妖精王の茶会 ~悪戯で招かれた茶会で運命に出会いました
ソラン海を挟んで向かい合う南北二つの大陸のうち、北側の大陸にフェアノスティという王国がある。
北大陸の中央を東西に貫く竜壁山脈の南端から下、ソラン海沿岸地帯に至るまでの広大で肥沃な土地はすべて王国の領土で、まさに大国と呼ぶに相応しい。
その歴史も永く、千年以上にわたり大きな政変や内戦もなく一つの王家が国を代々護り続けてきたという安定感は周辺諸国に類を見ない。
なにより他国の追随を許さない特別なもの、それが魔法技術だ。
この世界において、魔力は妖精がもたらすものと考えられている。
遥か昔に、妖精王に導かれた妖精たちが異界から降り立った。
大地にも水にも草木や動物の内にも魔力の素『魔素』が宿っており、妖精が世界を巡ることで『魔素』に流れができ、それにより魔力が生まれるのだ、と。
妖精がもたらす魔力とは別に、生き物の中には自らの内外にある魔素を操ることで自力で魔力を生み出せる者がいて、それが獣の場合には魔獣や幻獣と呼ばれ区分されている。
人間の中にも稀に魔力の扱いに長けた者が生まれることがあり、強大な魔力を以て数々の奇跡を起こす彼らは畏敬の念をもって魔法使いや魔導士と呼ばれている。
フェアノスティ王国は、魔法使いが最も多く生まれる国なのだ。
他国でも魔法使いは生まれはするのだが、力の強い魔法使いはフェアノスティの出身者やその縁者が圧倒的に多い。
王国のどこかに竜王の棲まう居所があるからだとか、妖精が潜ってこちらにやってくる異界からの門が王国内に点在しているからだとか、いろいろと説はある。
中でも有力な説は、妖精王たちが異界から最初に降り立ったのが現在のフェアノスティ王都付近であり、今なお妖精たちは王国の領土を起点として世界を巡っているというものだ。
フェアノスティの地は妖精たちの加護を得ているから、膨大な魔力を扱う強い魔法使いが生まれるのではないかと多くの学者・研究者たちは唱えている。
魔法と縁が深いお国柄だけあって、それを用いた技術も発展する。
魔法に関する研究や教育を行う機関も多数あるし、微かな魔力しか持たない普通の民でも使える魔法の道具(魔道具という)の開発と流通は国を豊かにするのに大きな支えとなっている。
王立騎士団は、魔導士のみで構成された魔導師団と共に、魔法と剣の両方を駆使して戦う魔法騎士も多数抱えている。
故に、フェアノスティは『魔法大国』や『妖精と魔法使いの国』と呼ばれることもあるのだった。
王国の南端にあるザクト南方辺境伯領は、国のほぼ中央に位置する王都エリサールから更に馬で十日ほど南下したところにある。
辺境と名がつくものの、ザクト領は領都ディアダンとそれに隣接する港湾都市ターレを二柱として発展している、王国内でも特に豊かな土地だ。
現在のザクト辺境伯は王立騎士団総団長であり、その夫人に現国王の第一王女が降嫁していることもあって王家との関係も深い。
南大陸との間にあるソラン海の沿岸一帯を護る屈強な辺境伯軍を擁しているのも、領民の心を安んじている大きな要因のひとつであろう。
南方特有の開放的な風土もあってザクト領は観光地としても人気が高い。
ターレの港は対南大陸貿易の玄関口でもあるため、大陸中を巡る街道はすべて南方辺境伯領に向かうように整備されている。
支流を縒り合わせながら大きくなった大河の流れがやがて海へと向かうように、王国内はもちろん、大陸中の人や物、情報が集まってきて、ザクト領はいつも活気に溢れていた。
そんな賑やかな南方辺境伯領都の目と鼻の先に、”妖精の森”と呼ばれる森林地帯と、それに護られるようにして建つ王家の離宮があった。
王家直轄領となっている妖精の森周辺では、名の表す通り妖精や妖の者が多く目撃される。
森の付近一帯は常に濃い魔力に充ちていて、魔法大国フェアノスティにおいても少々異質な場所だ。
そして森に抱かれるようにひっそりと建つ離宮は、偉大な建国王ルーファウスの弟で、王国史上最強の大魔法使いであったアーネスト・ソイール・シルヴェスター公爵が自らの魔法技術を余すところなく注いで建造したものだ。
シルヴェスター公爵はその美しい銀髪から銀星公と呼ばれ、兄王や部下たちとともに竜壁山脈以南の広い土地を統一してフェアノスティ王国の礎を築いた。
彼はその魔法と知略でもって建国当初の争乱をいち早く鎮め、宰相としてルーファウス王の治世を支えたという。
ところが、ルーファウス王の退位の少し前、公爵は王国内から忽然と姿を消してしまう。
当時国王に並ぶほど国民からの信頼が篤かったが故に公爵を次期王にとの声も少なからずあったという。
そんな王位継承の混乱を避けるためとも、兄王が退いた後の国政に興味を失ったためとも言われるが、真実はわからない。
公爵は銀髪蒼眼の大変な美貌の持ち主であったそうだが、誰とも婚姻しておらず継嗣も指定していなかった。
シルヴェスター公爵家は一代限りとなり、公爵の住まった離宮”星影宮”は主を失ったままに王家の管理のもと永く閉ざされたままとなった。
それからおよそ千年の後。
無人であるはずの星影宮で今、一人の少年が頭を抱えていた……
『この世界には妖精が存在する。
故に魔力が存在する。
以上。』
『師匠……それじゃ大事なとこ端折りすぎでしょう』
『至極明瞭簡潔な説明だろう。』
『簡潔すぎて伝わりませんって……はぁ
もう少し…例えばほら、小さな子供にもわかるように』
『幼な子でも、解る者ならいちいち説明されずとも本能的に理解している。
本能で理解していることを態々言葉で説こうとするなど愚かの極みであろ?』
『天才はそうかもしれませんけどね!?
普通は教本で一から学んでいくもんなんですよ。
第一言葉にしないと本に纏められないでしょ?んもぉ~…
誠に申し訳ありませんが、凡庸なる私共にも解るように、噛み砕いてご教示いただけませんでしょうかね』
『………面倒。』
『しーしょぉお~』
『あぁ、わかったわかった。
―――まず大前提として。
本来、妖精たちはこの世界の住人ではない。
こことは別の、学者連中が『妖精界』とか『妖精の国』とか呼ぶ世界に属している。
上古の時代、『妖精の国』とこちらを繋ぐ、それこそ【門】とよべるほどのものが開いた。
【門】を潜ってこちらにやってきたのが…』
『妖精王と竜王、ですね』
『概ね正解だ、偉いぞリード。
正確に言うなら、”妖精王と呼ばれる存在”と竜王とその眷属の竜。
共にやってきた上古のエルフ達と、数多の物好きな妖精たちだな。
彼らはこちらの世界を見聞した後、元居た世界に戻ったり、さらに別の世界へと旅立った竜やエルフもいたという。
だが、多くの妖精たちと共に、エルフ達と竜王他何体かの竜がそのままこちらに残った。
そのエルフのうちの一人が、我がフェアノスティ王家のご先祖様でもあるわけだが。
リードはエルフ族の父上からは何か聞いてはいないのか?』
『いえ……私の父は彼等よりずっと後の時代になってから【門】を潜って参りましたので。
長命なエルフにとってすら、妖精王たちと共にあった方々とは世代に大きな隔たりがあるようです』
『そうか。
なら、あとで”イズファ”にも話を訊くといい。
………素直に話してくれたらだが』
『………訊いてみます』
『うむ。
魔力の素、いわゆる”魔素”は妖精がこちらの世界に持ち込んだと思っている者も居るが、元々、彼らが異界から降り立つ前よりこの世界に存在していた。
が、その分布は酷く偏っていたようだ。
魔素の分布に偏りがあれば、発生する魔力にも偏りや澱みが生じる。
妖精王と竜王、それからはじまりのエルフ達は、自分たちが潜ってきた以外にも【門】をいくつか作り同胞や妖精たちが行き来できるようにした。
【門】からやってきた妖精たちは世界を巡り、また【門】から還っていく。
妖精たちが世界を巡ることによって強制的に魔素に一定の流れが生じ、それにより魔素の分布が均されて魔力の偏りは徐々に解消されていった。
以降、作られたいくつかの【門】を繋ぐように妖精たちが世界を巡ってくれているおかげで魔素が安定して流れ、こちらの世界に淀みなく魔力が充ちるようになった。
つまり。』
『この世界には妖精が存在し、絶えず巡り続けることで魔素の流れを生み出している。故に安定して魔力が存在する。』
『ということだ。』
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溜息をつくと、少年は手にしていた小さな箱を操作してそこから流れる音声を止めた。
美しく緻密な装飾を施された木箱にぴったりと水晶球が収まったそれは、音声などを記録したり再生したりすることのできる魔道具だ。
驚くべきはその小ささと、美術工芸品のような優美さ。
同じ機能を持つものは少年も見知っているし使ったこともあるが、もっと大きくかつ武骨な造りだったと記憶している。
子供の掌に乗るほどの大きさのものなど、王室宝物庫の所蔵品でも見たことがない。
しかも少年が魔法で鑑定したところ、この魔道具は千年ほど前に作られたものであるようだ。
魔導師団に持ち込んだら、魔導師団長はじめ研究熱心な魔導士たちが顎を外すほど驚くに違いない。
(それはそれで見てみたいな)
くすっと小さく笑みを零し、少年―――この国の第三王子ルシアン・アディル・フェアノスティは、件の魔道具と、一緒に見つけた書物を見比べた。
念のためもう一度鑑定魔法をかけてみる。
判明したのは、この魔道具が単なる記憶装置に過ぎず危険なものでないことと、その記録作成年の他、記録者と題名。
記録者:リーデンス・フェロウ
記録名:魔法と魔力の基礎理論(講義第1回)
書物の方も作成年は魔道具の記録と同じという鑑定結果だった。
リーデンス・フェロウというのは、千年前頃に実在したハーフエルフの魔法学者の名前だ。
彼の手により多数の魔法理論他の書物が遺されていて、千年経った現在でも、魔法を学ぶ者たちの主要な教本として使われている。
中でも、少年が手に持っている書物、【魔法と魔力の基礎理論】は魔法力学の基礎中の基礎として手に取らない者はまずいないほど有名な一冊だ。
ただ、この本についてフェロウ氏は著者ではなく編纂者となっている。
フェロウ氏が、王国史上最高峰の魔法使いアーネスト・シルヴェスター公爵の導き出した理論を纏めて編纂したとされているからだ。
シルヴェスター公爵自身も多数の魔術書や論文を遺しているが、その多くに編纂者や共著者として魔法学者リーデンス・フェロウの名が記されている。
内容を照らし合わせてみるに、先ほど聞いた魔道具の記録音声はこの本の有名な冒頭部分、妖精が世界を巡り魔力が循環する”環廻”という現象についての問答のようだ。
音声の中で”リード”と呼ばれていたのがリーデンス・フェロウ氏であろう。
