夕暮れの御伽噺
私のお母さんは若い頃、神様だったらしい。
もう少しで夏も終わり、秋が来るのだからと当然のように涼しくなる頃、私は二十数回目の誕生日を迎えようとしている。
以前は数字が増えるごとに、着々と大人へ近づいていく感覚で胸がいっぱいだったけれど、二十を超えたあたりでそれもなくなった。
今では数字が一つ増える以上の意味を見出せない日となっている。
思えば誕生日とは、祝われる側よりも祝う側にとってのイベントだったのだろう。
高度な通信社会の実現によって、あるいは我が国が抱える社会問題によって、人と人との距離が加速度的に開きつつある現代で、誕生日を祝ってくれる存在が、家族含めてどれほどいるのだろうか。七夕やひな祭りが形骸化しつつあるように、誕生日というのも次第に色褪せていく文化なのかもしれない。
それはそれとして、私は久しぶりに実家の敷居を跨いでいる。
高校を卒業して以来顔を合わせることのなかった両親に、ふと顔でも見せに行こうかな、と思い至ったのが、つい二日ほど前。そして、東京から実家のある地方への新幹線に乗車したのも、その日の内の話だった。
自分のことながら無駄な行動力の高さには呆れてしまう。
思い立ったが吉日、という言葉は私のために作られたのかもしれないと、真面目に考えるほどである。
そんなどうでも良いことばかりを脳裏に浮かべながら、私は家の縁側へと腰を下ろした。
このとんでもなく大きな武家屋敷は数年離れたくらいで変わることなく、思い出の姿のまま存在している。何より私が大好きだったこの景色が、変わらないでいてくれたことが、たまらなく嬉しかった。
現在時刻は午後五時を過ぎたところ。
空は綺麗なオレンジ色に染められて、まるで水彩画のよう。
照らされた羊雲も優雅にゆっくりと泳いでいる。
秋は夕暮れ、とはよく言ったものだ。どうやらどれだけの年月が経とうと、美しいと感じるものは変わらないらしい。
「夕日は沈む。辺りは静まる。もの寂しくて彼女は咲う。僕たちはどれだけ歩み寄ろうとも、手を取り合えずにひとりぼっち」
ふと私はそんな言葉を呟いてみる。
懐かしいようなこの夕焼けを見るたび、幼い頃よく父が話してくれたことを思い出してしまう。
きっとその日父が見た空もこんな色だったのだろう。もし違ったとしても美しかったに違いない。
「それはあの人の言葉?」
聞こえてきた音の方へ目をやると、そこには白い巫女装束を纏った美女が立っていた。
いつからそこにいたかはわからないが、足音もなく気配すら感じなかった。
思いもよらぬところから話しかけられるというのは、正直に言って心臓に悪い。
私が茫然としていると、何事もなかったかのように隣へ座る。
「後ろから話かけるのはやめてって、いつも言ってるじゃない。お母さん」
「ごめんなさい。たまたま聞こえてしまったものだから」
そう言って少しだけ申し訳なさそうな顔をする彼女は、ただそれだけで見惚れるほど様になっていた。
それは彼女が呆れるほどに浮世離れした容姿をしているというのもあるけれど、それよりも、全く無駄な動きのない美しく整った所作をしているからというのが大きい。
私も娘としてある程度整った容姿はしていると思うけれど、あんな見る人を魅了できるほどの動きというのは真似できる気がしない。
そこら辺の性格はどうしようもなく父親譲りなのだった。
