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11 脳

「どうしたんだい? そんなにびっくりした顔をして……」

 前原慎二が尋ねた。わたしの名は森平るう子。彼の恋人だ。

「別人に見えたんだよね、一瞬、前原クンが……」

 わたしが答えた。とっておきの笑顔を彼に向ける。

「それに、ちょっと怖かったから」

「実際、こまった車だよな」

 彼が答えた。

 そのとき、わたしが怖がったのは生物学研究室のペトリ皿の〈幻視〉だったのだが、もちろん彼にそれがわかるわけがない。

「とにかく行きましょうよ」

 そういってわたしは歩みを進め、目的の串焼き屋の暖簾をくぐった。

「……宇宙全体が狂っても、わたしひとりが狂っても、当のわたし自身にしてみれば、それはおんなじことなんだよね」

 好物のアスパラ巻きとお銚子がわたしの気持ちをいくぶん軽くしてくれたようだ。だが、しばらくむっつりと黙り込み、口を開いたと思ったらいきなりそんな戯言を口走るわたしに、恋人の前原慎二は、さぞ面食らったに違いない。

 だから、さっそく――

「せめて背景情報だけでも説明してもらえないかね。ぼくには、さっぱり理由がわからんよ」

 宮原ボスそっくりの口調でそういうと彼は大きく肩をすくめた。けれども気分は落ち着いてきたものの、自分の中にいまだ何人もの自分を感じるわたしは、さらに彼を混乱させるように、

「宇宙ノイズが〈先進波〉だとしたら、いったいそれを発信したのは誰なんでしょうね」

 わたしの中の誰かの記憶を頼りに呟いた。甘えた目で彼を見上げ、

「前原クンには想像がつく?」

「お手上げだな。ま、すべてを忘れて飲みなさい」

「前から気になっていることがあるのよ」

 と、さらに分裂したわたしが、猪口に注がれた日本酒をぐいとひと飲みした後、〈言葉〉を発する。

「この宇宙が熱力学的に対称な振動宇宙だとしての話だけど、人間の感じる生物学的時間と宇宙の熱力学的時間の矢が一致するとしたら、当然収縮期にいる人間というか知覚認識を持った生物は反対方向の時間に沿って生きることになるわよね」

 と、古くて新しい議論を口にした。前原慎二が、

(勘弁してくれよ!)

 といいたげに、また大きく肩をすくめる。

 と、同時にわたしが思う。

 その理論の提唱者の天体物理学者ホーキングは、すでにその説を間違いだったと引っ込めている。前提、すなわち量子力学的〈ゆらぎ〉は認めるにしても、インフレーション→ビッグバンという秩序からはじまった宇宙が正の時間とともにエントロピーを増しつつ膨張し、やがて膨張しきって収縮に転じ、まったき秩序のビッグクランチに向けて突き進むという宇宙論の、その転換点でエントロピーすなわち時間の矢が負の向きを向くという仮定を間違いだったと正したのだ。

 けれども――

「でもね、もしあの仮設が正しいとしたら、宇宙の収縮期にいるすべての生物は時間を逆に生きることになるわよね」

 わたしがいった。……でも、それはどのわたしだったのだろう?

「つまり、すべての熱力学的構造体すなわち生物は正の方向の時間の矢しか感じられないから。そこでは本当は時間の経過とともに水からひとりでにお湯が湧くし、こわれたガラスのコップはひとりでにくっついて割れていない状態に戻る。いえ、戻るというのは正確な表現じゃないわね。それは、わたしたちの時間感覚に沿ったもののいい方だから。……つまり、わたしがいいたいのはこういうこと。あの時間遡行宇宙仮設が正しいとしたら、宇宙の収縮期にいる生物がキャッチする〈先進波〉は決して本来の意味で未来からのものじゃないってことよ! わかる。それはエントロピーに支配されたすべての生物の知覚の問題なのよ。だから病院を襲った言語怪物は未来から来たんじゃなくて、実は過去からやってきたということになって……。でもそれじゃ、結局すべての説明にはならないわね」

 大きくため息。

 すると――

「小説と現実をゴッチャにしてるのかい、きみは?」

 前原慎二が、その場にいたわたしの裡の誰かにいった。その〈言葉〉を発した前原慎二もすでに分裂していたのだろうか?

 と、そのとき――

 鋭く蒼白い閃光が店の中に飛び込んできた。煌々とした串焼き屋の照明さえも暗く感じさせるような、まばゆい光の発作。

 ついで――

 ズウゥゥン

 店全体をひっくりかえすような衝撃がやってきて、悲鳴、火の手、悲鳴、悲鳴、悲鳴、ガラスのコップや陶器の割れる音に混ざって聞こえてきたのは?