つまり、魔道具に収められていたのは、この本を編纂するにあたってフェロウ氏が師であるシルヴェスター公爵本人に実際に聞き取りをした時のものということだ。
妖精に近い存在であるエルフ族が、彼らだけの隠里で暮らして他の種族との関わりをほとんど持たなくなって久しい。
そういう意味では、人間たちの王国に住まいながら研究を行っていたこのハーフエルフの学者はとても珍しい存在だったといえよう。
なにより、身体能力でも蓄えた知識量でも人間よりも遥かに秀でているエルフが魔法という分野で人間に師事していたということのほうが珍しいのかもしれない。
それだけシルヴェスター公爵アーネストという人物が魔法使いとして稀有な存在であったということだろう。
妖精に連れてこられた手前、純粋に偶然の発見とは言えないような気はするものの、見つけてしまった魔道具に収められていたのが魔法学史の超有名人ふたりの肉声だったわけで。
しかも書物の方は写本ではなく原本であった。
魔導師たちが顎を落とすどころか魂ごと持っていかれそうなほどの世紀の大発見だ。
なのに、発見者たる第三王子が思ったことといえば。
自分の遠い祖先筋にあたるシルヴェスター公が、銀星公と呼ばれ今なお魔法を学ぶ多くの者達の尊崇を集め続けている彼が、実はものすごーく面倒くさそうな人物だったようだという感想だった。
弱冠12歳にしてはこの王子、ちょっとやそっとでは動揺しない図太さを持っている。
(エライものを見つけちゃったな)
そもそも、今日は朝から予定が狂いっぱなしだった。
朝の身支度をする傍ら侍従から今日の予定を聞かされた際に、本日行うはずだった王子教育が師の体調不良のため急遽取りやめになったと告げられた。
空いた時間に騎士団の訓練場で剣の稽古でもしようと思ったが、昨日から外は酷い雨。
悪天候下での訓練ですら短時間で切り上げられるほどの土砂降りで、騎士団員は城下にて異常事態があったときにすぐ動員可能なように城郭外の各騎士団詰所で待機を言い渡されているそうだ。
自室に籠ってのんびりしてもよかったのだが、久しぶりに本でも読もうかと城内の図書室にやってきたのだ。
そして、ふと思い立って図書室区画の最奥にある禁書庫へ向かった。
登城した者なら誰でも入れる区域の更に奥、王族など許可された者のみ入室・閲覧できる特別な書庫だ。
護衛に待機を言い渡し、扉に施された魔法錠に手を触れて魔力を読み込ませ自分の名を告げると、微かに魔法錠が発光した。
『認証完了 第三王子ルシアン・アディル・フェアノスティ殿下 入出を許可します』
頭の中に直接言葉が響くと同時にルシアンの体は魔法の光に包まれて禁書庫内へと転移するのが通常の流れ―――のはずだった。
入出許可を告げられたそのあとに、予期せぬ文言が続くまでは。
『ようこそ、星影宮蔵書室へ』
「……は?」
魔道具相手だというのに思わず聞き返してしまった。
”エリシオン王宮禁書庫”ではなく、”星影宮蔵書室”。
はっきりと聞こえた魔道具の無機質な音声にちょっと待てと言う暇もなく転移魔法が発動。
気づけば見覚えのない場所に立っていた。
壁際にずらりと並ぶ―――本、本、本。
本来の目的だった禁書庫も本だらけには違いないのだが、室内の様子はだいぶ違う。
ルシアンが立っているこの場所は、王室図書室のような大規模所蔵庫よりももっと小規模な、誰かの個人的な蔵書を納めたような印象の部屋だった。
王城で室内を照らしていた魔道具の光ではない、柔らかい太陽の光が窓から直接差し込んでいる。
窓辺に造りつけられた机に手をつき玻璃越しに見上げてみれば、よく晴れた空に小鳥が愉し気に飛んでいくのが見えた。
降り注ぐ陽射しが、部屋に面した庭とその向こうに佇む森の丈高い木々の緑を一層鮮やかに見せている。
王室図書室は三階にあるのにここはどう見ても地上階で、天候すらも違う。
やはり、先ほどまでいた王城とは全く別の場所へと転移させられたようだ。
転移時に聞いた音声の内容が正しいならば、ここは王国の南に位置するザクト南方辺境伯領にある離宮”星影宮”であろう。
フェアノスティの王城は非常に古く、広い城内には王国の歴史を彩る高名な魔法使いたちが自分たちの魔法技術をここぞとばかりに注いで練り上げた仕掛けや魔道具が多数存在する。
その多くを手掛けたのも星影宮を造営したのと同じ銀星公アーネストで、禁書庫の扉も彼の遺した魔道具の一つだ。
入室したいものが扉の魔法錠に触れれることでその魔力を探査し、資格登録がされていれば指定領域内に転送する。
本来、ただそれだけを厳格に行うはずの扉なのだ。
しかし今日に限って、しかも第三王子であるとの認証をした上で、別の場所へと転送された。
そして転送先のこの場所で手をついていた窓際の机の端にふと目を遣ったところで、自分もかつて学んだ魔法力学の入門書と箱型の魔道具がそれはもう手に取ってくれと言わんばかりに並んで置かれていたのが目に入ってしまい。
―――今に至るというわけだ。
本当に極稀にではあるが、王城エリシオン内においてはこのように、気まぐれな妖精たちによる悪戯と思しき怪現象が発生することがあった。
物が無くなったり、反対に失くしたものが突然戻ってきたり、今回のように扉が予想外のところと繋がったり、悪戯の内容は様々。
そしてそれに見舞われるのは大抵、その身に有する魔力量の多い王族であった。
ルシアンの父である国王フェルナンは高位の妖精やエルフと会って話をしたことがあるというし、一番上の兄王子も妖精たちに連れられてうんと遠い北の花園に行って貴重な薬草を見つけたとかなんとか。
誰かに、または何かに出会わせるための”悪戯”なのだと、歴代の”被害者”は言う。
確かにそれを聞いたときはちょっと羨ましかったし、妖精と約束したからとあまり詳しく語ってくれない兄姉や父王を恨みがましく思ったりもした。
幼馴染と二人、いつか自分たちの身にも起こるかもしれないと期待を膨らませながらあれこれ語り合ったりもした。
したけれど。
(ついに僕も、悪戯被害者の仲間入りというわけか)
実際に己の身に降りかかってみると、これはなかなかに厄介だ。
普段から達観しているというか、あまり物事に動じない方だと自他ともに認める性格のルシアンだからこそわりと落ち着いているが、普通の子供なら少々錯乱しても責める者はいないだろう。
父や兄達から”悪戯”により命の危険があるようなことはないとは聞いているが、何を期待されて突然こんな状況に置かれているかが現時点ではさっぱりわからないのでなんとも居心地が悪い。
この部屋には、庭に面した側の壁に外へと通じる扉が一つと、反対側に建物の奥へと続いているであろう扉がもう一つある。
どちらも何の魔力も感じない普通の扉のようだから、たとえそれらを潜っても王城には戻れそうにない。
どうやって元居た場所に帰れるかすら分からないのだから、これはもう妖精による拉致監禁ではなかろうか。
『この世界には妖精が存在する。故に魔力が存在する』
無意識に魔力を込めてしまったらしい。
手の中で再び音声を再生し始めた魔道具を止めた。
朝からの一連の出来事を回想のように振り返って、ルシアンはもう一度溜息を零した。
小さな魔道具を目の高さに掲げ見る。
鑑定結果もただの記録装置だったし、罠とか呪いとか、そういう類の危険は感じない。
が、別の意味でトンデモな代物だ。
銀星公の離宮の蔵書室で見つけた、銀星公本人の肉声が収まった千年前の魔道具。
自分がこの場所に呼ばれた理由、今回の妖精の悪戯の目的はコレだろうかとも考えたが、ただただこれを見つけるだけのためとはどうも違う気がする。
なら、これから待ち受けているものとは何だろう。
銀星公が王国から姿を消してから千年、閉ざされたままだった離宮”星影宮”。
一応一帯は王領として王家の管理下にはおいているものの、公本人が施したと思われる強力な結界魔法により離宮には入ることはままならず、実質千年間放置されていたに等しい。
しかしあらためて室内を見回してみても、千年人の手が入っていないとは思えないほどに整然としている。
防汚魔法により塵ひとつ綻びひとつなく保存されている本の中から、無作為に一冊を手に取ってみた。
薬草学の本だった。
何巻か続けて刊行されているもので、全てを揃えて手に入れるのは難しい希少な本。
しかもこの巻は王宮の禁書庫にすらなかったはず。
冊数は王宮書庫のそれより少なくとも、この蔵書室内には計り知れないほど価値のある物ばかりが並べられていた。
(ここが星影宮だというなら、ザクト辺境伯領都からも近いということになるのか。
あいつがこの蔵書の数々を見たら喜ぶだろうに)
ルシアンの脳裏に、友の姿が浮かんだ。
ルシアン自身とは親子ほども齢の離れた姉は、彼が生まれるより前に王立騎士団総騎士団長であるザクト南方辺境伯に嫁いでいる。
その一人息子は王家の末子であるルシアン第三王子より2つ年上で、血縁的には甥にあたる。
実の姉兄と齢が離れているのもあり、辺境伯子息はルシアン王子の話し相手として物心つく頃より王宮で共に遊び学んできた近しい間柄だった。
薬草はもちろん植物全般に非常に興味を持っている彼ならこの本も手に取ってみたいだろうと思ったのだ。
なぜ妖精は自分を連れて行ってくれないのかと悔しがる友の顔を想像すると、本を棚に戻すルシアンの顔が自然と綻んだ。
その友人は今現在王都に居ない。
ルシアンの次兄、つまり第二王子が留学先である南大陸の友好国から海路で近日中に帰国する予定だ。
王子を乗せた船がターレ港に着くのに合わせ、総騎士団長のザクト伯は妻子を伴って久々に領地に戻っているのだ。
総騎士団長率いる精鋭が第二王子一行を護衛する形で王都に帰還する前に、次兄は幾日かはザクト辺境伯城館に滞在することになっている。
次兄の帰国と姉家族との再会がこの晴天の下で叶うというのなら、それは喜ばしいことかもしれない。
その時、頬が微かに風を感じた。
窓や扉がすべて閉まっている室内だ。
こういう時は大抵――――――
『やぁ!こんにちは!イオとリフィーの子!』
『愛しい子!僕たち妖精に近しい子!』
虚空にふわりと姿を現したのは、王城エリシオンでも一番多く見かける風の妖精たちだった。
他国の民たちにとっては妖精は御伽噺の住人。
魔法王国フェアノスティにおいてすら、魔力量の少ない普通の民にとってはその存在を信じてはいるが滅多に見たり感じたりはできないもの。
妖精はやはり自分たちとは違う世界の存在、という認識だった。
だが、魔力量の多い魔法使いや王侯貴族たちは普段から妖精の存在を感知でき、さらに一部の者に至っては言葉を交わすことすらできる。
ルシアンにとっても、名もなき小さな妖精たちは馴染み深い存在だった。
「こんにちは。
僕をここに呼んだのは君たち?」
『そうだけど、違うよー』
『あってるけど、違うよー』
「どっちなの?」
『連れてきたのは僕たち!』
『呼んだのは王様!』
「王様?」
『王様が会いたがってるよ』