「それで、どうなの?」
「うーん。そういうことになるのかな?」
彼女の言う『あの人』とは、父親のこと。
父は童話や詩歌なんかを書いていて、時折会話においても詩的な表現を用いることがあったりする。
つまりは自分が口にしたそれも、作品という体裁は取っていないけれど、確かに『あの人の詩』と言えなくはない。
別に隠すようなことでもないので、正直に告げることにする。
「ほら、あれだよ。よくお父さんが子供の時に話してくれたやつ」
「……ああ。そんなこともあったかしら。よく覚えているわね」
「そりゃあ覚えてるよ。お父さん、何回も同じ話をするんだもん」
「私たちの馴れ初め話を娘に記憶されているというのも、少し恥ずかしいわ」
そう言って、彼女は少しだけ顔を赤らめながらそっぽを向く。そんな姿もまた可愛くて、気が付けば自分の口元には、笑みが浮かんでいるのだった。
それからというもの、私たちは親子の会話に花を咲かせた。
おそらくまともな話し合いをしたのは五年以上も昔のことで、私は堰き止めていたものが決壊したように、本当に色々なことを話した。
嬉しかったこと、悲しかったこと、大変だったこと、頑張ったこと。本当に話したいことはたくさんあって、どれにしようか迷うくらい。
そして、それは日が沈み切って、澄んだ夜空に美しい月が上るまで続いた。
最後に、私はふとあることを聞いてみたくなった。
「ねえ、お母さんはどうして、お父さんに一緒に死のうなんて言ったの?」
それは父親が話してくれた御伽話の結末。
父はなんてことのないように言うけれど、私にはどうしてもそれが納得できなくて。
だから、私はいつか聞いてみようと思っていたのだ。
「……そうね。なんと言ったらいいのかしら」
目前の相手はそう言うと、口元に手を当てて少し困ったように視線を逸らす。
その何かを伝えようと考えている姿に、私は何も言わずに待っている。
そして、数秒ほど悩んだところで、可憐ながらも重々しい口を開いた。
「……理由はあるわ。あるけれど……なんて言葉にすれば良いかわからない」
「そっか……」
私は無意識に肩を落としていた。
どうやら思っていたよりも期待していたらしい。
けれど、本人が伝えられないと言っているのだからしょうがない。
彼女の言葉が嘘ではないことを、娘である私は何よりも知っている。
「……それでも」
と呟くような声が聞こえてくる。
いつもの彼女なら会話は終わりというところだった。
きっと答えなくてはならないと感じたのだろうか、彼女は必死に言葉を紡ごうとしていた。その姿は何だか新鮮で、微笑ましい気持ちを覚える。
だから、それとなく助け舟を出すことにした。
「それでも?」
「それでも無理やり言葉にするなら……」
「するなら?」
「あの頃の私は素直じゃなかったから、かな」
彼女はそう言って微笑むと、徐に立ち上がり私に背を向け歩き出す。
その姿が余りにも綺麗で、見惚れるほど美しくて、私は数秒ほど惚けてしまった。
それから、いけないと意識を持ち直し、浮世離れした背中を追いかける。
「ねえ、教えて」
慌てて呼び止めようと、咄嗟に口から出たのはそんな言葉だった。
様になった所作で振り返る巫女は、不思議そうな顔をしている。
「その頃の話。聞かせてくれない?」
お父さんがどう思っていたかは何度も聞かされた。
では、お母さんは?
