蒙昧裂くは、英雄の咆哮
「この……裏切り者!!」
一方、中央広場。男に向けて、石つぶてが雨あられと降り注ぐ。男は、微動だにしない。
「皆さん!この男はテュポンの討伐で弱っている!今なら皆の力で殺せるかもしれない!皆の手で倒すのです!真の魔王を!そう、皆が勇者となるために!!」
エグジキエルは、高らかに宣言する。もはや隠すことのない、男への殺意。男は、ただ黙ってその言葉を聞き流す。
その時、クロスボウを構えた老人が、群衆の中から歩み出る。
「ま、ま、魔王め!孫の敵だ!!死ね!!」
老人の叫びとともにクロスボウの矢は放たれる。男は微動だにしない。クロスボウの矢は、男の胸部に突き刺さった。
群衆たちは「おお」とどよめく。それは魔王を倒せるのではないかという期待。
だが……
「めんどうくせぇ……」
ただ一言。
男は、一言、そう呟く。その声は、不快感を露わにしていた。たった一言で、群衆は静まり返る。
矢を引き抜く。矢じりには血が付着すらしていない。男の防具に突き刺さっただけで、皮一枚すら貫かなかったのだ。
「やせ我慢ですか?勇者としての名声は失われた。その辛さは想像を絶するはず。そうやって不快感を露わにして感情に蓋をしたところで……」
「こんなもん、俺にとっては日常だ、ああ、そうか……この世界はクソ女神が素人を勇者として送り込んだんだっけか……?」
大きくため息をつく。ようやく"敵”の意図を理解した。
あまりにも幼稚で男はその意味すら理解できなかった。こんなものが、一体何になるというのか。
「侮蔑、蔑み、嘲笑、貶め、侮辱、愚弄、冷笑、罵倒、誹謗、中傷、冒涜、排他、差別……何もかもが俺にとっては日常だった。クソみたいな世界で生き抜くには、他人の目など、気にして生きる余裕なんてなかった」
男は自嘲気味に笑う。
───ああ、だからこそクソ女神に苛ついていたんだな俺は。
こんな、”こんなこと”で傷つくほど、"平和で恵まれている”世界の若者を、戦地に送り込む、そんな所業は鬼畜外道以外の何者でもないのだから。
「どこにいるか知らねぇがなクソ魔王……手口が慣れている……!"初めて”じゃねぇなッ!!」
そしてその怒りは、女神だけでなく、魔王にも向けられるものだった。
こんな策略に嵌められた勇者たちは、さぞ無念だっただろう。見知らぬ世界で、ようやく得られた信頼を、こんな簡単に崩されて、絶望の末に死んでいったというのならば……無駄死に以下である。
世界に何も残せぬまま朽ち果てるなど、いかに残酷なことか。
「決めたぜ!てめぇは確実にこの手でぶっ殺すッ!!」
握りしめた矢は、へし折られる。男の怒気と咆哮が、周囲に轟き、群衆の心を揺さぶる。
英雄の器とは、証明とはなんだろうか。並外れた強さ。否、それだけではない。かつて、神界に選ばれた人類史上初の英雄がいた。
人と獣の境界が曖昧だった時代。その英雄は、人々に人としての生き様を示したのだ。獣と異なる道。それは、たとえ行く手に暗黒が広がっていようと、恐れることなく立ち向かうこと。英雄は人々に教えた。恐怖に慄くことは恥ではない、と。恐怖に打ち勝ちながら、己のために、隣人のために、未来のために、立ち向かうことこそが、人の証なのだと。
原初の英雄は、人々に勇気を授けた。英雄とは、強さだけを誇る者ではない。人々に、正しき道を示す者。だからこそ、英雄と称えられ、勇者と呼ばれるのだ。
その精神は、後世へと受け継がれ、英雄の器として脈々と生き続けている。
男の咆哮には、確かにその原初の英雄の魂が籠もっていた。それは集団ヒステリーに陥っていた者たちを正気に戻す、一筋の光明となった。
「よく考えたら勇者様の強さはたくさん知ってるのに……そんな卑怯なことするかな……」
冷めていく空気。計算外の出来事に、群衆の中に紛れていた扇動家は焦りを隠せなかった。よもや、その存在感だけで集団ヒステリーを起こした群衆を黙らせる豪傑がいるなど、思いもしないからだ。
「た、大したことねーよ、あんな奴!大物ぶってるだけだろ!」
それでも、扇動家の一人は与えられた仕事を全うするために叫ぶ。しかしそれは、あまりにも場違いでか細い言葉だった。
だが、その言葉は、思いもよらぬ方向へと転がり始める。
「大したことないって言えば……シュブ様の話だと魔王テュポンの他に魔王がいるはずなんだよな、どうして姿を現さないんだ?」
「テュポンは本当に暴君だった!でも……もう一人の魔王は……テュポンがいるときも隠れてたってことだよな」
「魔王なんて大物ぶってるけど、テュポンが倒されたからビビってるんじゃないのか!」
勇者を貶めるはずの扇動は、いつの間にか、魔王を貶める方向へと転換していた。
人々は、今、勇者である男の圧倒的な力を目の当たりにしている。言葉でどれだけ貶めようとも、目の前に存在する現実の前には、無力なのだ。
一方、未だ姿を現さないもう一人の魔王は、どうだろうか。テュポンが君臨していた時代も、その影に隠れ、テュポンが滅びた今も、姿を現さない。だが、女神シュブは、その魔王の存在を声高に主張していた。
その結果、人々の目に、もう一人の魔王はどう映っただろうか?
テュポンを恐れ、そして今、勇者の存在に怯えている臆病者───。そうとしか、考えられないのだ。
「な、な、な……何を言ってるんです!?魔王が臆病者!?」
それを面白くないと感じる者が一人。エグジキエルである。彼からすれば魔王の脅威を利用して、男を弾劾しようとしていたのだから、当然の反応とも言える。
「魔王は絶対的な存在!世界の支配者!君臨者!騙されてはいけない!」
「でもさぁ……テュポンと違って……なぁみんな……?」
群衆たちは皆、口には出さないものの、エグジキエルの訴えに冷ややかな視線を送っていた。
「いや、今回の魔王はテュポンより厄介だ」
そんな中、エグジキエルを擁護する声をあげたのは、意外にもそれは、騒ぎの渦中であった男だった。
男の言葉に一番驚きを見せたのはエグジキエルだった。この場で黙っていれば良いものを、なぜ自分を助けるような発言をするのか、理解に苦しむ。
群衆の注目が集まる。男の次の言葉を待っているのだ。
「居場所が分かるなら、倒すことができる。だが今回の魔王はどこにいるかもわからねぇ、これが厄介と言わずしてなんというんだ?」
「い、いや……勇者様、倒すことができるって、そんな簡単に言いますけど……魔王ですよ?」
テュポンは誰一人倒せなかった。それが魔王の絶対的強さの証明だったのだ。しかし、男は違う。
「だから何だ?俺のいた世界じゃあ魔王なんて……」
男の世界では魔王という存在は物語の世界での話。いたかどうかも分からない虚像。物語の多くは退治される悪役であり、中には年端もいかない子供にやられる話も多い。
そのとき、男はふと思った。女神フレイヤが女神シュブを迎えに来ないのは、もう一人の魔王がいると仮定していた。
だが……先ほどのシュブの態度。魔王を倒さなくてはならないのに、まるでその素振りがない。
───嘘を、ついている?