『もうすぐ案内してくれる子が来るよ』
『その子に着いて行けば会えるよ!』
口々によくわからないことを言いながら妖精たちが森に面した窓の方へと消えていったのを目で追う。
すると、窓枠の下方ギリギリのところを薄い桃色のふわふわしたものがゆっくりと横切って行くのが目に入った。
「?」
窓辺の机に手をついて玻璃ぎりぎりに顔を近づけるようにして外を見れば、建物沿いをとことこと歩いていく小さな姿が見えた。
黄緑がかったふわふわとしたワンピースの裾が、薄桃色の髪と一緒に弾んでいる。
歩きながら森や建物内をきょろきょろと見ている。
髪から覗く横顔はここからでははっきりとは見えないが、ルシアン自身よりも幾分幼いように思えた。
窓から少し離れて庭に面した扉を見ながら思案する。
念のため鑑定魔法をかけてみたが、やはり禁書庫の扉のような転移魔法などは施されていない。
それでも普通なら、開けない、の一択である。
興味をそそられたものにそのまま着いていくような幼子ではないし、なにより第三とはいえ王子という立場もある。
軽々に未知のものに触れてよいほどその身に課せられた責は軽くないことも理解しているのだが。
(なんだろう。すごく……追いかけたい)
突然沸き上がった強い衝動に戸惑う。
それと共に、ひとつの予感を覚えた。
握り込んだ小さな箱型魔道具から伝わる、硬い感触。
この扉の先で、この離宮とも縁の深いあの人物が待っている、そんな予感がした。
それに、先ほど妖精たちが”案内してくれる子が来る”と言っていたのもある。
どのみち現時点で妖精の悪戯の中に捕らわれているのだからこのまま扉の内側に留まっていても益はないだろうと、ルシアンは心を決めて扉の把手に手を伸ばした。
扉を開けて一歩踏み出した途端、森を抜けてきた濃い緑の薫りを含んだ空気の流れがルシアンの金髪を揺らした。
離宮は妖精の森を抱くように三日月型に湾曲して建てられていて、森へと続く庭に面し建物に沿った回廊が設けられていた。
風に押された扉が少しだけ音を立てて閉まった。
その音を背後に聞きながら探せば、こちらに気付く様子もなく回廊を歩いて行く後姿が見え、見失わずに済んだことにほっとする。
探索魔法で周りに他の者の気配がないかを確認しつつ、その小さな人をそっと追いかけた。
彼女の周りをくるくると愉し気に舞っているのはさきほどの風の妖精たちだろうか。
妖精に戯れつかれた薄桃色の髪が、差し込む陽射しを跳ね返しながらふわふわと踊っている。
彼女自身も妖精かもしれないと思ったのだが、鳥の鳴き声に立ち止まって空を見上げたり弄ばれる髪を押さえたりするその姿は、なんだかすごく実体があるように感じられた。
おまけに、とことこと歩きながら時折回廊に面して造られた扉を開けてみたり窓から内部を覗き込んだりしている。
(もしかして迷子なの?)
少女が頻繁に足を止めるので、わりとすんなり追いついてきてしまった。
少し迷った末、思い切って声をかけてみた。
「何か探してるの? 妖精さん」
びくりと肩を揺らした後、波のように緩くうねった柔らかそうな髪を翻して少女が振り向いた。
見開かれた翡翠の大きな瞳が少女の驚きを如実に現していた。
回廊をずっと歩いてきたからか、少しだけ上気して薄紅が差している柔らかそうな頬。
小さな耳には、瞳と同じ色の耳飾りが揺れる。
幼さの中にも凛とした意思を感じさせる、美しい少女だった。
突然声をかけて怯えさせただろうかと危惧するルシアンの顔を見ながら、少女は翡翠の眼をパチパチと瞬かせたあと、小首を傾げるように尋ねてきた。
「あなた、どうやってここに入ってきたの?
ここは魔法の国にある秘密の宮殿なのよ。
秘密の場所だから誰も入ってこれないって”アーニー”は言ってたわ」
星影宮は魔法王国フェアノスティにある閉ざされた離宮なのだから、表現的にはあれだがあながち間違いではない、かもしれない。
「僕は……魔法の国の魔法使いだからね、特別なんだよ」
「お兄さん、魔法使いなの?」
「そうだよ。ほら」
ルシアンは片手を空に翳し、簡単な水魔法を発動させる。
大気中から集めた水分を操って小さな鳥の形にし指先にとまらせてみせると、少女が素直に感嘆の声をあげた。
「すごい、本当に魔法が使えるのね」
「まあね。
そういう君も、魔力を持ってるだろう?」
「私は……魔力はあっても魔法は使えないの」
「?
ふぅん……で、妖精さんはどうしてここに?」
「お茶会に呼ばれたからよ。
あなたも、そうなのではなくて?」
「お茶会?」
「そう、王様のお茶会」
王様と呼ばれるのは、この国には一人だけである。
けれど、彼女の言う”王様”はおそらくルシアンの父であるフェアノスティ国王のことではないだろう。
(妖精たちも”茶会で王様が会いたがっている”って言ってたな。
まあ、唯人ではない方々も含めるなら、父上以外にも”王様”に心当たりがあるけど)
「どなたにかはわからないけど、呼ばれた、のには間違いないかな。
突然ここに飛ばされてきたから」
「お空を飛んできたの?」
「いや、えっと…魔法で」
「魔法で?!」
自分を見上げるように大きな目をキラキラと輝かせる姿はなんとも愛らしい。
小動物のような少女の頭を撫でたい衝動を、ルシアンは理性を総動員してぐぅっと我慢した。
「っ………あと、僕の家がここの管理をしてるからかな。」
「秘密の宮殿の、管理人さん?」
「の、息子なんだ。僕は」
閉ざされて特に手入れなどは行っていないにしろ、離宮は王家の管理下にある。
こちらも嘘は言っていないよね、と思案するルシアンに、少女が問いかけた。
「管理人さんなら、厨房や家政室の場所はわかる?」
「家政室?
……そうだね、たぶん」
ここはちょっと嘘をついたことになるかもしれない。
とっさに管理人の息子と言ったものの、なにしろ始めてきた場所だ。
建物内部の構造など知っているわけはない。
けれど魔法は使えるようだから、探索魔法で大体の場所はわかるだろう。
「よかった!
あのね、お客様が増えたって聞いたから、追加で茶器を持ってきてほしいと頼まれたの。
でも、場所がわからなくて……案内をお願いできないかしら?」
案内する子が来ると言われたのに、逆に案内を頼まれてしまった。
増えた客、とはつまりルシアンのことだろうか。
とりあえず承諾の返事をしようとしたところ、あっと少女が声を上げた。
「でも、あなたもお茶会に呼ばれたのよね?
お客様に準備を手伝わせちゃ申し訳ないわよね…」
眉間に皺を寄せながら真剣な顔で考える生真面目な少女に、ルシアンは堪え切れずに笑ってしまう。
「君はお茶会の主催者側なの?
それとも参加者側?」
「参加者側よ」
「なら、同じ参加者の僕が君の手伝いをしても別に問題はないんじゃないかな。
そもそも僕が遅れて席に加わったからなんだろう?」
微笑んでそう告げれば、少女も少し目を瞠った後で嬉しそうに頬を染めて笑った。
「じゃあ、一緒にきてくれる?
私のことは”リズ”って呼んでね」
「リズ?」
「あくまで私的な茶会なのだから、愛称や略称で呼び合うことにしようって、前に”アーニー”が言ったの。
あなたのことは何てお呼びすればいいかしら?」
愉しげにそう問いかけるリズに、ルシアンはうーんとちょっとだけ考えた。
第三とはいえ王子である。
誰もが彼のことを知っている王城内で育ったのだから改まって名を尋ねられたのも初めてのことだった。
それで戸惑ったのもあったのだが、実を言えば、愛称や略称というものがルシアンにはなかったのだ。
家族や幼馴染のザクト伯子息など本当に親しい者はそのままルシアンと呼ぶし、騎士や侍従など王城で働く者達や学友達はルシアン殿下や第三王子殿下、または単に殿下と呼ぶ。
(そもそも”ルシアン”は略すほど長い名前ではないし。
そうだな……)
ルシアン
るー
るー
「るー………」
「ルー?
ルーくん?」
「……あ。」
考えながら思わず声に出してしまっていたのをリズが聞き拾って尋ねてきた。
翡翠の瞳がきらきらとルシアン見つめていて。
否定したり拒んだりする言葉はするんとどこかに飛んで行ってしまった。
「……うん。ルーでいい。
くんもいらないかな」
出会ったばかりの少女によって生まれて初めての愛称が決まってしまった。
親族以外からは、王族として一定の距離を保ったやり取りをされてきたルシアンは、何とも言えないくすぐったさを感じた。
でも不思議と嫌ではない。
寧ろ嬉しく思ってしまう自分に驚いていた。
(これってやっぱり………)
「わかったわ。
よろしくね、ルー」
にこにこと笑う少女に、湧き上がる予感を一旦押し込め、笑みを返した。
「よろしく、リズ」
探索魔法を使うまでもなく、連れ立って回廊を歩いているうちに運よく見つかった厨房には、使用人は誰もいない筈なのに既に追加の菓子と茶器が用意されていた。
誰がとか、いつも間にとか、だんだん考えるだけ無駄な気がしてきた。
だってここは妖精の悪戯の中で、しかも大魔法使い銀星公の離宮なのだから。
茶器と菓子を乗せた盆をルシアンが持ち、リズには茶会の会場まで案内してもらうことになった。
相変わらず風の妖精たちが楽しそうにおしゃべりしながら纏わりついてくるのだが、リズには見えてはいないようだった。
魔力はあるけど魔法は使えない、というのは本当のようだ。
彼女はルシアンよりも4つ年下で、現在8歳だという。
身形も振る舞いや言葉遣いも貴族、もしくは何処かの王族であるように見受けられる。
王族である自分もそうだが、そんな幼い少女が共も連れずに一人でいることは普通はあり得ない。
そもそも、結界で閉ざされたこの星影宮に彼女はどうやって入ったのだろう。
「リズは一人で来たの?」
「いいえ、姉と妹の三人よ」
「三人姉妹か。
いいね、華やかで」
「華やか…んーまぁ、傍から見れば華やかに感じるかもしれないわね」
「え?」
「殿方の夢を壊しちゃいけないからこれ以上は言えないわ」
「え?え?」
「なんでもないわ、気にしないで。」
「いや、気になるでしょ」
「そう言うルーは兄弟はいないの?」
「……姉が一人と、兄が二人。
僕とはみんな齢が離れててね。
姉の子供なんて、血縁的には僕の甥にあたるのだけど僕よりも年上だったりする」
「甥なのに、年上なの?」
「そう。
兄二人は僕が物心つく頃にはもう”家業”の手伝いを始めてた。
だから、どちらかというと甥である彼の方と兄弟みたいに育ったよ」
「仲がいいのね」
「ん?」
「ご兄弟とも、その甥にあたる方とも。
あなた今、とても嬉しそうに話しててよ?」
「そう…かな。
ん、まぁ後から生まれた分、親や兄姉からは甘やかされた自覚はある、かもしれない」
「まぁ…ふふっ。
でも分かるかもしれないわ、ルーのお姉様やお兄様がたのお気持ち。
実はね、いまお母様のお腹に赤ちゃんがいるの!」
「それは、おめでたいね」
「そうなの!