その時、どういう風に見えていたのだろう。
単純に聞いてみたいと思ったから、というのはもちろんある。
けれど、それよりも話を聞くことで、ちゃんと理解できるかもしれないと思ったから。
いや、正しくはちゃんと理解したいと思ったから。
だから、私はそんなことを口にしたのだと思う。
そんな思いを知ってか知らずか、返ってきた返事は肯定だった。
「わかった。でも、わたしからも一つ良い?」
「いいよ。何でも言って!」
「代わりと言っては何だけれど、まずあの人の話を聞かせて欲しいの。」
その言葉に私は笑顔になる。
そうだった。すっかり忘れていた。彼女はお父さんの紡ぐ物語が何よりも好きなのだ。
普段何も欲しがることのない人だけれど、お父さんの本や言葉にはいつも前のめり。
昔はお父さんがこんなことを言っていた、とよく伝えに行ったものだった。
「それくらいなら任せて」
「そう。ありがとう」
快く引き受けたはしたものの、ちゃんと言葉にできるかは心配だった。
けれど、それも巫女の見せる感謝の笑顔の前には、もはやどうでも良かった。
そんなこんなで時刻は八時過ぎ、私のお腹がくう、となったところで話は終わり。
約束はまた日を跨いでということになったのでした。
§
昔々、ある地方の街の外れに、大きな神社がありました。
少し古びているものの、誰が見ても立派な大きな社でした。
しかし、誰一人として近付くものはありません。
何かしらの祭りが催されることはありませんし、初詣にも行きません。ましてや、結婚式なんて挙げられたことすらないでしょう。
それならまだしも、近くに神社があることすら知らない人だっているくらい。
けれど、そんな場所によく訪れる一人の少年がいました。
中学生になったばかりの少年は多くの悩みを抱えていて、些細なことでも海の底まで悩んでしまいます。
そんな少年にとって、誰の目も気にする必要がないこの神社は、またとない休息の場なのでした。
放課後になると神社を訪れ、空を眺めてはため息を吐く。そんな生活を送り続けました。
幸いなことに少年の悩みも時間が解決してくれることがほとんどで、次第に悩みというや悩みもなくなっていましたが、少年はこの場所に通うことをやめませんでした。
とっくに少年の中ではお気に入りの場所になっていたのです。
心が軽くなり、考える余裕が出来た少年は、ふと思うことがありました。
どうしてこの神社には誰もいないのだろう、と。
こんな立派な神社に人が寄りつかないのは、少年にもわかるくらい不思議なことでした。
なので、少年は色々な理由を考えてみました。
まずは、みんなこの場所に神社があることを知らないという説。
けれど、家族も学校の友達も神社があることを知っていました。
次に、この神社が立ち入り禁止となっている説。
しかし、誰かに怒られたことはありませんし、誰に聞いてもそんな話は知らないと言います。
では、どうして立派な神社があるのに近づかないのか、と思い切って聞いても、行く理由がないからとか、遠くて疲れるからとか、納得のいくものはありません。
そんなある日、少年はふらりと立ち寄った図書館で、このような記述を発見しました。
曰く、この神社で参拝すると大切な人を失うことになる、とか。
今のところこの噂のせいで倦厭されたというのが一番あり得ますが、何せ何百年も前の資料なので本当かどうかはわかりません。
「どうしてここには僕しかいないんだろう……」
今日も一人神社で空を眺める少年。
一人になりたくて来たけれど、やっぱりひとりは寂しくて。
独り言だって口をついて出てきます。
もちろん返事なんて期待していなかった彼ですが、驚くことに返ってくるものがありました。
「それはこの場所が、神の住む土地だから」
少年が振り向くと、そこには真っ白な巫女が。
しとしと降る雪のような白い肌。
宝石にも勝る妖精のように綺麗な瞳。
月のように眩く輝く亜麻色の髪。
それは誰もが一目見ただけで、人間ではないと理解できるほどに美しい少女でした。
少女は惚ける少年を見て、きっと説明不足だったのだろうと勘違いして、つらつらと丁寧に話し始めます。
