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09 本

 恋人の胸の感触はすべすべして堅く、心底わたしを安心させる。つうっと指をその胸にそって這わせるわたし。わたしは、その感覚が好きだった。もっとも恋人の方はくすぐったいからと、わたしの好みをあまり認めたがらない。都心に近い高架の駅から歩いて七分のアパートの二階。七〇年代公団風六畳間と台所とユニット・バスのみの部屋の主室のベッドの上。彼はわたしといると安心すると、よく口にする。けれども実際のところ、わたしには彼の心情までは計り切れない。彼にはすでにお気に入りの恋人がいるし、わたしをくどき落したときの〈言葉〉だって、煎じ詰めれば身体が欲しかったってこと以外の何ものでもない。

 でも、まあ、いいか……

 いま彼はわたしの側にいるんだし、彼の望むセックスはすでに昼前に済ませていて、下着だけの格好で安心して/布団にもぐり込んで/わたしと慣れ合って/気を合わせて、〈本〉を読んでいるんだし……

 彼の細い身体に猫のように・するする・とすり寄ったわたしの耳は、彼の言葉を遠くから聞く。いつだって、わたしにはよくわからない〈本〉を読んでいる、彼。哲学書があったり、荒唐無稽な小説があったり、論理的な文学があったり、彼の専門の論文があったり……

「ふうん。〈言葉〉の怪物か? 発想として新しいとは思えないけど、現代の風潮なんだろうなぁ、取り上げ方がそつなくて、ドラマにはなってる――まあ仕事で疲れて、遅くなってなお満員電車で揉まれるサラリーマンが読める小説、というには少々小難しいけど――うん、主人公が教えを受けている先生のこだわりがその事態を生むんだよ。こだわり、つまりその先生は野辺山の宇宙知性を探索する電波計画に自分の提案を割り込ませるんだ。人類や太陽や地球や文明を伝える最後の部分に〈本〉というか〈物語〉というか〈小説〉というか〈想像力からの話〉というか、とにかく創作作品を1・0に暗号化したものを送れるように……」

 彼の〈言葉〉が耳の奥まで/から流れ落ちる。わたしの身体の中に、お腹の中に、子宮の中に…… そしてそれがわたし自身の何かと融合して、わたしの口からまったく別の〈言葉〉となって吐きだされる。

「ね、前原くん?」

 自分でも嫌になるくらいの媚びを含んだその〈言葉〉。

 すると――

(なに、るう子?)

 彼=前原慎二が目でわたしに答えを返した。それは問いの形をとって……

「あなたのお腹、脹れてるわよ」

 わたしがいった。

 不審な表情。彼の。脈絡が掴めないから。

「ほらほらほらほらほら……」

 わたしがいうと彼が表情をこわばらせた。比較的締まったお腹の肉を、布団をずり下げて覗き見る、彼。

「…………」

 無言でもう一度、彼はそれを覗き見る。覗き見る。覗き見る。覗き見る。

「るう子、きみはいったい?」

 不審な表情の、彼。その表情をわたしのいる方向に残したまま彼の身体がその中心線からゆっくりと引き裂けた。中からドロドロした〈脈絡〉が吹きだしてくる。

 ドロリドロリ・ドロ

 濁った精液の色をしている、それ。

 ドロリドロ・ドロドロリ

「ああ、月がきれい!」

 満天の星の中にくっきり浮かぶ――窓の外の冬の夜の――十六夜の月をチラと見ると、わたしは彼の〈言葉〉を口にくわえた。

 頭の奥の方で金属音が飛び交っている。

 その金属音は女の叫び声だ。

 わたしという名のわたしという女の悲鳴。もうひとりのわたしの自分自身の、影?

 わたしは思う。

(あなたは、わたしに何をさせたいの?)

 すると――

「そりゃネ、もちろん」

 と、台所から茶碗が答えを返した。ノソノソと主室の炬燵の上まで歩いてくる、茶碗。主室と台所の仕切のガラス戸が開いていたから?

「取り戻させたいんですよ、きっとネ」

 茶碗はいった。炬燵の上に登りきったところで、安心した表情で……

「つまり、開いてしまった宇宙を/世界を/言葉を/わたしを/あなたを/怪物を/ファージを、それが、万人が信じる常識の形としてネ」

 いって、茶碗はわたしに同意を求めた。部屋の中が妙に虚ろだ。電気がついていて、その影に当たる部分に何かいた。

「常識って?」

 その影の方を見ないようにして、わたしが茶碗に問いかけた。

 すると――

「コンフリクション、つまり葛藤ですね。……でなければ、誰もあなたの話を信じない」

「カットウ?」

「そうです。実在と非在の対決。……あなたがリプリゼンテーションなのだから!」

 いって茶碗はニヤリと笑った。口を歪めて、目をつり上げて……

 表からカツカツと鳴る靴音が夜空にその響きを吸い込ませながら/反響させながら近づいてきた。

 さっきの影が微妙に移動している。

 靴音がアパートの階段を上っている。

 わたしの部屋のドアの前で止まったようだ。

 わずか数分前に中心から裂け、内容物を畳にぶちまけ、フニャフニャした皮に変わってしまった恋人/彼のことはすでに脳裡から去っていた。不思議なことに/愛していたのに……

 そして――

 ガチャン

 ドアノブが強い力で引っ張られた。

 ガチャン ガチャリ ガチャンンンン

 さらに、さらに、さらに、ドアがノブごと強い力で引かれている。

 わたしは全身に寒気を感じた。ザワザワと肌が粟立ってくる。

 すると――

 さっきの影がまた少し移動した。わずかずつ、わずかずつ、わずかづつ、わずかずつ、わたしに近づいてきているようだ。

 ついに――

 その影が形となり、ドアがノブごと/蝶番ごと/鉄板ごと外され、冬の凍った風がビュウと部屋に押し入り、影が人間のような形に変わり、わたしが息を飲込み、呼吸が止まり、影が無定形有形のままわたしに近づき、わたしが音のない悲鳴を上げ、押し入った冬の風にブルブルと凍え、吐く息が白くなり、悲鳴が白くなり、わたしが白くなり、

 最後に――

 わたしは力いっぱい叫んでいた。

「信じやるもんか! そんな〈言葉〉なんか」


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