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恐怖の悪夢

 血溜まりの中、女が男に食われていた。


 性的な意味ではない。事実、歯を立てられ、その肉をえぐられている。

 あたしは数秒その様子を見つめ――そして状況を理解した。


 男が誰だかはわからない。しかし女の方は、確かに見覚えがある。いや、仲間として何日も行動していたのだから当然だった。

 ――桜田が食われている。


「ひっ」


 ここは大学の研究室。

 きっと先に行った桜田と茉麻が待っているに違いないと思い、ドアを開けた直後に目に飛び込んで来たのがその様子だ。必死に抵抗し、呻き声を上げている桜田。その尻に齧り付く男。


 思わず吐き気が込み上げて来た。


「……っ! おい何してんだ!」


 淳が叫び、中へ飛び込んで行く。

 どうしてこんなことになっているのか、あたしには理解不能すぎた。桜田が食われている。この男は誰? 桜田と一緒にいたはずの茉麻はどこ?


 その間にも状況が変わる。

 淳が男に掴みかかり、揉み合いに。血溜まりを転げ回り、桜田が呻きながら這い出ようとする。

 助けなくちゃ、そう思うのに恐怖で体が動かなかった。淳が男の首を絞めている。男はしばらく暴れ続けていたが、軈てぐったりとした。


 遠くで悲鳴がする。あれは何だろう。あまりにもたくさんのことが同時に起こりすぎて頭が動かない。

 意識が遠のきそうになり、しかし唇を噛み締める。ここで倒れている場合じゃない。


 勇気を振り絞り、あたしは赤く染まる研究室へ入った。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 状況を推測して整理すると、こうだ。


 まず、ここまで辿り着いた桜田と茉麻がドアを開けて中へ足を踏み入れた。

 そこで中で待っていた男――おそらく元々は研究者だった彼に襲われる。なぜかは知らないがとにかく男は食人鬼で間違いない。

 そして戦いになるが、銃の弾切れで相手を制圧できなくなり、桜田が囮になって茉莉を逃がした。


 研究室の窓からはカーテンが垂れていた。即興でロープ代わりにしたのかも知れない。おそらく茉麻は下に逃げ、今も逃げ惑っているに違いない。

 状況は想像以上に最悪だった。


「まさかこんなことになるなんてっ。先生と茉麻ちゃんだけで行かせるってあたしが決めたから……!」


「あんたは悪くない。それより、俺は真麻を助けてくる。あんたは先生を何とかしろ」


「…………」


 淳が窓のカーテン伝いに下へ降りていった。


 そうして研究室に残されたあたしは、桜田を託されてしまった。

 全身食人鬼の噛み跡だらけで、到底助かるはずのない彼女を。


「血が……血がっ」


 大量に、あまりにもたくさん出過ぎている。

 桜田の細身の体は痙攣していた。腕に抱く。その温もりがどんどん薄れていくような気がして、あたしは恐ろしかった。


「ねえ先生、起きて……。起きてよ」


 あたしがあの時、淳とあの場に残ることを選択しなければ。

 四人で一緒にこの研究室に入っていれば――どうにかなったのだろうか。


 あたしのせいだ。

 だって銃の弾の替えはあたしが持っていた。それを渡し忘れてしまったから。

 湧き上がる後悔は留まるところを知らなかった。


 このままでは、桜田が死んでしまう。

 色々あったけれど頼れる人だった。なのに……。


 神なんて信じていないけれど。

 『もしもどこかにいるのだとしたら、助けてください』、あたしはそう願った。

 母も父も死んで、こんな絶望の中で見出した光を失いたくないから。


 そしてその願いは、天に届いた。



 祈りを捧げた瞬間、桜田が勢いよく目を開けたのだ。

 思わず「先生!」と叫ぶあたし。あたしは続きの言葉を口にしようとして――。


「ガァッ。ガァアアアアア――!」


 神などいないのだと知った。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 目を血走らせた桜田がもはや人間ではないことは、きっと誰が見てもわかったことだろう。彼女は今までにない異例の速さで、食人鬼になってしまったのだった。

 腕に噛みつかれそうになり、必死に身を捩る。しかし彼女は必死にあたしに縋り付いて来て、離れてくれない。


 今まで何度窮地に陥り、この世を恨んだかわからない。

 しかしあんなのは全て甘いものだった。これこそ悪夢と言わずして何であろうか。


 怖かった。手が震える。喉からはデタラメな悲鳴が漏れて、恐怖で死んでしまいそうになる。

 早く覚めてくれ、そう何度も心で叫んだがそれは無駄で、若い女の食人鬼は躊躇なくこちらへ飛びかかってくる。


 ――限界だった。


 ぎゅっと目を瞑り、あたしは桜田の足にナイフを突き立てた。

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