もちろん少年はそれどころではありません。少女の言葉は全て耳を通り過ぎていきます。
結局、その日はロクな会話も出来ずに日が暮れて、気がつけばいつも通りの帰り道。
少年は家に着くまで、本気で夢を見ていると思っていました。
二人の出会いはこのように。
それはまだ夏の暑さの残るような秋の始まりのことでした。
それからというもの、少年は相変わらず通いました。
雨の日も、嵐の日も、雪の日も。幸い風邪を引く日はありませんでしたが、どんな時でも決まった時間に彼女へ会いにいきました。
そして、色々な話をしてもらうのです。
その日は虹についての話を。
次の日は海についての話を。
そのまた次の日は宇宙についての話を。
彼女は物知りでした。それこそ、知らないことなどないのではないかと思えてくるほどに。
「どうしてそんなに物知りなの?」
と少年が聞くと、決まって少女はこう答えます。
「わたしは見ただけである程度のことがわかるから」
どうやら彼女の見ている世界は、少年はおろかこの世界の誰とも違うよう。
質問には丁寧に答えてくれますが、たまに理解できない難解な公式が飛んでくることもあります。
それでも少年はめげずに尋ね続けました。
けれど、それは知りたいことがあったからではありません。
ただ彼女と話がしたいだけだったのです。
ただ彼女の声を聞きたいだけだったのです。
彼は不器用にも、そんなやり方しか出来なくて。
今日はこれについて聞こうかな、なんて授業中に思いつくこともありました。
明日はどんなことを聞こうかな、と眠りに落ちる瞬間まで考えていることもありました。
気が付けば一日中、彼女のことを考えていました。
そう。いつの間にか少年は恋に落ちていたのです。
けれど、本人はそんなことにも気付かぬまま、ただ彼女が寂しくないように、とそれだけを願っていました。
季節は移り変わり、中学生だった少年はとうとう高校生に。
もはや少年と呼ぶには不相応で、だけれど大人と呼ぶには少しだけ早すぎる。
そんなどこにでもいる青年になりました。
対して、少女は時が止まったように少女のまま。
けれど、装いはあの眩いほどの巫女装束ではなく、なんとも可憐なセーラー服で。
なんと二人は同じ高校に進学したのでした。
なのに、彼女は教室でいつも独り。
初めこそ彼女の周りには人集りが出来ていたけれど、それも次第にいなくなり、夏を迎える頃には誰も寄り付かなくなりました。
だから、青年はより積極的に声をかけることを決めたのです。
「おはよう。今日は暑いね。窓際の席って日差し当たってキツくない?」
「別に」
「お昼一緒に食べていい? 今日は何買ってきたの?」
「サンドイッチ」
「そういえば部活とかしないの? 運動神経良さそうだし、なんでも出来そうだけど」
「しないわ。私が入るとつまらなくなるもの」
「どうして?」
「試合にならないから」
一応答えてくれるものの、最低限会話になる程度。
それでも相手はしてくれるので、嫌われているわけではなさそうです。
そんなこんなで、気が付けば高校でも彼女のことばかり。
友達には呆れられてしまったけれど、やめるつもりはありませんでした。
それは夕焼けの綺麗な秋のことでした。
オレンジ色に染まる教室に二人きり。
グラウンドで鳴り響く球を打つ金属音も、別校舎で鳴り響く吹奏楽の音も、まるで遠くの出来事のように大人しい。
そんないつもの放課後に、少女は青年に問いかけました。
「あなたはどうしてわたしに構うの?」
青年は言葉に詰まります。
それも当然でしょう。
なぜなら、この日まで自らの恋を自覚すらしていなかったのですから。
けれど、少女は畳み掛けるように言葉を続けます。
「同情かしら? それとも下心? どっちだとしても迷惑よ」
「違う……はず」
始めは同情だったかもしれません。
ひとりぼっちは寂しいと思ったから。
下心も少しはありました。
あなたと仲良くなりたいと思ったから。
けれど、今はそれ以上に、貴方と一緒に生きたいと思うのです。
「わたしはあなたと添い遂げるつもりなんてないわ。生きるも死ぬも勝手にしてくれる?」
「……俺は」