 グオォォォォォォー

 わたしの耳には聞き間違えようのない言語怪物のヌメヌメとした咆哮だった。

 そして――

 ズシン ズシン ズシン

 大地を揺さぶるような巨大な足音。

 わたしは何かを知っているのだろうか? 事態の解決に繋がる何かを……

(わからない!)

 わたしは思い、惑い、訝り、混乱し、疑ぐり、途方に暮れ、瞬間、恐怖に駆られて思考を巡らせた。

(真空に内在するエネルギーは、初期的計算からいっても、1立方センチメートル当たり1.8×10^29ジュールもある。それを引き出すのに閃光と震動が、いえ、閃光と震動自体がそれの表象?)

 それとも、これもまた幻視?

 ヌメヌメと表皮を光らす言語怪物が店の中を覗いた。とっさに悲鳴を上げたものの、ありえない現実に戸惑った表情の女性客。さらに社会の固定観念と日常性に凝り固まり、まったく反応を表現することができない男性客。

 そのすべてが……

 「かいぶつだぁー!」

  「かいぶつだぁー!」

   「かいぶつだぁー!」

    「かいぶつだぁー!」

 複数の誰かが叫んだそのひと言を境に、堰を切ったようにパニックに陥った。理解できる狂気に走った、人々。彼らを押し返すものは誰もいない。そのとき、わたしは視者になり、はるか高見から超然と事態を見下ろそうとしたのだけれど、

「るう子! 逃げるんだ」

 恋人がわたしに蔽い被さり、わたしの手を引き、信じられない奇形の事態からわたし自身を救いだそうとするものだから、

「人工知能よ!」

 別の現実を知っていたわたしが怪物退治の方法を口走った。

「…………」

「怪物が認識するのは人間の脳だわ。言語機能を司り、物語を紬いで発展させる能力を持った、脳」

 いって、窓の外の店の飼犬を指し示した。パニックに陥った人間たちの行動に驚いてはいるけれども、怪物自体には気づいている様子がない、犬、という名の動物。彼らには言語知覚機能がないのだから。

「怪物がまだ変異の初期段階にいるうちなら、彼らを退治できるのよ!」

 わたしは叫んだ。

「人工知能に彼らを認識させて、そのまま彼らを計算機内に取り込めば、DELキー操作で消去可能なんだわ!」

 すると、わたしのその解答を聞いた恋人は、

「それじゃ、あの小説のままじゃないか!」

「小説って?」

「いま、ぼくにもわかったよ。あの小説の作者はボスなんだ」

「なによ! いってることがわからないわ」

「宮武ボスのロマンなんだよ、あの小説が。……野辺山の宇宙知性探査計画にもあれを紛れ込ませたんだ。〈物語〉を理解し、楽しむ宇宙知性。それが宮武ボスのロマンだったんだよ」

「そんなこと知らないわ!」

 そう叫んだわたしが見たのは怪物の触手に刺されて〈非恍惚の表情〉を浮かべる人々の群れ。いずれ、その体内から無数の怪物の子供たちが生まれるのだ。

 小説の通りだとしたら……

 まさか?

 すると――

 その触手のひとつがわたしたちに向かって延びてきた。シュルシュルと気味の悪い音を響かせて……

 シュルシュル シュルシュル

 プスリ

「ギャァァァァァ」

 前原慎二が叫んだ。怪物の触手が彼の背中に突き刺さったのだ。テーブルを振り上げて、わたしをありえざる怪物から守ろうとして、自ら怪物の犠牲になってしまった、恋人。ヌラヌラと蠢く触手が彼に注入するのは〈現実〉それとも〈非在〉。

 そのとき叫んでいたのはこの〈わたし〉だったのか、その〈わたし〉だったのか、それともあの〈わたし〉だったのか?

 スポッ

 怪物の触手が恋人の背中から抜けた。クルリと向きを変え、わたしに向かって襲いかかろうと動きを定める。逃げられない。逃げられない。逃げきれない。

 迫りくる触手。

 人が感じられない。

 こんな阿鼻叫喚の最中だというのに……

 そして、わたしは気も失えない。

 転び、けつまづき、額や腕に傷を追いながら逃げ惑うわたしに迫り来る、言語怪物の触手。

 そして、ああもう、わたしの信じる現実はわたしの手には負えないところまで崩壊してしまったというのだろうか?


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