姉も妹も、もちろん私も、とても楽しみにしているの。
ルーとお姉様ほどではないけれど、生まれてくる子は私よりもずうっと年下になるのだもの!
私たち三人は齢が近いから、だからきっと、生まれてきたら弟でも妹でも、みんなしてうんと甘やかしてしまうと思うわ。
いつかはこうして、生まれてくる弟か妹もお茶会に一緒に来れたら嬉しいわ」
「ずいぶん先にはなりそうだけど。
その時は僕もご一緒させてほしいな」
「もちろんっ」
愉しそうに笑うリズの横顔を見ていたら、会話から彼女の素性を探れないかと思っていたのも忘れて顔が綻んだ。
こんなふうに、姉兄たちも自分の誕生を待ち望んでくれていただろうかという思いももちろんあるのだけれど。
それとはまた違う暖かさが胸の内に湧き上がるのを感じてしまう。
フェアノスティには、実は魔法や妖精よりももっと大衆によく知れ渡っている話がある。
それは、『フェアノスティの男はたった一人の相手を見つけて愛し抜く』というもの。
惚れっぽいとか恋多きとかという意味合いではない。
この人だという相手に出会うと、一途に愛を捧げるのがフェアノスティの男なのだ。
王家に生まれた男性達は特にその傾向が顕著で、王は王妃唯一人を愛し、代々側室というものが置かれることがない。
王家の血を繋ぐという点で不安があると他国の者は思うかもしれないが、そこは千年の王国史が王家の盤石さを証明している。
父王フェルナンも王妃ミリアリアを心から慈しみ、傍で見ている子供たちですらちょっと勘弁してほしいと思うほどに溺愛している。
言葉を交わしながらすぐ隣を歩くリズの笑顔を見つめる。
『その時が来たら判る』と、父は言っていた。
かつての王自身が、王妃と出会って感じたように。
見つめているのに気づいたのか、リズがルシアンの方を見上げるようにして「なぁに?」と問いながら視線を合わせてきた。
それだけで心臓が踊るのが抑えられない。
頬が熱い。
襟元を寛げたいのに、両手が茶器と菓子で塞がっているのがもどかしい。
落ち着け落ち着けと心の中で唱えながらふぅっと息を吐き、別の話題を振ってみた。
「リズはこちらに何度も招かれているの?」
「私は今日で三回目。
前の時もその前も”アーニー”に連れてきてもらったの。
今日は”イズファ”が迎えに来てくれたわ」
一般的なお茶会のように招待状が届くわけではないらしい。
ルシアン自身は妖精の悪戯によって唐突に連れてこられたようなものだ。
もしかしたらリズも妖精に呼ばれたのかもしれないと考えたのだが、案内人がいたようだ。
(”アーニー”と”イズファ”、ねぇ)
その名で思い当たるのはこの離宮の本当の主。
まさかとは思う一方で、この状況下ならなんだってあり得るかもとも思う。
それに、魔道具の記録音声で語られていた中に、リズの話したもう一人の名前が出てきた気がする。
ぐるぐると思考を掻きまわしながらもリズとの会話を楽しんでいるうちに、妖精の森のすぐ畔の灌木に囲まれた場所にある四阿にたどり着いた。
「おまたせしました」
リズが声をかけると、四阿に居た人の視線が一斉にルシアンたちの方を向いた。
二人は子供だった。
髪色などは皆それぞれだが面差しはリズに似ている。
だから、さきほど彼女が言っていた姉と妹だろうと思ったのだが。
「彼が今日の新しいお客様のルーです。
ルー、こちらはグレン兄様、それと妹のレイちゃんです」
自分と同じ年くらいに見うけられる方を兄だと紹介されて、張り付けた鉄壁の王子スマイルがうっかり固まりかけた。
高い位置で一つに結んだ長い髪は良く晴れた日の澄んだ空のような明るい青色。
質素な装いであるのにも関わらず気品が漂う凛とした佇まいのグレンは、眉目秀麗というのがぴったりな顔でまっすぐにルシアンの目を見据えている。
その肩に次代の国の未来を担う覚悟を乗せた者特有の気迫とでもいうのか、どことなく、一番上の兄を彷彿とさせた。
もう少し幼ければ少年にも見えなくはなかったろうが、隠しきれない女性らしさが感じられて、やはり姉で間違いないのだろうと思った。
何らかの事情で男装や女装をすることが王侯貴族にはままあるのだ。
よろしくと差し出されて握った手の感触は、女性の嫋やかな柔らかさの中に剣の鍛錬をする騎士見習いの少年達のものと似た硬さがあった。
握りあった感触に相手も同じことを思ったのだろう。
よろしければ一度手合わせを、とにこやかに言ったグレンの目だけが笑っていなくて再び頬が引き攣りかけた。
その隣には、レイちゃんと紹介された可愛らしい銀髪の妹君。
「……王子さまだ」
水色に近い薄蒼の大きな瞳でじっと見た後でぽそりと宣った一言に「違うよ」と言おうとしたルシアンの口が開く前に、姉妹の会話が盛り上がる。
「この間、ねえさまが読んでくれたご本に出てきた王子さまみたい」
「確かにそうかも」
「それは私も読んだことがある本かな?
あの王子も彼と同じ金髪に青い目だったね」
弾む会話を否定して場の雰囲気に水を差すのもどうかなと躊躇っているうちに、「こちらにどうぞ、王子殿下」と椅子を勧めてくれたグレンに自然な流れで「ありがとう」と答えてしまい。
王子じゃないですと下手な言い訳や誤魔化しを披露する暇もないままに、茶会参加者の中での呼称が”ルー”ではなく”王子”の方に落ち着いてしまったのだった。
三姉妹の他の参加者のうち、一人はエルフだった。
エルフ族は普段は閉ざされた隠れ里に住まっていて、妖精や魔法に縁が深いフェアノスティ王国においても彼らに出会うことは稀である。
妖精たちに近しく魔力の扱いに長け、身体能力も高く、また不死に近い寿命を持つとも言われている。
そしてなにより、大変見目の麗しい種族である。
”イズファ”と名乗った彼も、ブルネットの長い髪と新緑色に銀の星を散りばめたような不思議な色の瞳を持つ、大変麗しい姿をしていた。
ゆったりとしたエルフ族固有の装束を纏い、銀の細い額環が波打つ長い黒髪によく映えて、そこに居るだけでまるで光を放っているかのようだ。
口調と声で『彼』だろうと判断したが、性別など些細なことに思えるほどに、そこに存在しているだけでただただ美しかった。
「ルーくんは”ルース”に面差しが似ていなくもない。
そう思わないかい?