「なら、あなたはわたしと一緒に死んでくれるの?」
少女は告げると、青年を残して教室を出て行きます。
その横顔はあまりにも悲しそう。
きっと最後の言葉は、紛れもない本心なんだと理解します。
少年は竦む身体を無理やりにでも動かして、後を追うことにしました。
彼女がどこへいったのかはなんとなくわかりました。
そして、彼女が何をするつもりなのかも。
校舎の屋上は鍵が壊されていて、強引に解放されていました。
扉を開けると、柵のない屋上に少女がひとり。
今にも崩れそうなジェンガのように、脆く、儚く。
一歩でも下がれば真っ逆さま。
それでも、彼女は少年に何てことのないよう話しかけます。
「あなたはきっと、わたしといない方が幸せに暮らせるわ」
そんなことはないと胸を張って言えます。
今日までずっと幸せだったのですから。
貴方のいない毎日を想像する方が辛いくらい。
「たくさんの人に囲まれて、愛されて、看取られる。そっちの方がとっても人間らしい」
今更、他の人なんてどうでも良い。
他でもない貴方だからこそ、一緒に居たいのです。
「なんのために生きるのかをずっと考えてきたけれど、どうやらわたしはあなたのために死ぬらしい」
どうあっても悟ってしまいます。
彼女が本気で死ぬつもりであることも。
彼女の運命はもう変えられないということも。
あの神社のいわれを思い出します。
きっと最初からこうなることは決まっていたのかもしれません。
ならばせめて、貴方の寂しくないようにと手を伸ばします。
「さようなら。わたしに会いにきてくれて、ありがとう」
少女は燃えるような空へ堕ちて。
青年は追いかけるように飛び出して。
二人は大きく伸びる校舎の影へと真っ逆さま。
死のうと思って飛び降りた二人だけれど、この瞬間だけは共に生きていました。
それが二人の出会いの物語。
幸い二人は一命を取り留めましたが、青年は利き手と利き足に、少女は五感のいくつかに、不自由を負うこととなりました。
青年が言葉を綴り始めたのはこの頃から。
二人はそれから出会った神社で暮らすこととなります。
ただ今でも秋になると、彼は夕暮れを眺めては、懐かしそうに笑うのだそうです。
§
こうして言葉にしてみると、やはり物語の枝葉を忘れつつあった。
いくら大好きだった話でも、聞かされていたのはもう二十年も昔になる。所々色褪せていたってしょうがない。
それでも、今の自分に出来る限りのことは尽くしたつもり。
我が父には遠く及ばずとも、私の語りだってそこそこのはず。
感想を求めてふと隣を見ると、聞き手はほんのりと顔をあからめて、こちらへ視線を返してくる。
「……どう?」
「そうね。とても、とても懐かしい話だったわ」
「なら、よかった」
私は大きく胸を撫で下ろした。
どうやら致命的な記憶違いはしていなかったらしい。
そして、私が再編纂した物語は、どうにかクライアントのお眼鏡に適ったよう。
人から聞いた話をただ語っただけとはいえ、誰かに喜ばれるというのはなかなかに嬉しいものである。目前の美女の微笑みだけでも十分な報酬と言えなくもない。
けれど、今日は確かな約束があった。
「それなら、今度はお母さんの番ね」
「ええ、それは構わないけれど……。決して美しい話とは言えない。それでも本当に聞きたい?」
確かにあの人の話はいつも星のようにキラキラ輝いていた。
そう整えてくれていたんだと思う。
だから、きっと現実は思い出のように美しくはないのかもしれない。
けれど、やっぱり私の答えは決まっている。
「聞きたい。どんな話であっても、私は聞きたい」
きっと私は微笑んでいたと思う。
物語の裏側、主人公ならぬヒロインの視点。
あの日語り聞かされた昔話が、今日という日をもって完結する。
それだけで私には聞く価値のある話。
それがどれだけ現実的でも、御伽噺とは言えなくても、その事実だけは揺らがない。
そう。それなら、と巫女が口を開く。
鈴を転がすような声が、優しくゆっくりと語り始める。
お日様は丁度高くに昇ったところ。まだまだ時間はたっぷりとある。
だから、今はその美しい声色に身を委ねよう。
§
