藪から密室
運転中の大槻と助手席でうなだれる洋一を後部座席から映した映像に切り替わった。
大槻が言いにくそうに口を開いた。
「先ほどは取り乱されていたのであえて触れなかったのですが、三重子さんというのは……」
「三年前に交通事故で失った妻だ。すまない。今はその話はしないでくれ。頭がいっぱいなんだ」
「す、すみません」
「いや、いい」
気まずい沈黙が落ちる。
洋一がぽつりと呟いた。
「警察から掛かってきたということは、葵は事件に巻き込まれたということか」
「まだ葵さんと決まったわけではありませんが、その可能性もあるでしょうね」
大槻が当たり障りのない答えをする。
まもなく、警察署に到着した。二人はエントランスから受付へと進む。洋一が前のめりになって言った。
「水無月と申します。陸奥さんという方に呼ばれて来ました」
「水無月洋一様ですね。そちらの方は?」
受付の女性は大槻に目を向けた。大槻は一歩下がる。
「私は送迎に来た職場の者です。——こちらでお待ちしていましょうか?」
後半は洋一に向けられたものだった。彼は「申し訳が立たない」と言いながら首を振った。大槻は心配そうな表情を作りつつも彼の意思を尊重したようだった。
「では私は帰社しますが、送迎が必要になったらいつでも連絡してくださいね。すっ飛んできますので」
そう言い残して大槻は去っていった。
受付嬢が改めて洋一を署内へと案内する。彼女は洋一を連れて無機質な廊下を黙々と進み、すぐにある部屋の前で立ち止まった。取調室ではない。扉には「面談室」と書かれた札が貼られていた。受付嬢は扉を開けて見せた。向かい合う一組のソファとその間に木製のテーブルが配置されている。
「こちらのソファでお待ちいただけますか。まもなく担当の者が参りますので」
洋一は無言で頷き、左側のソファに腰を下ろした。それを見届けると受付嬢は出ていった。
洋一はテーブルに両肘をついて頭を抱えた。
「なんで俺ばっかり……いや本当に苦しかったのは葵の方なのか……三重子……俺はどうしたらいい……」
すると、扉が開いて男が二人入ってきた。片方はブラウンの背広を着ていて刑事っぽい見た目をしている。もう片方は警官の制服を几帳面に着こなし、手帳を手にしていた。二人は洋一の向かいのソファに座った。
ブラウンの背広姿の男が口を開いた。
「ご足労いただき感謝します。私が陸奥で、こちらが土屋といいます。土屋が会話の内容などを記録いたしますが、お気になさらなくて結構です」
洋一は頷いてから尋ねた。
「葵は今どこにいるのですか」
「娘さんのものと思しきご遺体は霊安室にあります。ご同行ください」
陸奥が立ち上がり、洋一にも立ち上がるように促した。
映像は切り替わり、三人は「霊安室」と書かれた部屋の前に立っていた。土屋が霊安室の鍵を開け、三人連れ立って入室する。中には金属製の小窓がたくさんついた戸棚のようなものが置かれていた。
土屋はそのうちの一つの小窓を開け、中から棺を引き出した。洋一が唾を飲んだのが分かった。土屋が洋一の顔色をうかがいながらゆっくりと棺の蓋を開いていった。洋一が待ちきれない様子で中を覗きこんだ。
直後、彼はヘナヘナと床に崩れ落ちた。
「葵……なんで……」
陸奥は固く目を閉じ、控えめに両手を合わせていた。土屋はそばで洋一の容態を気にかけているようだった。
洋一は再び立ち上がると、棺の中で横たわる女の子——どう見ても水無月葵だ——の顔に手を当てた。両目に涙を浮かべながら、陸奥に向かって尋ねる。
「葵は安らかに眠れたのでしょうか……それとも苦しかったのでしょうか……」
陸奥が苦渋の表情で答えた。
「窒……息死と見られています」
それを聞いた洋一はまた葵に向き直り、顔を近づけて頬ずりした。「苦しかったね……ごめんね……」