”アーニー”」
イズファが最後の一人に視線を流しながら問うた。
古代語で書かれていると思しき書物を静かに閉じたその人は、銀細工師が精魂込めて作ったような美しい銀髪を無造作にひとつに束ねて背中に流していた。
芸術品のように端正なその顔を、ルシアンは『建国の父たち 金日王と銀星公』と題された古い肖像画で見たことがあった。
金髪に青い目の王と、彼と並ぶ銀髪に同じく青い目の公爵。
王国史上最も有名な二人なのだからきっと美化して描かれているのだろうと思っていたのに、実際に目の前にすると名匠が描いた肖像画よりももっと整った容姿に驚く。
しかも、さきほど魔道具の記録音声で肉声を聞いたばかりだ。
王城から突然この離宮に飛ばされて蔵書室で魔道具を見つけてから、なんとなく出会うことになる予感はしていた。
イズファの言うところの”ルース”とはおそらく、フェアノスティ建国の父、金日王ルーファウス・アディル・フェアノスティのこと。
まさに今、ルシアンの目の前にいる人物の、兄にあたる方。
「はじめまして。
えっと……大叔父上…?」
ぎこちない笑顔のままルシアンがそう言うと。
稀代の大魔法使い、銀星公アーネスト・ソイール・シルヴェスターは、魔道具に収められていたのよりも少し落ち着いた印象の声で「よく来たね」と柔らかく笑ったのだった。
侍女も側仕えもおらず自分たちで給仕をする以外、茶会自体はごくごく普通のものだった。
リズ達姉妹は三度目の参加だと言っていたからどうしても唯一新参のルシアンに話題が集まりがちではあるのだが、質問攻めになるというほどでもない。
それこそ名前しか知らなかった親戚宅のお茶の時間に突然招かれたような気分であったが気づまりな雰囲気になることもなく、思いのほか愉しく過ごすことができてルシアン自身も驚いていた。
ただ主催者であるはずの”王様”は、この場にはいないようであったが。
ひとしきり話をして茶を愉しんだ頃、イズファが思い出したように言った。
「さっき散策して見つけたのだけど、レンセジウムが今ちょうど満開になっているよ」
「白くて、真ん中のところが赤いお花ね」
「レイちゃんは物知りねぇ」
「根に毒があるのだけど手順を踏んで生成すると貴重な薬の材料にもなるの」
「本当に博識だね、偉いな。
リズ、レイ、兄さまと一緒に見に行こうか」
「ルーも一緒に行きましょう?」
「あー…」
笑顔のリズに自然な流れで誘われて、少しだけ心が動いた。
正直なところ、できることなら離れずに彼女の傍に居たいのだけれど。
目線だけ動かして、斜め前に座って茶を飲んでいる人を見る。
「……ごめん、リズ。
ちょっと、大叔父上にお尋ねしたいことがあるんだ」
「そう、なの?」
残念そうにする彼女に心が痛む。
けれど、自分がこの場所に来たのには理由があるはずなのだ。
お茶会を愉しむだけではない、何かが。
ならばそれを知る手掛かりは、この厄介そうな大叔父殿が握っているに違いない。
ごめんね、と謝ると、沈みかけた表情を無理やり引っ込めるように、リズは笑って頭を振った。
その遣り取りを見守っていたイズファが席を立つ。
「ならば、王子の代わりに私がエスコートをしよう。
いかがです、姫様?」
「光栄ですわ」
芝居がかった仕草で差し出されたイズファの手に掴まって、リズが腰を上げた。
四阿の外へと彼女を誘いながらイズファが振り返った。
「……よろしいか?」
「ああ。
しばらく頼むよ、”イズファリエン”」
グレンに手を貸してもらって椅子から降りながら、レイがアーニーとイズファの会話をじっと見つめていた。
なおも見つめるレイに、アーニーが微笑みながら行っておいでと声をかけると、彼女は無言のまま幼い少女らしからぬ洗練された動作で淑女の礼をとった。
四人の姿が灌木の向こうに消えるのを見送ったあと、ルシアンは唇を引き結んでアーニーに向き直る。
一方のアーニー、もとい銀星公は、ふらりと立ち上がると四阿の壁に作られた小さな扉を無造作に開いた。
扉は空間魔法を施した保管庫になっているらしく、そこから茶葉や新しい茶器、湯を沸かす魔道具などを取り出している。
それならそもそもリズを離宮にまで使いに出さずに済んだのでは?とは口には出せなかった。
おそらくルシアンを迎え行かせる目的で、彼女に追加の茶器を用意するように言ったのだろうから。
手慣れた様子で魔道具から湯を注ぎ、淹れ直した紅茶を茶器に注ぎ入れてくれた。
ルシアンが茶の礼を言うと、銀星公はふふっと愉し気に笑う。
「毒見の居ない茶会なんて初めてじゃないのかい?」
「そうでもないですよ。
うちはいろんな意味で緩いですし、各自で鑑定魔法もかけますから。
たとえ盛られても、解毒の魔道具で弾くのでたいていの毒は効きませんけど。
それに大叔父上が僕に毒を盛る意味も、ないですよね」
「まぁね。
小さな淑女たちとも仲良くなれたみたいだね。
彼女らの素性は気にならない?」
「だいたいの”あたり”はついてますので」
フェアノスティと共通の公用語に交じる僅かな訛り、茶会での愛称と符合するそれぞれの名前と齢の頃、伝え聞く王女たちの外見的特徴。
それらから、おそらく間違いないとルシアンは踏んでいた。
南北の大陸の間にあるソラン海に浮かぶ島々を纏めて統治するカロッサ王国。
フェアノスティ王国とも友好関係にあるその国には、宝石のように美しい三人の王女が居るときく。
第一王女の”藍玉姫”グレイシア
第二王女の”珊瑚姫”アリスティア
そして第三王女”真珠姫”レイリア
「あの島からは転移魔法か何かで?」
「ふふっ……秘密。
可愛いでしょう?あの子たち」
「…そうですね。
噂に違わず、たいへんお美しい方々だと思います」
「なかでもリズと、親しくなれたみたいだね」
「っ!」
「ルーくんも”フェアノスティの男”だものね」
「………ぅ」
抱きたての想いを見透かされた驚きを押し殺すルシアンを、銀星公は頬杖をついてにこにこと微笑んで見ている。
気恥しいやらなにやらで、思わず睨んでしまうのは仕方ないだろう。
「……随分と愉しそうでいらっしゃいますね、大叔父上」
「まぁね。無事に縁を結べたみたいで嬉しいよ。
この先どう行動するかはルーくん次第だからね」
「縁結びって……まさか顔合わせのための茶会というわけでもないでしょうに」
「ないと思う?」
「あたりまえで………まさかホントじゃないでしょうね?」
「ふふふっ、どうかな。
それにしてもこんな妙ちきりんな状況なのに、ルーくんはなんというか、いろいろと動じない子だね。
本当、ちょっと残念なくらいに冷静なとこがいい」
「…褒めてませんよね?」
「褒めているとも。
そんな君だから、こうして会いに来たんだもの」
会いに来たではなく、呼びつけたの間違いじゃなかろうかとルシアンは思う。
無言のままじとりと半眼になるルシアンに、銀星公はますます愉し気に笑い声をあげる。
「っ……少なくとも揶揄って遊ぶためだけに呼ばれたのではないですよね?
早く本題に入ってください」
「ごめんごめん」と苦笑して、銀星公は無造作に持ち上げた掌をふわりと拡げた。
魔力が緩やかな風のように流れ出るとともに、その掌の上に青く光る小さな環が出現した。
それが徐々に拡がった後、環がくるりと回転して四阿をすっかり包むような半球体を形作ると、すぐさま霧散して消えた。
「今のは…?」
「防音と、魔力遮断の結界を張ったよ。
少しだけ、内緒話に付き合っておくれ」
国政を論じる場や要人の警護では、防音結界や防御結界は大変重要な役割を担う。
だが結界の術式は複雑でそれを操る術者も希少なため、結界術式を込めた魔道具も貴重品でかつ非常に高価である。
その結界を動作ひとつで顕現させてしまうとは。
しかも無詠唱。
あらためて、大魔法使いというのは常軌を逸しているとルシアンは思う。
「”環廻”について知っていることは?」
「”環廻”について、ですか?」
唐突に訊ねられ、思わず聞かれたことをそのままなぞって問い返してしまった。
さきほど蔵書室で聞いた魔道具の内容とも被るが、これではまるで王子教育や学院の教師からの問いかけのようだ。
どんな内緒話が飛び出すのかと身構えていたのに。
さりとて質問には答えなければならない。
ルシアンは、自分の中にある知識を手繰り寄せながら慎重に言葉を紡ぎだした。
「妖精たちが世界を巡ることにより、魔素が流れて魔力が生まれているというように教えられています。
妖精たちの”環廻”により、この世界に元々あった魔素が流れ、魔力の澱みが晴れたと」
「そう……」
「竜王たちが来たことにより、この世界には安定が齎されたのだ、とも」
「ふむ。
では改めて尋ねるけれど。」
「はい」
「妖精が世界を巡る、とは具体的にどういうものだと思う?」
「………はい?」
「ただただ、ふわふわと漂うように妖精たちが世界を旅していると、思っていないかい?」
言われて、ルシアンは返答に詰まった。
環廻のことを、まさに漠然と妖精たちが風や雲が空を流れていくように世界を漂って巡っていると考えていたからだ。
「思って、ました…」
学院でも、教師たちがそのように環廻について説明しているのを聞いたことがある気がする。
なんの疑問も持たず、そういうものだと思っていた。
その認識が真実とは違うということだろうか。
複雑な表情のルシアンの眼前で、銀星公は指先にぽっと小さな炎を生み出して見せた。
「体の内外にある魔素を導き流すことで魔力を生み出すのが魔法使いだ。
それはわかるね?」
「はい」
「そしてそれ以外の唯人も、微量なら魔力をその身に流すことができる……今は。」
「今は?」
「竜王たちが来る前から、今よりももっと希少ではあったが魔法使いと呼ばれる者達はいたんだ。
けれど、この地に住まう唯人の多くはもともと、魔素そのものを全く受け付けない身体であった。」
「え……?」
ルシアンの手が当たった茶器がかしゃりと音を立てた。
「魔力が少ないとか、ではなく?」
「ちがうね。
微かな魔素にすら反応し、心身に異常をきたすほど耐性がなかったんだ」
「魔素そのものに耐えられない…?
それではまるで……」
「この世界の多くの命にとって、魔素は毒だったのだよ。
彼らは魔素を避け、魔力の澱みから逃れながら生きていた」
銀の睫毛で縁取られた瞳を伏せ、銀星公は生み出した炎を握り込んで消した。
遠くを見るように少しだけ上げたその視線の先で、妖精の森の階の枝が風に揺れた。
「原初の頃、この世界は未完成であまりにも不安定だった。
魔素が濃く澱んだ場所には魔力の嵐が吹き荒れ、また動物の中には魔素により狂暴化するもの、所謂魔獣に変化してしまったものもいた。
混沌としたその時代、この地に住む唯人のほとんどは、魔素をその身に取り込んだりはもちろん、濃い魔素には触れるのさえ耐えられなかった。
不完全だったこの世界の安定のためにも、魔素の流れを整え澱みを晴らすための軸となる存在が必要だった。
竜王達はこの世界に降り立ち、妖精に働きかけ、また妖精界の門を設けることで歪だった魔素の流れを正しく導いた。
だがそれでも、こちらに居る多くの命は魔素により危険にさらされたままだ。
だから世界の理に手を入れ、この世界を巡る命の流れの中に、妖精たちを加えた」
「命の流れ……?」
「生きとし生けるものすべては、巡る命の環の中にある。
そのように、この世の理は創られている。
人や動物がその命を全うしてのち消え去るように、妖精たちもある程度時間が経つとその存在は消滅する。
種を超えて命は巡り、転生を繰り返していく。
妖精たちもそこに加わり、人の中、あるいは植物や他の生き物の中を巡り、また妖精へと還る。
そうして緩やかに、異なる世界から来た存在であった妖精たちはこの世界に馴染んでいった。
魔法使いでない唯人の中にも魔力が潜み、混じるように。」
「すべての命は、巡る命の環の中に……」
「妖精も、ともにね」
「それが本当の”環廻”…?」
そうだよと言葉にする代わりに、銀星公は目元を緩めて頷いた。
「妖精たちの中には、それぞれの属性ごとに妖精長と呼ばれる強い力を持つものが居てね。
妖精長たちが環廻をする際には強い魔力を持った者として生まれることが多い。
稀に生まれる強い力を持った魔法使いは、環廻中の妖精長たちだったかもしれないね」
無意識に、ルシアンは自分の手を見遣る。
魔力量が多い者と言われれば、自分も含めたフェアノスティ王家の者たち、次いで王家に血が近い貴族が浮かぶ。
王家の血を引く者として、ルシアンも銀星公の足元には及ばずとも強い魔力を持っている。
魔法王国と他国から呼ばれるほど魔法に縁が深い土地柄で生きる、自国の民たちも。
童話や物語の中でしか妖精にふれることのない他国の民と違い、フェアノスティ王国民は妖精や竜が、また魔法使いが、この世に確かに存在していることを知っている。
そんな彼らでも、妖精たちは異界からきてこちらの世界をふわりと巡って還っていくだけで自分たちの世界にはそれほど深くかかわっているとは思っていない。
魔法について学んだルシアンですら、それに近い認識だったように。
だが、フェアノスティはもちろん他国でも、魔法が使えるほどではなくとも多くの民は魔力を持って生まれてくるのだ。
誰もが、妖精による力をその内に宿している。
「とても、不思議な感じです。」
「まあ、普段から魔法に深く触れているから一般の民とは感じ方や考え方が違うかもしれないね」
「そうかもしれません。
蔵書室にあった魔道具でも、大叔父上自ら妖精たちが巡ることで魔力が世界に充ちているのだとご説明されていましたね。
どうして、環廻についての知識を歪めて伝えるようなことを?」
「竜王たちが来たことで、この世界の理は変えられてしまった。
よく知らないものを人は畏れるからね。
妖精のことをよく知らない人々からすれば、異界の者がそこまでこの世界に深く関わっているのは恐ろしいかもしれないし、強い妖精の力が入り込んだ人間のことも恐ろしいと感じる場合もあるだろう。
君のように冷静にに受け止めてられる者もいれば、拒絶する者、もっと言えば妖精の存在そのものを忌避する者もいるだろう。
だからあえて真実を秘して、異界から来た彼らは世界を巡っている、ただそれだけ、というふうに御伽噺風にぼやかしたんだ。
子供に聞かせられるような内容にすれば、民の間にも語り伝えられてより広く伝わると思ったのさ」
「確かに一般の民にも伝わっているでしょうが。
どちらかというと妖精や魔法についてちゃんと学ぶ機会がある者達の方がより強く刷り込まれているかもしれません」
「そうだね……
ねえ、ルーくん。
内緒話の最後にもう一つ、質問をさせて?」
「なんでしょう?」
「今の話を聞いて……君は妖精や竜王たちが、恐ろしいと思ったかい?」
「え…?」
「竜王たちの来訪は、事実、この世界の理に変化を齎した。
創り替えられたと言ってもいい。
それは福音ではなく歪みだと、思うかい?」
妖精の森を渡ってきた風が、四阿の中をゆるやかに流れていく。
解れた幾筋かの銀の髪が銀星公の滑らかそうな頬を撫でて揺れた。
ルシアンの少しだけ伸びた金の髪も、同じように揺れ靡く。
それを見ながら、銀星公はただ静かに、微笑んでいた。
だがその笑みの中に、何故か畏れや不安のようなものが混じっているような気が、ルシアンには感じ取れた。
理由は全くもってわからないけれど、なんとなく、そう感じた。
今一度、自分の手のひらを見て考える。
「理が変わったとか、そもそもよくわかりません。
環廻についての真実が秘されていることについても、欺瞞と言えばそうでしょうが、結果として妖精や魔法に対しての負の印象はあまり生まれていないのも確かですし。
でも、妖精たちの環廻により世界は不安定な状態を脱し、人間たちも魔素の耐性を付けた人が増えてきて生きやすくなって。
今のように魔法使い以外の普通の人も微力ながら魔力を回せるようになったわけでしょう?