わたしの一族は代々、神を作り出すことだけを目的に生きてきたらしい。
何でも大昔の先祖が月の都の姫に魅せられたのが始まりとか。
曰く、姫は輝くほどに美しかったとか。
曰く、姫にはこの世の遍くが理解できたとか。
曰く、姫には能わぬものが無かったとか。
曰く、もはやそれは神様と言って差し支えなかったとか。
つまり、先祖が目指した神とは、完全なる人間のことだった。
それはこれより人類が幾千、幾万という年月を費やして、あらゆる可能性を検討した上で辿り着く、進化の一つの終着点。人類の誕生から始まった長いながい旅路の果て。
けれど、その一族には幸か不幸か、『姫』という航海図が与えられてしまった。
つまりは先に答えの与えられた計算問題。
それこそ、逆算とちょっとの想像力さえあれば、本来の過程を幾つか飛ばして導出できる。
もちろんそれでも幾万年かかるものが、幾千年になっただけのことで、時間が必要なのは確かだった。
そうして、ながい研鑽の果てに生まれ落ちたのが、わたしだった。
わたしには天性の直感が備わっていた。
普通の直感は目前の問題に対して、答えとなるものが何となくわかる程度のもの。
けれど、わたしのそれは『式を立て計算する』という過程を省略して、結果だけが天啓のように降りてくるというものらしい。
つまり、わたしは一目見るだけで、世界のあらゆることを理解することが出来た。
父はその才能を喜んだ。
母はその容姿に惚れ込んだ。
一族は新たなる神の誕生を言祝いだ。
私たちに課せられた役割は、先祖から受け継いだ呪いは、今日この時を持って終わりを迎えたのだと歓喜した。
この時まではきっと、万雷の喝采の下に生まれたのだと信じていられただろう。
けれど、わたしには生まれた意味はあっても、生きる理由までは与えられなかった。
人間にはそれぞれ生きている間に成し遂げるタスクがあると言う。けれど、わたしにタスクがあるとすれば、それは生まれてくることだったのだから。
わたしの直感も、これから何のために生きるのかを教えてくれはしなかった。
季節は巡って五回目の秋が訪れた頃、一族の人間は一人また一人と居なくなっていった。
理由は様々あったが一様に言えることは、ここでやることがなくなった、である。
完成するということは続きがないということ。
この場所は一種の停滞状態である。
どうやら人間にとって、この停滞というのが、どうしても耐えられないらしい。
両親は最後まで残ってくれたけれど、それも昨日で死んでしまった。
気がつけばわたしは、神社の境内にひとり。
それでも幸いなことに、ひとりでも困るようなことは何も無かった。
人間はジグソーパズルのように、互いに手を取り合って一枚の絵を作り上げているけれど、わたしは独りで完成した絵画なのだ。
つまり、誰かを必要としない代わりに、誰からも必要としてくれないということ。
「……愛している、かあ」
母の最後の言葉は、貴方を愛している、だった。
愛の反対は無関心という言葉の通り、愛とは興味の最終形態。
物であっても人であっても、それを深く理解したいと思うことこそ愛の本質と言える。
けれど、わたしの愛は一瞬だった。
生まれつきの直感が、何かを愛し続けることを許さなかったから。
わたしにとってそれは、理解できても実感することのない幻のよう。
だから、母はどんな気持ちだったのだろうと考えてしまう。
誰かを愛しながら死んでいくのは、彼女にとって良いことだったのか。後悔はしていないだろうか。
今となってはもう知りようのないことだけれど、それについて考えている時だけは愛を返せているような気がして。
そうして、十三回目の夏が終わりを迎える頃、ひとりの少年が神社に現れた。
きっと街から一時間近く掛けて山を登ってきたのだろうその子は、けれど屈強そうな印象はなく、どちらかといえば線の細い優男のような人物だった。
最初は参拝にでも来たのだと思っていたけれどそうではなく、ただ静かな場所、ひとりになれる場所として訪れているようだった。
御百度参りのごとく訪れる彼に困惑はしたけれど、こちらから何かをすることはなかった。
