奈落の顕現、逆鱗の鉄槌
「エグジキエル様の仰るとおりだったな」
殺気の発生源が姿を表す。それは無数の騎士たち。
「娼婦風情が、協力に応じれば良いだけというのに、所詮は下民か」
「黙りなよ、あんたらこそおかしいんじゃないのかい!勇者様を殺そうとするなんて!」
男は空を見上げる。
男には星読みの知識がある。この世界に来て、星の位置は既に”覚えた”。時の経過を確認した。おおよそ一時間程度……。
それは王都中心からスラム街へ転送するだけの魔法ではなく、時間操作も追加したものだと判断できた。
魔王を名乗るものの魔法なのだ。そのくらいのエンチャントは可能だったのだろう。時間を稼ぎ、確実に勇者を仕留めるために。
「バカな女だ、俺をかばったのか?」
娼婦のママの頬を男は撫でる。一目で分かる痛々しい打撲痕。骨もいくつかヒビが入っているのが分かった。
「は、王都の騎士様だか何だか知らないけどね、あたしは自分の目で見たものしか信じないんだよ、勇者様が魔王なんて、ありえない、目を見りゃ分かるさ、あんたは、悪人になれないよ」
「なら見る目がないな、俺は悪人さ、この手でたくさんの人を殺してきた。命乞いをする子どもも、助けを求める老人も、みんな殺した」
男は覚えている。この手を初めて汚したあの日から。汚れて汚れて汚れて汚れ続けて、それでも生きるために。
目蓋の裏には、今もなお、殺めた者たちの姿が焼き付いている。
「人殺しの数で、我々を脅そうと言うならば無意味だぞ勇者よ」
騎士たちは男の様子に怯むことなどなかった。それどころか誇らしげに前に立つ。
「我ら、王都ナハトファルケ騎士団!百騎!百戦錬磨の精鋭なり!」「同じくガイストヴォルフ騎士団!六十騎!闇に紛れ異端を討つ!」「同じくラーベンシュヴィンゲ騎士団!八十騎!王国の剣なり!」
口上と共に一斉に構える。完全に統率された動きであった。
「我々にとって殺しなど日常。我々はこの王都の汚れを浄化する者。殺戮とは、浄化であり、聖なる義務である。異端たる勇者よ、貴様もまた我々の正義の一つとなるのだ!」
騎士団は、そう言うと、スラム街に火を放つ。炎は、瞬く間に広がり、街を飲み込んでいく。
「な、何をするんですか騎士様!」
燃え盛る家屋から、スラム街の住人が一人、飛び出してくる。松明を持った騎士へと駆け寄るが───。
「異端たる勇者を逃さないためだ。スラム街の住人など、いくら死んでも構わない。なぁ勇者よ?たくさんの人を殺してきた?それが脅しになると思っていたのならば滑稽でしかない」
騎士は、冷酷な笑みを浮かべ、駆け寄ってきた住人の胸を剣で貫く。住人は、「え」と、声にならない悲鳴を上げ、息絶える。
その瞬間、スラム街はパニックとなった。虐殺が行われようとしていることに。
「全てはエグジキエル様のために。地獄へと送ってやろう、異端たる勇者よ」
騎士たちの槍と剣が、男へと向けられる。殺意が、混沌と化したスラム街の中、鋭利な刃物のように男へと襲いかかる。
「地獄だと……?」
男はただ俯き、娼婦のママをリリスに託す。
「ちげぇなぁ……?」
男は天高く拳を突き上げた。
そして、その拳に力を込める。規格外の膂力が、拳に込められる。大気は震える。街を焼く炎が、舞い上がる煤が、土埃が、男の拳を中心に渦を描く。まるで、男の拳に引き寄せられているかのように、炎と煤と土埃が舞い踊る。
男は見据える。目が合った。遥か彼方、城でこちらを窺うエグジキエルと、目が合った。エグジキエルの顔に、戸惑いの色が浮かぶ。男の殺気に満ちた視線に、気づいたのだろう。
「ここがッ!!俺が地獄だッッ!!」
咆哮と共に男は地面を叩きつける。
瞬間、地面が炸裂し、王都の城が揺れる。
エグジキエルは男の咆哮を聞いて、悲鳴をあげた。その信じがたい光景は、遠く城から見るからこそ、その凄まじさが分かってしまった。
その場にいた騎士団たちは、娼婦は、リリスはその時、ありえない光景を見た。叩きつけられた拳を中心に地面が、地盤にヒビが走る。それだけではない。ヒビの隙間から、光が漏れ出す。
何の光か、そこまでは分からなかった。しかし誰もが理解した。
僅か数コンマにしか満たない、この刹那。しかし無限とも呼べるこの瞬間。真の絶技、地獄を前にした瞬間、人はこの時間を永遠に感じられるのだと。
そして、彼らは直感した。この後、想像を絶する厄災が訪れることを。
世界が、一変した。男を中心に、あらゆるものが吹き飛ばされる。地盤が吹き飛び、地殻変動を彷彿させる衝撃波。全員が何が起きたかも理解できず、ただその厄災に身を委ねるしかなかった。
「う、うぅ……ガハッ!な、なにが……!」
瓦礫の中、騎士団の一人が、意識を取り戻す。
周囲を見回すと、王都の一部は壊滅していた。建物は倒壊し、あれだけいた騎士団の多くは地面に倒れている。
「ひっ……!!」
そして、騎士団の一人はそんな地獄のような光景の中、一つの姿を見た。
炎の中、土埃舞い上がる中、一つの影。瓦礫の山を無言で歩く者。自分たちがいかに矮小であるか、思い知らされるほどの圧倒的存在感。暴力という言葉で形容するにはあまりにも不十分であった。
そう、炎を背負って歩く者は、勇者と呼ばれた男。凄まじい殺気と闘気と怒気は、騎士たちの心を一瞬にしてへし折った。
悪魔。そうだ、例えるならば、それこそが最も的確な表現だろう。
「おい娼婦、お前……あの王都は好きか?」
男は唖然とする娼婦のママに話しかける。彼は何一つ変わりない。普段と変わらない様子で、語りかけた。
「え、あ、あぁ……そりゃ不満もあるけど、生まれ育った街だし……」
「わりぃな、あの城は叩き壊す。俺は悪人だからな。見る目がねぇだろ?」
男の言葉に娼婦のママは息を呑んだ。
その時、彼女は周囲の状況に気がつく。先ほどの男の一撃。男が地面を殴りつけた場所から一直線に王都中心部の城へと続く瓦礫の道ができていた。
それだけではない。周囲は男の一撃の余波で地下水道が破壊されたのか、水がところどころ吹き出してきている。騎士団により放火され、今も燃えるスラム街だが、吹き出した水は火の手が広がるのを防いでいた。
「おら、とっとと行くぞリリィ」
娼婦のママの返答を待たずして、男はスラム街を後にする。その姿に、娼婦のママは思わず失笑する。
「いいや……思う存分やっちまいなよ、勇者様!」
既に小さくなった男の背中に向けて、精一杯の声援を送る。届くかどうかは、分からない。




