交渉
次に目覚めた時、あたしはひんやりとした床に横たわっていた。
ここはどこだろう? 慌てて身を起こそうとするが、できない。どうやら簀巻きにされ体の自由を奪われている状態らしかった。
「誰か、誰か」
しかし声は出た。こういう場面には恒例となっている猿轡は幸いにも噛まされていないようだった。
するとすぐにこちらへ歩み寄って来る人影がある。それは二十代と思える美人の女性。そういえば彼女の顔をどこかで――。
「あっ」
思い出した。あたし、彼女に撃たれて。
彼女は確かに拳銃を持っていた。でもおかしい。だってそれはあたしが窓から投げ捨てたはずだが。
そもそも、ここは避難所の高校のはず。なのに何故追われるような羽目になったのだったか。
そうだ、淳が撃たれたからだ。
脳裏に蘇る大量の血の花。彼は今、どうしているのか。途端に胸が不安でいっぱいになり、どうしようもなくなった。
「ね、ねぇ、淳は! 淳はどこ!」
「起きたの。朝じゃないからおはようは相応しくないか……。ともかく、あなたには訊きたいことがあるの」
「淳は!? 淳が無事なのかって訊いてるの!」
あたしの叫びに、女が肩をすくめた。
「それはあの男の子……いいえ、食人鬼のことかしら?」
胸がドクンと音を立てるのがわかった。
湧き上がる焦燥感。嫌な想像が頭をよぎり、思わず青ざめる。
「無事なんだよね!? 淳は、茉麻は、無事なんでしょ!?」
「ええ。今は、ね」
『今は』という言葉に心臓を掴まれたような思いになりつつも、現時点で殺されていないという事実に安堵する。
そしてあたしは躊躇いなく言った。
「彼らに会わせて。あたしの大事な人たちなんだ」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
連れて行かれた先、そこでは茉麻が椅子に両手両足を縛られ尋問されていた。
とてもではないが幼い少女にするとは思えない仕打ちを前に、あたしは絶句した。
「彼女も食人鬼で間違いないわね?」
あたしを歩かせていた女性がこちらに問いかけてくる。
ガクガクと頷いて、あたしは彼女へ駆け寄ろうとした。
「ぐあっ」
「ダメよ。あなたは足を負傷してるんだから。まともに歩けるはずがないでしょう」
そうだ。あの時、意識を失う寸前に足を撃たれたせいで自力ではまともに歩けなくなってしまったのだ。
血はすでに止まり、包帯が巻かれている。おそらくはこの女性が手当てしてくれたに違いない。
でも、ならばどうしてあたしを撃ったのか。
そもそも民間人であろう彼女に何故拳銃を所持することができたのか――冷静に考えてみれば謎が多すぎる。
しかし今はそんなことを言っている場合ではなかった。
「茉麻ちゃん!」
「お姉……さんっ」
今にも泣きそうな顔を向ける茉麻。
彼女の表情は不安に歪んでいたが、どうやら傷はなさそうだ。その事実にあたしはホッと安堵の息を漏らした。
「ねえ茉麻ちゃん、淳は? 淳はどこ?」
「そこ。そこですっ」
震える少女が指差したのは、白いカーテンの掛けられたベッドだった。
そしてその上に眠るのは学ランの少年で。
「彼は深傷を負っている。ので、私たちがひとまず治療をしているところよ。……本来、食人鬼に与える慈悲はないのだけれど、今回は特例でね」
「特例っ……?」
「そうよ。どうしてもあなたたちに問いたださなければならないことがあるの。そこの女の子と男の子が何故そうして正気を保てているのか。そして、あなた。あなたが彼らと行動していることの真意を教えなさい。処遇はそれからよ」
正直に話せばいいのか、嘘を吐けば助かるのか。
悩んだ挙句、やはり真実を語ることに決めた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「だからその子たちは、生きた人間は食べない。お願い、助けてあげて。食人鬼だって悪い奴じゃないんだって……わかって」
全てを話し終えた後。
あたしは女に頭を下げ、必死で懇願していた。
今ここで彼らを殺させるわけにはいかない。なんとしても助けなければならなかった。
「彼らに会話が通じることはわかったわ。でも、人を襲わないという根拠がないでしょう」
しかし女は冷酷に言い放つ。
でもそれは当然のことだった。人間たちはこの終末世界で常に食人鬼たちの脅威に脅かされている。彼女たちだって一歩間違えば死。油断はできないに違いない。
それでもあたしは諦めなかった。
「なら! なら、あなたたちの手伝いをする。どんな言うことでも聞くから」
「…………。わかった、じゃあ校長と話してくるわ。あなたはそこで待ってなさい」
校長?
そういえばここが高校であったことを思い出す。校長がいて当然なのかも知れない。
女が部屋を出て行ったので、あたしは言われた通りに待った。
そしてすぐにスライドドアがガラガラと開き、この部屋――おそらく平和な時は保健室だったのだろうと思われる――に、初老の男が現れた。
紳士服を着た彼はあたしににこやかに微笑みかけた。しかしその手に握られているのは今にも火を吹き出しそうな拳銃であった。
「あ、あなたが」
「いかにも。私がこの学校の校長だ。……もはやその役割は果たしていないがね」
拳銃を向けているというのに、校長と名乗った男の口調は柔らかだった。
茉麻が悲鳴を上げて顔を逸らすのがわかる。あたしも、ああそうか、と思い出した。あたしを撃ったのは、そして淳を撃ったのもこの男だと気づいたからだ。
その瞬間に敵意が湧き上がったがなんとか鎮める。今は対話で切り抜けなければならない。
「校長。あたしたちを解放してください」
「それはできない」
「話があります。聞いてくれますか?」
男が、少しだけ楽しげに唇を歪めるのがわかった。
あたしは彼へ、一世一代の賭けである『交渉』を始めたのである。