毎日訪問されるからと言って、迷惑かと言われたらそうでもない。加えて、ひとりになりたい人物に話しかけるほどお節介でもない。
だから、わたしは彼に気取られないよう見守ることにした。
結果として、それは彼にとってもわたしにとっても良い方向に働いた。
思春期の少年の悩みなど時間が解決してくれるものがほとんど。
彼は勝手に悩み勝手に解決して、また違う悩みを抱えてやってくる。
そして、そんな彼を見るのは、少しだけ面白かった。
わたしはこの時、生まれて初めて『変化し続けるもの』を見たかもしれない。
明日はどんなことを考えながらやってくるのだろう、と思うと、明日のことがほんのちょっとだけ楽しみになれたのだった。
ある日、少年は、それは晴れやかな表情で現れた。
いや、数日前から徐々に暗雲は薄れていたが、今日は特に晴々しい。
わたしはそれを見て、ああ少年がこの場所に来るのは最後なのだろう、と思考した。
何せ悩み事が解決したのならば、この場所は彼にとって無益だろうから。
薬も過ぎれば毒となるように、この場所は少し休むには最適だが、進みゆく者の有害でしかない。
けれど、少年は神社に訪れるのをやめなかった。
そして、何故か神社について調べ始めたのである。
わたしはもはや隠れる理由などなかったけれど、彼に姿を見せないよう立ち回った
きっと今更顔を出すのが、気恥ずかしかったのだと思う。
そうして、一週間ほど経った昼下がり、わたしはようやく少年に姿を見せることを決心した。
けれど、なんと話しかけるのが良いか迷ってしまう。
わたしの直感は、ただ「こんにちは」と話しかけるだけで良い、と告げているが、それでは何だが味気ない。
そんな調子でぐるぐる思考していると、いつものように少年がやってきて。
「どうしてここには人がいないんだ?」
少年はそうぼそりと呟くと、階に座り込んだ。
「それはここが神の住む土地だから。みんな気味悪がって近づかないのだと思う」
気が付けばわたしは少年の前にいて、そう口にしていた。
衝動的な行動だった。
呆然とした彼の顔を見て、わたしの心は大慌て。
何より準備の出来ていなかった分、この後のことはアドリブである。
とにかく現れた責任は果たさなければ、と噛み砕いて説明するも、彼の反応は変わらずで。
その日は結局、お互いが黙り込んでしまい、気まずいまま解散となった。
それから、少年はわたしに会いに来るようになった。
会いに来ては日常の不思議を問いかけるので、わたしは彼が満足するようにそれとなく答えてあげた。
「虹ってどうして出来るんだろう」
と聞くので、プリズム効果から説明することにした。
「海はどうして満ち引きしているのだろう」
と呟くので、星の引力から説明してみることにした。
「宇宙の果てには何があると思う?」
と尋ねるので、宇宙の始まりから語り聞かせることにした。
質問に答えるたび、少年はよく知っているね、と褒めてくれたが、わたしにはそう理解できるだけで、知識として知っていたわけではない。
だからなのか、その期待の眼差しが少しだけ心地悪かった。
しばらくして、雪解けの春を迎えた頃、わたしは高校に通うことにした。
どうせならと彼と同じ高校にしてみたのだが、制服を着なければならないのが少々面倒くさかった。
当の少年はというと、高校生らしく入学して間もないというのに制服を着こなしていた。
そして、制服姿の彼は出会った頃よりも背が伸びていて、気付かぬうちに大人びた印象を纏っている。
そうして、始まった高校生活だったけれど、彼との関係が変わることはなかった。
変わったのは場所と教える内容くらいである。
放課後になると彼はわたしの元へやってきて、今日の授業で理解できなかったことを聞きに来るのだった。
でも、わたしは少し彼のことが心配だった。
彼がわたしに構うのは構わないけれど、わたしにかまけて大切な高校生活を犠牲にしていないのだろうか。
というのも、彼がわたし以外の人間と仲良くしているのを見かけないから。
「わたしの相手なんてしてないで、たまには友達と遊びに行ったら?」
「……うん。今はいいかな」
わたしがそれとなく聞いても、帰ってくるのはいつも同じ。
