密室の前の静けさ
画面は切り替わり、体育館のような建物やテニスコートなどが集まった複合施設が映し出された。上空からのドローン映像みたいだ。
実在する施設なのだろうか? 応募者はまさか映画監督ではあるまいし、実在の施設の映像を流用しているとしか思えない。その場合著作権法に引っ掛かる気がするが……。
って何考えてんだ私。今は密室殺人の解決に集中するときだ。
そのとき再び女性ナレーターの声が流れた。
「時は2026年12月。宮城県仙台市に位置する『青葉スポーツワールド』でその事件は起きた――」
すると今度は、40歳くらいの男性が車を運転しているシーンに画面が切り替わった。助手席から撮影されているようだ。すかさず女性ナレーターが説明を添える。
「この男性の名は水無月洋一。12月19日午後5時現在、娘の葵を『青葉スポーツワールド』まで迎えに行くため運転中である」
洋一はハンドルから左手を離して肩をグルグルと回した。左手につけている腕時計に目をやる。
「まだ時間はあるな。炭酸でも買っていってやるか」
彼は手近なコンビニに車を止めると、サイダーを一本買って戻ってきた。また運転席に乗りこみ、車を発進させる。
直後、画面は車が駐車場に停車するシーンに切り替わった。おそらく『青葉スポーツワールド』に到着したのだろう。駐車場には他に二台しか止まっていない。
洋一は運転席から降りて車のロックを掛けると、大きく伸びをした。再び腕時計に目をやる。デジタルで17:20と表示されていた。
「ちょうどいい」
一言呟き、歩き始めた。
入場ゲートにはすぐに着いた。ゲートの上部には「青葉スポーツワールドへようこそ」と錆びた看板が掲げられている。年季が入っていると言えば聞こえはいいが、どう見ても老朽化しているだけだ。
入場ゲートはすでに閉ざされていた。洋一は脇にある守衛室に近づくと、中にいた60代くらいの男に話しかけた。
「酒井さん、こんばんは。水無月です。いつも通り娘を迎えに来ました」
「おう、来たか」
酒井と呼ばれた男は、机の上に散らばっていた書類をかき集めると、右手だけで雑に端を揃えた。彼はその紙束を脇に置いてから、園内の方向を指さした。
「通っていいよ。暗証番号はいつも通りだ」
「ありがとうございます。いつもお世話になっております」
洋一はパネルに3、4、2と順番に入力し、関係者用と思われる小さな通路を通り抜ける。そのとき、守衛室の中がちらりと映った。酒井以外に、小学校低学年くらいの女の子が本を読んでいるのが見えた。
洋一はそのまま歩き続ける。
まず右手にテニスコートが見え、次に巨大な円形のベンチとサッカーコートの間を進む。どこも閑散としていて、人のいる気配がなかった。
まもなく壁が白色に塗装されている大きな建物が近づいてきた。コンクリート製のようだ。老朽化の痕跡はそこかしこに見受けられるものの、全体としては丈夫そうだった。
そのさらに奥には透明なガラスに囲まれたジムが見える。ガラス窓の中にはランニングマシンやバーベルがたくさん置かれていて、そばにはシャワー室もあるようだ。
しかし、洋一はジムまでは向かわず、白い建物の前で立ち止まった。
左側が母屋らしく、右側には小さな建物が張り出している。あれは何だろう。
すると突然、画面いっぱいに建物の見取り図が表示された。
女性ナレーターの声が挟まる。
「本事件の舞台はプールである。見取り図にある通り、横には男女の更衣室があり、扉を介して繋がっている。『変温器』は『変温自在』のことを指し、壁に取り付けられている方は室温を、プールに取り付けられている方は水温を調節するのに使用される」
張り出していたのは更衣室らしい。
洋一はためらうことなく両開きの大扉を開いた。中にいたのは、半袖のTシャツ姿の50歳くらいの男性と水着姿の高校生くらいの女の子。二人ともプール脇のベンチに座っている。男性は首からホイッスルをぶらさげていた。
洋一は暑そうにコートを脱いでから、男性に向かって頭を下げた。
「荻窪さん、いつも娘がお世話になっております」
荻窪は頭を下げてから応じた。
「葵さんの成長には目を見張るばかりです。私の用意する厳しめのメニューにも熱心に取り組んでくださり、こちらの身も引き締まる思いです」
洋一が眉をわずかに歪めた。
「やりすぎだけはしないようにお願いしますね。——じゃあ葵、帰ろうか」
葵と呼ばれた女の子が頷いた。
「うん。ではコーチ、残りの後片付けお願いします」
彼女が右手を額に当てて敬礼したので、荻窪は顔を綻ばせ、敬礼して返した。
「おう、任せろ」
それを確認すると、葵は洋一のそばに駆け寄った。葵は水滴きらめく競泳用の水着に身を包んでいる。頭には真っ黒なスイムキャップと、光をカラフルに反射して目元が外から見えないタイプのゴーグル。首には大きめのタオルを巻き、両端をだらんと肩の前に垂らしている。
「お父さん、着替えてくるから通路んとこで待っといて」
「ああ」
洋一は頷くと、葵と分かれて男子更衣室に吸い込まれるように入っていった。入室する直前、葵が女子更衣室に入っていくのが映った。
洋一は多数のロッカーが配置されている男子更衣室をズカズカと進む。彼の他には人っ子ひとりいない。まっすぐ歩き続けると、すぐに引き戸に行き当たった。男子更衣室の出口のようだ。
彼は勢いよく扉をスライドさせた。ガラガラッと小気味よい音を立てながら扉が開く。通り抜けると扉を閉め、通路の壁にもたれかかった。
「ふぅ。今は……ちょうど五時半か。早く帰って晩飯作らないとな」
彼がそう呟いたタイミングで画面は切り替わり、女子更衣室から葵が現れた。
膝丈まで伸びるベージュのコートを着て、片手にはポリ塩化ビニル製と思われる無色透明のプールバッグ。中には丁寧に折り畳まれた水着が入っている。さっきまで着ていたやつだ。
艶のある黒髪はツインテールに結ばれている。ドライヤーをかけてきたのか、ほどよく湿っている程度だった。
「帰ろ、お父さん」
「そうだな」
洋一は頷き、歩き始めた。葵も横に並ぶ。二人の間に口数は少ない一方、とても仲のいい父娘なのだろうという印象を私は受けた。
そこでまた画面は切り替わり、二人は駐車場に到着した。いつの間にか洋一もさっき脱いだ厚手のコートを羽織っている。彼は車のロックを外すと、中からサイダーを取り出した。
「行きにコンビニで買ってきた。飲むか?」
「ありがとう!」
葵は嬉しそうな表情で一気に半分くらい飲み干した。洋一も頬を緩める。
「晩は何が食べたい?」
「うーん……そうだな……」
葵は顎に手を当てて真剣そうに悩んでから答えた。
「オムライスで」
「お安い御用だ。腕が鳴るな」
洋一は腕まくりするような動作をした。もちろん真冬の仙台なのだから、実際にしたわけではない。
「あとさ、お父さん?」
「何だ?」
葵は両手に白い息を吐きかけた。縮こまる姿がとても愛らしい。彼女は5秒ほど溜めてから言った。
「……手袋買ってほしい」
洋一の表情がほころんだ。
「何だ、そんなことか。来週の木曜日の出張先にたしか売ってたはずだ。買っといてあげるよ」
「ありがとう」
そう言ってから彼女は少し顔を赤らめて小さな声で呟いた。
「お父さんがお父さんで良かった」