自分にあると、今のやり取りで男は確信していた。
だから何だというのか。自分のせいで他人が死のうと、そんなのはどうでも良いことだ。
否!違うのだ!男が気に食わない理由は!何よりも目の前のリリスという女にあった!
「大衆を洗脳してガキいじめんのを正当化なんてよぉ!趣味がわりぃにも程があんだよこのクソ女!!」
そう、何よりも気に入らないのは、この空気だった!
有無を言わさないこの空気、正気を失った人々!そして行われる狂気の沙汰!男の逆鱗に触れるには十分だった!
「クソ女!?……それ……私に言ってるのかしら?……いや、お前は!?」
リリスは男の姿を見て、目を見開いた。彼女は知っている。男が何者かを。
「へぇ、勇者が久しぶりに出てきたんだ、でも一人だなんて舐め過ぎじゃない?」
「あ?」
そう、リリスは知っている。女神シュブにより召喚された勇者たちのことを!そして!リリスは知っている!数多くの勇者の倒し方を!
「自己紹介しようかしら?私はサキュバスのリリス。魔王様の幹部にして……ふふっダメよ、早い男は嫌われるわよ?」
男の殺気を感知したのか、リリスは指を鳴らすと群衆たちが彼女を取り囲む。そう、まるで彼女を守るように。
「話をしないかしら?ねぇ……この世界に転生してきて……色々と溜まってたりしないの?」
勇者の多くは、これでやられる。サキュバスのリリス。その本領は魅了である。加えてこの人の盾。今までの勇者は、この盾の前に何もできず、渋々彼女の土俵に上がらされていた。
そうなれば、後は彼女の思うがまま。サキュバスとしての力量で、文字通り骨抜きにされた勇者は数知れ
「うるせぇぇぇ!!黙って死ねヴォケ!!」
「はベシッ!!?」
叩き込まれる鉄拳!肉の盾ごとぶちこまれた男の鉄拳は、そのまま群衆ごとリリスを殴りつけたのだ。
当然群衆たちは骨折、内臓破裂、出血!重症であるが、それはリリスも同様だった。
「ちょ、ちょっと……この人たち知ってる?無関係な街の人たちなの、私の部下じゃないの」
「は?だからどうした?」
更に追加の鉄拳。容赦ない一撃がリリスを襲う。
「ごふっ……!」
"死体”ごしに叩きつけられた拳は、肉の盾を貫き、リリスの胴体に直接叩き込まれる。
とてつもない衝撃。リリスの口から血が吹き出る。
「邪魔するなら"敵”だ、こいつらが何者かなんて知ったことじゃねぇんだよカスが」
リリスにとって計算外だったのは、男が今までの勇者と違い、殺人など平気で行う人間であったこと。神が選ぶはずのない、反社会的な人間であったことだ!
「あ……?なんだこれ……」
だが、リリスは数多の勇者たちをこの手で倒したツワモノ。このようなことで倒せるほど甘い存在ではない。
男の周囲を、不思議な光が包み込む。
「レベルドレイン!?嘘でしょ何であんな高次元の奴が最初の街に……!」
遠巻きで、その様子を見ているものがいた。シュブである。
ズタズタにされた衣服の破片を目の当たりにし、呆然としていた彼女だったが、気がつくと男が消えていたことに気がつく。
苛立ちを感じながらも祭りの喧騒を聞きつけ、やってきたのだ!
しかし、そこで目の前にするのは上級魔族であるサキュバスと、自らが召喚した"男”の争いの現場!
「抵抗しても無駄、あなたはもう、私のもの。全部吸い尽くしてあげる……♡」
そして、レベルドレインとは対象の経験を奪う魔法。この世界で積み上げた異世界転生者としての力を吸い上げる魔術!多くの勇者がリリスの養分へと成り果てた、最悪の魔法である!
「…………」
男は黙ってリリスをじっと見ていた。身体におきた突然の異変。男にとっては未知の感覚。様子見にまわるのも無理もないことだった。
「女神も馬鹿よねぇぇ!私のごちそうをこうして提供してくれるなんて!」
勝利を確信し、高らかに宣言するリリス。そんな彼女にゆっくりと男は近づく。
「何々?命乞い?それとも力を振り絞って私と戦う?あはは、本当に健気~ほらぁがんばれ♡がんばれ♡」
「く、くそぉ~あのサキュバス調子に乗りやがってぇ……!」
シュブはその様子を、悔しそうに見ることしかできなかった。頼みの勇者がここで終わってしまうのを、ただ見ることしかできない。
やがて、男はリリスの目の前に立つ。
「へぇ~体力だけはあるんだぁ?もしかしたらドレインされた状態でも私を倒せ、ぎゃん!!」
男は無言でリリスを叩きつける。とてつもない膂力で叩きつけられた彼女は地面に頭を打ち付けられた。
「何がしたいんだお前?何かあると思ったが……本当に何も無いなんて」
「な、何がて……ドレイン!レベルドレイン!あんたのレベルはもう1で!ザコザコザーコになってるのに!!」
何が起きているのか、リリスには理解できなかった。今までの勇者は、レベル1になった瞬間、そこらの村人と変わりない戦闘力へと落ちたはず。なのにこの男は!まるで変わりないのだ!
「ん?レベル1……?あーなるほどね」
その異常事態にいち早く気づいたのはシュブ。そして遅れてリリスも気がつく。目の前にいる男の異常性に。
「ま、まさか……お前……」
震える指先で、男を指差す。その結論は、彼女にとって最悪なものだったからだ。
「最初からレベル1だったの!?」
そう、男はこの世界で一度も経験を積んでいない。否、厳密には女神シュブを殺した経験はある。故に当初、リリスは誤認した。シュブを殺害した分の経験値を吸収し、レベルドレインが通用したことに。
しかし違うのだ!男にはそんなもの誤差でしかなかった!
「知るかそんなもん」
「ひぃっ!!」
男は倒れているリリスに向かって思い切り蹴り上げる。まるで死神の鎌のような一撃だった。虚空は抉れ、小爆発を起こしたような風切り音。間一髪でリリスは躱す。
この時、リリスは失禁していた。
それは死の恐怖そのもの。初めて知る"規格外の怪物”。人間の筈なのに、まるで底の見えない化け物。