今はこうしてわたしと共にいるけれど、将来必ずわたしの下から離れていく。
そうなった時、彼の近くで支えてあげられる人がいなければ。
わたしと違って、人間はひとりで生きてなどいけないのだから。
結論から言って、初めから解決方法はわかっていた。
わたしが彼の下からいなくなる。ただそれだけのこと。
元より行き止まりのわたしにとっては、生も死も同じことだった。
生きる理由なんてなかったけれど、同じように死ぬ理由もなかっただけ。
でも、今日初めて、わたしには理由が出来た。
月の都が今では跡形もないのは、きっと同じ理屈なのだろう。
ああそれでも、このままでは彼まで一緒に死にかねない。
それだけは何としてでも防がねば。
「……それでも嬉しいけれど」
わたしは不意に出た自分の感情に驚いた。
けれど、それは今となっては必要のない代物で、大切に心の奥底へ。
そして、わたしは彼の待つ教室へと向かうのだった。
紅葉のように真っ赤だったことを覚えている。
ちょうど沈みゆく恒星は青色の光を散乱させ、大空を真っ赤に燃やしていた。
とても静かな夕暮れだったことを覚えている。
まるでわたしたち以外に、誰も存在しないかのような静けさだった。
そんな世界でわたしは生死の境界線に立っていた。
後一歩で全てが終わる。その境目でわたしたちは見つめ合って。
わたしは別れの言葉を彼に告げる。
「あなたはきっと、わたしといない方が幸せに暮らせるわ」
わたしには余分がなく、あなたに与えられるものは何一つとしてないのだから。
わたしと一緒に居ても、あなたの時間が無意味に減っていくだけ。
「たくさんの人に囲まれて、愛されて、看取られる。そっちの方がとっても人間らしい」
可能ならあなたの作り上げる絵画も見てみたかったけれど、そのせいでピースを一つ失うのでは釣り合わない。
世界にはあなたを求めている人が、きっとたくさんいるのだから。
「生きることに意味などないと思っていたけれど、どうやらわたしはあなたのために死ぬらしい」
元より余分のないわたしが誰かのために出来ることなんて、自己犠牲のほかにありはしないから。
誰かのためにこの命を使うならば、それはあなたがいい。
「さようなら。わたしに会いにきてくれて、ありがとう」
これはとっても自分勝手な想いだった。
でも、あなたの幸せだけを願っていた。
想いも願いも全て抱えて、真っ赤な空へと落ちていく。
そして、彼も一緒にやってくる。
わたしの愛はいつも一瞬だった。
それでも、この一瞬だけは永遠のよう。
ああ、どうやらわたしは、あなたを愛するために生まれてきたらしい。
§
夕日が沈むと、辺りは暗転したように真っ暗だった。
あれだけ綺麗なオレンジ色だった空は、嘘のように紺色へ。
そして、万雷の喝采のように星々は輝きを放っている。
誰もが寝静まった夜に、私は昼間の話を思い返していた。
「夕日は沈む。辺りは静まる。もの寂しくて彼女は咲う。僕たちはどれだけ歩み寄ろうとも、手を取り合えずに落ちていく」
昔、お父さんに聞いた話によると、お母さんが神様ではなくなったのは、怪我で感覚が鈍くなってからなのだそう。
そして、お父さんが詩を書き始めたのもこの頃から。
お母さんの話を聞いて、私の中では幼少期の御伽話に一応の区切りがついた。
結局のところ、想いは通じ合わなくとも、互いを思い合っていたというだけの話。
彼女にとって生と死は同じことだった。
だから、共に死んでくれるのなら、同じく共に生きていける。
彼らはそうやって愛し合った。
愛は一瞬と彼女は言うけれど、永遠よりも価値のある一瞬だってあるみたい。
「ああ、それはなんて――――」
きっと一緒に死のうと言った理由なんて、たったそれだけのことなのでしょう。
二人が思い合うのに、言葉なんていらなかった。
ただその行為さえあれば、それで良かった。
まさか彼らの人生がその先も続くことになるなんて、思ってもいなかったでしょうけど。
「――――美しいのでしょう」
御伽話を懐かしむ。
いつかの詩に思いを馳せる。
あの日の答えを、今度は言葉にのせて。
燃える空。咲う女神。――貴方へ送る愛の言葉を探している。