土屋が陸奥に目配せした。陸奥が洋一の肩に手を置く。
「水無月さん。心中お察しいたします。ですがそろそろお時間ですので、申し訳ありませんが、面談室に戻ってお話を伺えれば幸いです」
言葉は優しいが、有無を言わせぬ口調だった。洋一は抵抗する意志もなさそうな雰囲気で頷いた。
面談室に映像は切り替わり、二人の刑事と洋一が向かい合っていた。陸奥が口火を切る。
「水無月さん、昨日から今日にかけての行動を振り返って、可能な限り詳細にお答えいただけると助かります」
「……葵は殺されたんですか」
「それを現在調べているところです。どうかご協力ください」
洋一は大きく深呼吸してから話し始めた。
「昨日は午前7時に起床して出勤。7時半すぎに到着してタイムカードを切り、午後5時まで働きました。そのあと直接『青葉スポーツワールド』まで葵を迎えに行きました。葵はそこのプールを実質貸し切りのような形で利用し、荻窪さんというコーチから水泳の指導を受けていたからです。帰宅したら晩御飯にオムライスを作りました。葵がそれを食べたいと言ったから……」
洋一が嗚咽を漏らし始めたが、今回はすぐに立ち直った。
「それからは家で各々自由に過ごしていただけです。よく覚えてませんが、葵が家から出たということはないと思います。玄関のドアの音が結構大きいので出たら気づいたはずです。私は0時すぎに寝ました。今朝は昨日と同じく7時に起きて出社しました。7時45分頃に会社に到着し、いつも通り働いていたらあなたから電話を受けました」
一気に吐き出すように言うと、彼はソファに体をもたれさせた。相当疲れているのが表情から見て取れた。
しかし陸奥はなおも体を乗り出す。
「昨日、プールに向かってからの行動を時間経過とともにより詳しく教えていただけると助かります」
洋一は眉根を寄せつつも応じた。ここに来て葵の仇を見つけ出すためなら何でもするという強い意志が感じられた。
「午後5時すぎに会社を出てから『青葉スポーツワールド』までは15分ほどですので駐車場に着いたのがおそらく5時20分頃だと思います。それから入場ゲートで守衛の酒井さんに許可をもらって関係者用通路から入場、プールまで歩くのにおよそ10分といったところかと思います。プールに着いたら葵が着替えるのを待って帰宅しました。ですから駐車場を出て帰路についたのは18時前くらいじゃないですか。もうこれでいいですか」
「あともう少しだけ。今朝は葵さんの姿を見られませんでしたか?」
「父親が年頃の娘の部屋を覗くと思いますか。見てませんよ」
と答えてから「私がちゃんと確認してたら死なずに済んだのかな……」と顔を曇らせる。
陸奥が立ち上がった。
「本日のところは以上です。今後も署までお越しいただく必要があるかもしれません。お気持ちの整理はまだついていらっしゃらないかとは存じますが、その際は何卒よろしくお願いします」
ずっとペンを走らせていた土屋も腰を上げ、二人して頭を下げた。
すると洋一が苦しげな表情で尋ねた。
「葵はいつ頃亡くなったのでしょうか」
「今朝の7時半から8時半頃と見られています。あまり捜査上の秘密をお話しするわけにはいきませんのでこの辺で——」
洋一は諦めきれないといった風に続けて尋ねる。
「警察の方では私を疑っていらっしゃると解釈してよろしいのでしょうか。葵は殺された、そうなのでしょう?」
陸奥が一瞬言葉を詰まらせてから、言葉を選ぶように答えた。
「水無月さんに特別嫌疑がかけられているわけではありません。たしかに葵さんが不審な死を遂げられているのは事実です。ですが少なくとも現時点では、殺人と考えるのは尚早とする意見が多数派です。というのも——」
彼はその続きを言うのをためらったようだったが、結局小声で言った。
「現場は誰一人侵入できない密室状態であったからです」