だったらやっぱり、竜王サマたちがこちらに来てくれたのは、いいことだったんじゃないかと思います」
よくわかりませんけど、と重ねて付け加えながら淡々と答えたルシアンに、銀星公は少しだけ目を見開いた後、嬉しそうに目を細めて「ありがとう」とふわりと笑った。
礼を言われた意味を解しかねるルシアンの前で、一瞬その姿が揺らいだように、見えた。
自分と同じ澄んだ蒼だったはずの瞳が金色に見えたような。
青み掛かった銀髪が、一層光を跳ね返して白く輝いたような。
「君は……イオと同じように言ってくれるのだね。
イズファリエンは、君のことをルーファウスによく似てると言ったけど、どちらかと言えばイオの方に似ている。
イオの血は、確かに受け継がれているんだね」
「イオ?」
「初めて、フェアノスティの名を与えた子さ。
イオニクス・ザクト」
「ザクト?…ですか?」
「ザクトは、魔素の嵐に晒される原初の世界において、魔獣と化した獣たちを狩る一族だった。
彼らは唯人の中にあっても特に魔素に対する耐性がある者達の集まりで、魔獣被害が出た土地を巡りながら魔素に苦しむ人々の居住区を護ってその対価を得ていた。
イオの姉、ダイアモンドは一族を纏める長の娘だった。
その身に持つ魔力は大きいのに、その力を扱うのは不得手だった。
けど、竜の力との親和性が高かったから”ナザレ”が気に入ってね、ダイアンは竜王ナザレの加護を得て最初の竜の守護者となった。
最初に”私”を見つけたのは弟のイオニクスだった。
世界の理の妖精たちを加えることについて話した時、イオに言われたんだ。
『不安定だろうが不完全だろうが、俺たちはこの世界で生まれ、これからもここで生きてく。
この先、ここで生きる俺たちが少しでも生きやすくする手段があるのなら講じるべきだ。』
それがこの世界を創った者の責任だと、諭されたよ。
だから、”私”は彼に加護を与え、妖精たちに彼らの土地を護らせ、まずそこから環廻を始めることにした。
一緒にこの世界に渡ってきたエルフの一人、イズファリエンの一族の娘リフィルエルがイオニクスと添い、最初のフェアノスティ―――妖精の国の守護者となった。
ルーファウスやアーネストが生まれるよりもずっと前、世界の形ができるよりももっと、昔の話だよ」
ザクトは、ルシアンの姉が嫁いだ南方辺境伯家の家名だ。
王家と並ぶ、王国内でも最も古い一族のうちの一つ。
古い家同士、当代に限らず血縁を結んだことはあっただろう。
だが、フェアノスティ王家の始祖がザクト家の出身だというのは、ルシアン自身は初めて知った。
なにがどうなって、分かれた側のフェアノスティが王家で、本家のザクトが臣下という今の形に至ったのだろう。
目の前の人物が、銀星公が生まれた千年前よりもずっと古い時代のことをまるでそこに居たかのように語ったことも、より一層ルシアンを混乱させた。
それに確かに彼は言ったのだ。
―――世界を創った者
「……あなたは、一体………」
誰ですか、と尋ねようとしたルシアンの身体が、ぐらりと傾いだ。
あれ、と思う間に、強い酩酊感に襲われて、世界が歪む。
力が入らずに倒れ込みそうになったルシアンの身体を、銀星公だと名乗ったはずの人物が柔らかく受け止めた。
突然動きの鈍った身体が重く、体中の血液が尋常でない速さで巡るような感覚がして不快極まりない。
目だけを何とか動かして、自分を支えてくれる腕のその先を見上げようとするも、視界まで霞んできてしまった。
「気をつけてはいたんだけれど……少し影響が出てしまったみたいだ」
何を謝られているのかも、わからない。
額に、背中に、嫌な汗が伝う。
ぼやける思考の中で、自分の身に起きている現象が、所謂”魔力酔い”というものだと思い至った。
ゆっくりと、四阿の長椅子の上に横たえられる。
冷たい指先がルシアンの額に触れ、そのまま目元を覆うように翳された。
抗うことなく目を閉じると、不快感が薄らぐとともにすうっと体中の力が抜けていくのを感じた。
「イオやダイアンも、出会ってすぐの頃は君と同じように倒れては文句を言ってきたものだ。
か弱い存在の自分たち相手にはもっと慎重になれと、怒られたな。
ごめんね……それでもどうしても、直接会って話をしてみたかったんだ。
いずれ私が巡り生きる世代を担う者達が、私をこの世に生み出す者が、どんなヒトなのだろうかと」
目元に添えられていた手が離れていく。
閉じた目を開けようにも、眩しさに目を焼かれるようだった。
意識を失う直前、狭まっていく白い視界の中で必死で霞む目を凝らしてルシアンが見たのは―――
白絹の髪に金の瞳の、この世の者とは思えぬほど美しい人の姿だった。
「………
…まったく、貴方の我儘にも困ったものだ」
(誰かが話す、声が聞こえる―――)
「抑えてはいたんだよ?」
「だが結果としてこれだ。
このような幼子に無理を強いるとは」
(さすがに…幼子、と言われるような齢ではないですよ……)
覚醒しきっていない意識の向こう側から聞こえてきた会話に、頭の中でゆるりと反論する。
「それで?心ゆくまで話はできたのですか?」
「うん。
やはりこの場を借りて良かった。
こうして直接会って話ができたからね。
たぶん、彼らで間違いないと思う」
「本当に、この世界の理の中に御身を置かれるおつもりか」
「時が来れば、ね」
「……だが、まだそうなると決まったわけではない」
「そうだね。
それでもいつか、無事私が環に加わったときには――――――」
会話がすぅっと遠くなり意識が再び沈んでいくのがわかった。
どれくらい時間が過ぎたのか、やがて耳がまた音を拾い始めた。
風に揺れる梢、そこで安らぐ鳥たちの囀り。
(僕は、何をして……
あぁそうだ…離宮にとばされて、それで―――)
まだ眩さに目がくらむ中、なんとか瞼を押し上げて視線を巡らすと、自分を覗き込む眉目秀麗な顔があった。
倒れる直前まで話をしていた、肖像画そのままの銀髪蒼眼の貴公子。
ただ、美しい顔からは柔らかな微笑は消え、というかむしろどんな感情も読み取れないほどの全くの無表情で。
そのくせ不思議なことに、意識を失う前に言葉を交わしていた時よりもずっと人間らしく見えた。
そして、さきほどまでここに居て彼と話していたであろうはずのもう一人の誰かの姿は、消えていた。
「大叔父…上…?
あの、本物の…?」
「ああ。」
脱力感が残る身体を何とか起こそうとするのを、手で制された。
「もう少し、横になっていた方がいい。
魔力の取り込みと排出のバランスが崩れて体調に異常が生じたのだ。
取り込む以上に魔力を放出してしまうと身体の基本的生命維持にまで深刻な影響が出て、悪くすると死に至る。
逆に、此度のように排出するよりも過剰に魔素や魔力を浴びると起きるのが魔力酔いだ。
この場合、すぐに昏倒するだけでなく、暴走した魔力で身体が内側から徐々にボロボロになる。」
「いま、ものすごく怖い話してますよね?」
「単に事実を言っているだけだ」
淡々と告げる口調は魔道具に収められていた声音と同じだった。
あぁ確かにこっちが本物だとルシアンはひとり納得した。
「あの方の力に当てられたのだろう。
過剰摂取した魔力は既に体内から吸い出したから案ずるでない。
其方にどうしても会ってみたいと言われたので私の姿とこの茶会の場をお貸ししたのだが、まさか倒れさせるとは。
だいぶ無理をさせてしまったようだ、すまなかったな」
「いえ……大丈夫です。
それで、あの方、は…?」
「お帰りになった」
「……そう、ですか」
そう聞いて、安堵したような、でも少し寂しいような、不思議な気持ちになった。
内緒話をしてくれた、銀星公の姿をした彼の人の柔和な笑顔を思い出す。
「あの方は、リズが言う”王様”で合っていますか?」
「合っている。
本当は、もっと端的に表す呼称があるのだが、今は言うまい」
「…………なぜ、僕に会いに来られたのでしょう?」
「さてな。
またいつか、其方とリズに会えるの日を楽しみにしている、との伝言だ」
「僕とリズに?また…?
