茉麻の暴走
「うあっ、あ、うぅうあっ」
「茉麻ちゃん! 茉麻ちゃんしっかりして!」
夜闇の中、女二人の叫び声が響き渡る。
片方はあたし。そしてもう片方は苦しみ悶える茉麻だった。
やはり無理だった。考えが甘すぎた。
今日の野宿場所であるボロ家の中で寝ていたあたしたち。しかし突然、茉麻が飛び起きて暴れ出したのだ。
「淳っ! 淳!」
外で見張りをしているはずの淳に呼びかける。
その間にも茉麻があたしへ縋り付いてくる。
「お姉さん……っ、私!」
腕を引っ掻かれる。ほんの少し血が滲んだ。
あたしはこれが一体何を意味しているか知っている。
人間が食人鬼になる瞬間――まさにそれだった。
あたしが初めてそれを見たのは、母親の時だ。
あたしの母は外で噛まれ、帰って来てから暴れ出した。最初はなんとか自制していたものの、発作のように訪れる猛烈な衝動を抑え切れず、やがて理性を失って父に襲いかかっていった。
その様子が脳裏に蘇り、あたしは身を震わす。
ダメだ。このままでは彼女が化け物になってしまう。
そうなるのはわかっていた。あたしは彼女の首に手をかける。
このまま殺せば、茉麻は人間のままで死ぬことができる。でも、でも……。
「ぐあっ。あぁっ!」
苦しそうな声を漏らす少女を見て、どうしようもなく泣き出したくなった。
なぜ、この世界はこんなに理不尽なのか。この子が、母が、人々が何をしたというのだろう。
と、その時、声がした。「大丈夫か!」
ボロ家に飛び込んで来たのはもちろんのこと淳だった。
「――っ。とうとう来たか」
「淳、茉麻ちゃんが! なんとかして」
昼間はあたし自身が責任を持って殺すと誓ったが、あんなの嘘だ。
無理だ。手が震える。少女の細い首を掴んだまま動けなかった。その間にも茉麻がまた腕を引っ掻いてくる。
「クソ。よし、ちょっと待ってろ。あんたはその子を気絶させといてくれ」
「えっ? ちょ、ちょっと待って――」
あたしの呼び止める声も聞かずに淳はすぐに飛び出して行ってしまった。
残されたあたしは、茉麻の顔を見る。唇を噛み締めすぎて血を流した彼女は、たった今、自我と食欲の激闘を繰り広げている最中なのだろう。放っておけば食人鬼になるはずの茉麻。今、その暴走を止めるためにあたしができることは一つしかない。
「ごめん……ねっ!」
彼女の頭を殴り、静かにさせることだけだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「これを食わせろ」
戻って来た淳があたしに手渡したのは、人間の腕だった。
肩から先しかないそれは、すっかり冷たくなってしまっている。つまり当然ながら死体だ」
「これって」
「外の死体からもぎ取って来た。いいから食わせるんだ」
眠る茉麻は苦しそうに唸っているが、まだ起きない。
その顔はとても穏やかとは言えず、それこそ鬼のようだった。どんな悪夢を見ているんだろう。あたしは恐る恐る彼女の頭を撫でた。
「――茉麻ちゃん、起きて」
この子を助けたい。
そんな願いが虚しいことであるのはあたしも知っている。でも、もう悲しい思いはしたくないのだ。
母を失って、父を失って。もうこれ以上は嫌だ。
例え、今日出会ったばかりの、元の平和な世界であれば見向きもしなかっただろう相手でも。
「きゃあっ」何かに襲われた時のような悲鳴を上げ、茉麻が飛び起きた。「嫌! 嫌ぁ! 助けて、誰か!」
かなり錯乱している様子である。でも考えてみれば当然のことなのだ。
もしもあたしが食人鬼に噛まれてしまったら。意志に反して人に危害を加えてしまいたくなったら。
考えるだけで恐ろしい。それがたった十歳の女の子に耐えられるとは思えなかった。
「茉麻ちゃん、これ」
「嫌、嫌ぁ!」
「食べるの!」
赤子のように暴れる茉麻を必死で押さえつけ、腕を口に押し込む。
淳もあたしを手伝って茉麻の手足を掴んでいた。
「食べろ。食べたら飲み込むんだ」
「嫌ぁ……!」
「とにかく食べろ! 食べなきゃ殺すしかなくなるぞ」
「……う、うぅっ。うぁああああ」
泣き叫びながら、茉麻は腕にかじりついた。
蝿がたかっているような、決して綺麗ではない肉だ。それでも彼女はなんとか口に入れて、何度も吐きそうになりながら胃に押し込んだのだ。
あたしはそれをまっすぐ見ていることができずに目を背けてしまった。
「あはぁ、あはぁ……」
「食べろ。もっとだ。骨だけ残して全部」
「嫌、です。死にたくない……っ!」
「だったらもっと食べるんだよ」
イライラしたような淳の声と、震える茉麻。
彼らはなんと強いのだろうか。
じっと目を瞑っているあたしが一番弱虫だ。本当は現実を見つめなくてはいけないのに、怖がっているのだから。
それから後は人肉をしゃぶる音と、涙声だけが聞こえた。
そしていつしかあたりに静寂が落ち、静かな寝息が響いていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「もう、大丈夫だ」
淳の声でそっと目を開ける。
するとそこには、口の周りを血で汚した少女と、それを見下ろす少年の姿。
どうやらあたしたちは、ひとまず助かったらしい。
それだけがわかって、彼女を殺さなくて済んだことに心から安堵した。
「……良かった」
あたしは堪えられず、大泣きしてしまったのだった。