次があるのでしょうか?」
「また会うと言われるのだから、あるんだろう。
すぐではなかろうが、心しておくがよい」
「……はい」
次があるのかとちょっぴり暗澹とした気持ちになる。
それに、魔力酔いに飲まれて意識を失う瞬間にも、夢うつつで聞いた会話でも、何か言われたような。
ぼやける記憶を辿ろうと無駄な努力をするルシアンの耳に、軽い足音が届いた。
「ルー!?
どうしたの?具合悪いの!??」
散策帰りのリズが横たわるルシアンを見つけて四阿に駆け込んできたのだ。
銀星公にはしたないぞと窘められるのも気にせず、横たわっているルシアンの額に小さな掌で触れてきた。
柔らかく、それでいてどこかひやりとした感触に、また少し眩暈が収まっていくように感じた。
彼女の存在が近くにある、それだけで不思議と満たされた気持ちになってしまう。
「大叔父上に、魔法の手解きを受けていたら、ちょっとね……。
もう、だいぶ良くなったし、大丈夫だよ」
「本当?」
「うん。」
まだ身体を起こせないまま薄桃色の少女を見上げた。
眉根を寄せ覗き込むようにしてくる彼女の耳元で翡翠が揺れる。
安心させたいのに心配してくれるのは嬉しいのだから困ったものだと苦笑するしかない。
後から戻ってきた三人に銀星公がさっきルシアンがリズに言ったのと同様の説明をしてくれた。
それを聞いたグレンは残念そうに文句を言う。
「手合わせをするなら呼んでくれればよいものを」
「魔法の手合わせだ。
グレは魔法は使えまい」
「そうですけど。
あなたは剣も使えますよね?
今から相手をしてください。
淑女の誘いを断られるような真似はなさいませんでしょう?」
「そもそも淑女は茶会で手合わせを申し込んだりはせぬ。」
「手合わせするの?」
「レイ、見たいなら少し離れておくのだよ?」
「私が結界を張って手をつないでおくよ」
「頼むよ、イズファ。
では参りましょうか、大魔法使い殿」
「はぁ……リズ、しばしの間、この者を見ていてやってくれぬか」
「いや、別にもう大丈夫で……」
「まかせて!」
「………」
愉し気に言葉の応酬をしながら、銀星公とグレンはどこからか引っ張り出した模擬剣を手に四阿を出て行く。
レイもイズファに手を引かれながら目を輝かせて手合いの様子を眺めに行った。
未だ起き上がれないままのルシアンと、彼が横たわっている長椅子のそばに佇むリズだけが、四阿に残された。
さすがにこの体勢のまま居るのは無作法が過ぎる。
なんとかルシアンが身体を起こすと、その背後でさきほどまで彼が背を預けて横になっていた場所にリズがそっと腰掛ける気配がした。
ルシアンは居住まいを正しながらそっと隣を見る。
黙り込んだままのリズの頬が、少し赤い。
天気が良い中を散策してきたのだし、暑いのかもしれない。
先ほど彼の方が入れてくれた茶はまだあるが、たぶんすっかり冷めて香りも飛んでしまっているだろう。
せめて冷たい水をと、ルシアンは手を翳して温くなった玻璃の水差しに魔法で冷気を流し込む。
「ねえ、ルー」
「うん?」
話しかけられて横目で見てみれば、さきほどよりリズの頬が赤い気がする。
ようやく冷えてきた水差しを手に取ろうとしたとき。
「……を、貰ってくれない?」
「ん?」
「貰って、くれないかな」
「何を?」
「……私を」
「っっ!」
滅多に動じないルシアンが、思わず手を滑らせて水差しを取り落としそうになった。
”星影宮所蔵遺物損壊”という文字が一瞬脳裏を過ったのを慌てて振り払い、水差しを両手でそぉっと卓上に戻した。
「えっと、今の、聞き間違いかな?
リズを…?」
「私を、貰ってほしいの」
「うん、聞き間違いじゃなかったね」
自身を貰ってほしいということは、つまり、そういうことなんだろう。
正直、ルシアンにとっては願ってもない申し出だ。
だが、頬を赤らめ真摯な視線を向けてくる幼い彼女が今日会ったばかりのルシアンにそれを言う理由が気にかかる。
「説明、してくれるよね?」
ぎこちない笑顔を作りながら何とか質問を絞り出したルシアンに、リズは膝の上で重ねた手をぎゅっと握り合わせ、心を決めたように話し始める。
「姉さまは長子として家を継ぐための学びを、ずっと続けていらっしゃるわ。
妹は、あんなにまだ小さいのに、あの子にしかできない大事な役目を負っているの。
私は、普通の娘なの」
「普通?」
「そう、飛びぬけて何かが秀でているわけではない、普通の娘。
だから、せめて大きな国との、フェアノスティとの縁を繋ぐ役目を担いたいと、そう思って」
「……だから、政略を申し込むと?」
「ルーは、フェアノスティの魔法使いなのでしょう?
秘密の宮殿の管理を任されるくらい、高位のお家の。
だから………」
「リズ」
「わ、私の家は、ソラン海にある国で、たくさん船を持っているの!
海運事業も手掛けているし、それに港の使用権だって…」
「リズ」
言い募る少女の言葉を遮るように、ルシアンは繰り返し名を呼んだ。
自身でも驚くほどに冷たい声になってしまったと思いながら。
言葉面の意味だけなら政略的な縁組の申し入れにしか聞こえない。
王族や貴族なら、幼いうちから政略的な婚約者を定めることもある。
やっと出会えたと感じていた相手だ。
政略でもなんでも結んでしまって、それから仲を深めていけばいい。
わかってはいても、ルシアンの中の何かがそれでは嫌だと駄々をこねていた。
長椅子から静かに立ち上がると隣に座る愛らしい存在の前に跪くと、少しだけ見上げるようにして視線を合わせた。
「家のためだけ?」
「っ……」
「それ以外に、理由はないの?」
「……」
「出会ったばかりではあるけれど、それでも少しは親しくなれたと思っていた。
けど、そういう気持ちはリズにはなくて、単に僕がフェアノスティの魔法使いだから、政略を申し込むと?」
「ルー……っ」
「答えて。
本当に、政略のためだけ?」
翡翠の瞳に涙の幕が張っていくのを見ながら、ちょっと圧をかけすぎかとも思った。
けれど、頬を染めちょっと涙目になりながらも一生懸命な彼女の様子から、政略的な理由だけではないと感じるのは自惚れではないと思いたくて。
だからルシアンは聞きたかったのだ。
彼女の本当の気持ちを、彼女の言葉で、今。
「だって……」
「だって?」
「ルーはすごくカッコ良くて、王子様みたいなんだもの。
そんなの、好きになっちゃうじゃない!
けど、四つも年下の私なんて、ルーから見たらまだまだコドモでしょう?
家のためになるからって理由でならまだしも、好きです結婚してくださいなんて、そんなの……本気にはしてもらえないでしょ?」
「!!」
ルシアンは思わず両手で顔を覆って俯いてしまった。
そのまま何も返事をしなくなったルシアンに不安になったのだろう、リズがおずおずと話しかけた。
「あの、ルー…?」
「……ちょっと今、見ないで」
「え…?」
「ごめん、ちょっとだけ待って。
顔、作り直すから」
「作り直す?顔を!?」
ちょっと待ってとは言ったものの、ちょっとやそっとで取り繕えそうになかった。
リズから出てきたのが想像以上に直截的な言葉で、嬉しさのあまり、王子教育で刷り込まれたはずの鉄壁の微笑は完全に剥がれ落ちてしまった。
耳まで、というか首から上が全部真っ赤になっている自覚がある。
出会えばわかると、父は言った。
これがそうだという予感はあったけど、まだ信じ切れてはいなかった。
けど。
(うん、参った)
「ルー?」
「破壊力ありすぎて驚いた。
あと…………嬉しくて」
「……え?」
「嬉しかった。すごく。
政略以外の意味なんてないって言われたら、どうしようかと思ってたから。」
顔全体を覆い隠していた両手を少し下げ、でもにやけて緩んでしまっている口許は見られたくなくて、目線だけをリズに向けた。
全く冷めきってない真っ赤な顔と、嬉しさを隠そうともしない目元から気持ちが伝わったのか、リズの方も先ほどにも増してじわじわと赤くなっていった。
「……本当に?」
「うん。
むしろ、出会ったばかりで四つも年下の君に、政略以外の気持ちがあるって言ったら……気持ち悪いとか、思ったりしない??」
「何言ってるの!
思わないわ、そんなこと!」
「そっか……うん、ありがとう」
隠しとく意味がないねと、ルシアンは口元を覆っていた手も外した。
頬を染めて跪いたまま満面の笑みで見つめてくる彼に、リズも照れながらぎこちない笑みを返す。
「四つくらいなんて、今でこそ大きく見えるけど大人になったらありふれた年の差だと思う」
「そう、かしら」
「そうだよ。
……ねぇリズ、”フェアノスティの男”の噂、知ってる?」
「運命の相手を見つけて、っていう?」
「そう。
でも実際のところはね、いたって普通だよ。
運命的な出会いをする人ばっかりじゃないし、フェアノスティの男性は全て運命を求め続けてるなんてことはない。
フェアノスティにだって政略結婚はあるし、離婚する者も少なからず居る。
うちの両親も出逢いに関しては政略的な理由だった」
「そうなの??」
「物語とか噂なんて、それこそ劇的な方がウケがいいから、広まっちゃったんだろうね。
ただ…愛した相手をすごくすごく大切にする傾向は、確かにあると思う。
うちの両親、特に父の方だけど……見てるこっちが恥ずかしいくらいだ。
たぶん、フェアノスティの男は他よりちょっとばかり愛が重いんだよね、うん」
「え、重………?」
「うん。
僕の家の男性は所謂”フェアノスティの男”の傾向がすごく強いんだ。
あと、認めたくはなかったけれど……たぶん僕も」
「愛が、重い……」
不穏な会話にちょっとだけリズの表情が歪んだ気がしたが、ルシアンはそれを綺麗に見なかったことにしてにこっと微笑んだ。
「それを踏まえて……リズ」
「……はい」
「告白は君に先を越されちゃったけど……
それでも君が僕との縁を望んでくれるなら、あらためて、僕の方からお願いしたいんだ。
リズが言った通り、僕は”フェアノスティの魔法使い”で、王国内でも低くない家の出だけど、三男だからおそらく家を継ぐことはない。
いずれ、両親が持っている小さな領地をもらってそこを治めることになるだろう。
もしかしたら、君の家に婿入りするなんて未来も無くはない。」
跪く体勢はそのままに、一つ深呼吸して。
ルシアンがリズに向かって片手を差し出した。
「それでも、僕はリズにこの手を取ってほしい。
君一人を誰より愛し、大切に守ると誓うよ。
だからどうか、貴女と一緒に生きていく権利を、僕に下さいませんか?」
片膝を落として手を差し出して、まさに絵に描いたような”王子様の求婚”だ。
驚きに言葉を失くし、でも視線をそらそうとはしない翡翠の瞳を、ルシアンは真っすぐ見つめ続けていた。
”愛が重い”だなんて言ったところでまだ幼い彼女に伝わったかどうか。
ルシアン自身も初めての感情に戸惑っている最中だというのに。
それでも、決して逃してはならないと、心が告げていた。
その瞳を逸らさないでと、ルシアンは必死に願う。
やがて桜色に染まる細い指先が、そっとルシアンの震える手に触れた。
「………はい…」
「!……ありがとう」
繋いだ指先はいつの間にか震えが止まっていた。
嬉しさと気恥しさで一杯いっぱいになりながらも二人で笑い合った。
「………何とかまとまったみたいかな?」
「!!!!?????」
突然の声に振り返れば、四阿の外から覗き込む銀星公たちの生暖かい視線があって。
互いに必死だった少年少女は、この場に二人きりではなかったということにようやく思い至ったのだった。
その後は、たくさん揶揄われもしたけれど和やかにお茶会の時間は過ぎていった。
「そろそろお暇しなくちゃいけないね」とグレンが声を掛けると、リズとレイは名残惜しそうに席を立った。
「”妖精の道”を開く。
待っていなさい。」
銀星公がいずこからか現われた妖精たちと共に魔法の術式を組み上げていく。
”妖精の道”というのは妖精たちの創り出す魔法による転移門で、ルシアンが通ってきた”扉”もそれだったそうだ。
離宮にきてどのくらいの時間経ったのか気になって尋ねたら、茶会をしていた一帯は銀星公の魔法により時間の進みが違うらしく、転移門で帰ればこちらに来た時間とそうずれずに戻れるとのこと。
たしかに、数刻にわたって姫が三人揃って所在不明になっては、彼の国の王宮は大騒ぎになってしまうだろう。
もちろん、ルシアン不在の王城もだが。
(時間さえ操ってしまうとは、つくづく大魔法使いというのは)
振り向くと、三姉妹がルシアンを見つめていた。
まず進み出たのは長女…のはずのグレン。
「また近いうちに会うことになりそうだな」
「そうだね…あまり待たせないよう、全力で根回しを頑張るよ」
「はは。
ミリアリア様によろしくお伝え願いたい」
「……え?母上に??」
「文通友達なのだよ、僭越ながら」
「は!?え?」
「次こそは、手合わせをしよう」
どこまでも王子然として爽やかに笑うグレンと握手した後、続いて小さなレイが進み出て美しい淑女の礼をする。
「ルーさまは、私の新しいお兄様になるの?」
「正式に縁がまとまったときは、そう呼んでくれたら嬉しいよ」
「リズ姉さまを婚約ハキしたりダンザイ?したり、しないでね」
「………どこで覚えたの?そんな単語」
「リズ姉さまのお気に入りの本」
「…………グレン。」
「心得た。帰ったらリズの部屋の本棚を検めよう。
レイも、姉さま達の本を勝手に読んではだめだよ?」
「はぁい」
笑って目礼した姉妹が銀星公たちの方へと歩いて行くと。その場にはリズとルシアンの二人が残された。
離れがたいが、ここに留まることはもちろん、互いの場所へと連れ去ってしまうわけにもいかない。
「リズ、家の方に話をつけたらすぐにでも、正式に使者を立てる。
それまで、これを持っていてほしい」
言いながら、ルシアンは首元から鎖に通した何かを取り出した。
拡げさせたリズの手のひらの上に、それを鎖ごと乗せた。
淡い金の環と台座に、薄蒼に色づいたダイアモンドが輝く指輪だった。
「……綺麗。ルーの髪と、瞳の色だわ」
「本当は、さっき求婚した流れで渡すはずだったんだけど。
年上の甥が居ると言ったでしょう?
彼の家は代々、瞳や髪の色味から連想する鉱物の名前を付けていて、名に由来する鉱物を使って自らの魔力で装飾品を作り上げて伴侶となる者に渡すしきたりがあるんだ。
聞いたときとても素敵なしきたりだと思ってね、自分もやりたいと用意していたんだ。
まぁ、僕の魔力は大地の魔法には向かなくて、自力で作るのは無理だったから、甥に頼んだんだ」
「とても、素敵。
大切にするね、ルー」
嬉しそうに指輪を握りしめるリズの手を包み込むように、ルシアンはそっと握った。
そして、徐に名を呼ぶ。
「――――――アリスティア」
「っ!?
どうして……愛称しか名乗っていなかったのに……」
「友好国の王族の情報を覚えるのは大切なことだろう?
それと……僕の名前は、ルシアンだよ」
「え……」
「フェアノスティの、ルシアン」
フェアノスティ王国の魔法使い
王国の名家の三男坊
ルシアンという名
そこから導き出された答えは―――――
「ルシアン・アディル・フェアノスティ……第三王子…殿下??」
返事の代わりにニコリと笑めば、事実がようやく飲み込めたリズの身体が強張った。
驚きのあまり無意識にひっこめようとした彼女の手を笑顔のままでぎゅうっと握りしめて、ルシアンはやんわりと窘める。
「だめだよ?リズ。
指輪も僕も、返品不可だからね?」
「そんな大事な情報、後出しなんてずるいです!」
「フェアノスティの高位の家出身ってことまでは読んでたんでしょ?」
「貴族と王族じゃ、話が全っ然違いますわ!」
「君だってカロッサの王女じゃない」
「そっ、そうですけどっ」
「酷いなリズ。
貴族で、”フェアノスティの男”はいいのに、王族だと駄目なの?」
「~~~~~~~っ!
駄目じゃないわよ!
それでもルーがいいんだものっ……だから困ってるんじゃない!」
「ありがとう(笑)」
「その微笑みは反則ですっ!」
ちょっとだけ涙目のリズが睨むものの、ルシアンは嬉しそうに笑うばかりだ。
準備ができたと呼びかける銀星公に「今行きます」と返事をすると、リズは指輪を持っていない方の手で自らの翡翠の耳飾りを片方だけ外してルシアンの手に握らせた。
「じゃあ、これはルーが持っていて。
……また、会えるまで」
「君の瞳の石だね……
待っていて、アリスティア。
必ず、会いに行く」
「白馬に乗って?」
「君が望むなら………あ、駄目だ、無理だ」
「なぜ?」
「馬じゃ、君の国に辿り着けないでしょう。
船じゃないと」
「あ、そういえば……じゃあ、白い船?」
とりとめのない話をしながら、くすくすと笑い合う。
指輪と耳飾りの片割れをそれぞれ握りしめ、空いている方の手を繋いだ。
「「またね」」
重なった声に微笑んで、繋いだ指先を名残惜しそうに離した。
姉と妹と一緒に妖精の道に入っていく小さな後姿を、ルシアンは見送った。
今は一度別れ別れになるしかないと分かってはいても、やっと見つけた大事な存在と引き離された痛みはある。
「そう悲嘆せずともよい。
また会えると、あの方にも言われたであろう?」
いつの間にか横に並んでいた銀星公にやんわりと諭された。
思いの外、優しい声だった。
無表情には違いないが、心なしか、口角が上がって微笑んでいるようにも見える。
「やっぱり僕たちを引き合わせるために茶会に呼んだんです?」
「くく……どうだかな。
其方を呼んだのはあの方だ。
世界の理を創ったり創り変えたりするような御仁のお考えなど、推し量ろうとするだけ無駄であろ」
「大叔父上にも解らないことがおありなので?」
「当たり前だ。
ルー坊よりは千年ばかり長く生きとるジジィだが、まだまだ知らないことは山ほどある。
だから飽きずにエルフの里に籠って研究を続けているのだからな」
「ジジィだなんて、そんな風にはとても見えません。
あと、坊はやめてください……」
王国史上から姿を消した銀星公の行方については数々の説があった。
海を渡った先で天変地異から救った民を纏めて別の王国を建てたとか、妖精王について別の世界に行ったのだとか。
エルフの隠れ里にいて魔法研究を続けているという説もあったが、どうもそれが正解に一番近かったようだ。
エルフの里は妖精たちの住処にも近いから時の流れが違うともいうし、そもそも保有魔力が多い魔法使いは長命だ。
千歳を優に超えているはずの銀星公が、まだまだ青年の域を脱していないように見えるのも彼の持つ膨大な魔力故というなら納得だろう。
「それはそうと、なかなか気に入ったぞ」
「はい?」
「その呼び名だ。
よし、決めた。
これから先、何か困ったことや私に尋ねたいことがあったりしたら、会いに来ることを許そうぞ。
その際には、『助けてください、大叔父上』と言うがよい。」
「………は?」
「禁書庫の扉の前だろうが、自室だろうが、場所は問わぬ。
エリシオン内のどこかでそういえば、妖精の道が繋がるようにしてやろう。」
「……」
どうやら、『大叔父上』という呼び名が、いたくお気に召したらしい。
場所は問わぬと仰るけれど、禁書庫の扉の前だろうが自室だろうが、王子というのは常に侍従や護衛が一緒いて一人になる瞬間など皆無なのである。
その者達の前で『助けてください、大叔父上』などと宣おうものなら、すぐさま王宮侍医が呼ばれる事態になるだろう。
呼ぶことは無いなと思うルシアンだったが、なぜか上機嫌な様子の銀星公に言うことは出来ず。
「アリガトウゴザイマス」と素直に礼を言ったのだった。
銀星公によって繋げられた妖精の道を通り、ルシアンは王城エリシオンへと戻った。
戻り先は、本がぎっしり詰まった書架の間。
見覚えのある、王宮禁書庫内だった。
窓の外ではまだ強い雨が降り続いている。
悪戯で飛ばされた時間からそう刻は経っていないようだった。
「殿下、失礼いたします。
侍従長が陛下からの言伝を持って罷り越しておりますが、いかがいたしましょう」
扉の外から護衛が声をかけたのに、わかったと返事をした。
扉に向かおうとして、ふと、思い出した。
上着の内側に施された小さな空間魔法庫に、あの時見つけた魔道具をしまったまま持ってきてしまったことを。
途端にルシアンの脳裏に『助けてください、大叔父上』という言葉が過ったが、ふるふると頭を振ってその考えは追い出した。
(たぶん、また会うことになる気がする)
銀星公にも、銀星公の姿を借りて会いに来てくれたというあの方にも。
それまで預からせていただこうと思いながら上着の上から空間庫をぽんぽんと叩くと、禁書庫から出るため魔法錠へと手を伸ばした。
その後―――いろいろ大変なことがあって。
第三王子だったルシアンは王太子となり、茶会から数年後にようやく、カロッサ王国第二王女に直接求婚するため自ら白い船団を率いてソラン海を渡った。
そこに至るまでの過程で、ルシアンは例の言葉を言うことになったのだが、それはまた別のお話。