グラタン専門店
ある一件の店があった。そこは、陰鬱とした灰色の家が並ぶ霧の街の中、異様なほどに楽し気な空気に包まれていた。二本足でラッパを吹く背の黒いリスの人形が、常に吠える声が止まない白い虎のぬいぐるみが、黄色い壁と、赤い屋根と合わさり、まるでこの街のすべてのポジティブな感情が凝縮されたかのような賑やかな世界が狭く、しかし深く深く広がっていた。
店内もまた、外の街並みを侮辱するかのような賑わいに溢れていた。それは真っ白な壁に茶色みがかった床とシンプルな内装ながら、広いカウンターに多くの椅子やテーブル、そしてそこにほぼ一席の漏れもなく座る客がはっきりと表していた。そして、この世界観に反逆するかのように、鰐の生態を追う一時間ほどのドギュメンタリー番組が店の大スクリーンで、無機質に、延々とリピートされていた。
不思議なことながら、常に同じ客が騒ぎ、店を出る者はいなかった。
ある時、この店に一人の旅人が立ち寄った。
男は空腹だった。来ていた服は破れ、体も痩せこけている。今までの記憶は歩いているうちにとうに抜け落ちていた。最早何のために旅をしていたのかはわかっていないようだった。心情も、見てくれも、まるで放浪する落人のようであった。
男は人の群れをかき分け、たまたま空いていた椅子に座る。男がメニューを開く前に、後ろから濛々と湯気の立つグラタンが運ばれてきた。頼んでもいないものがいきなりやってきたことに、男は誰かの注文したものが間違えて届いてしまったのではないかと困惑するが、極度の空腹と、店内の何をしてもわからないのではないか、もし頼んだ張本人に見つかっても、笑って許されてしまうのではないかといったような空気が、男の口にグラタンを含ませた。
グラタンを飲み込んだ途端、男の記憶が蘇った。それはつらい記憶ばかりであった。母の虐待、工場での劣悪な環境下での労働、思い出したくない記憶が初めは大まかに、しかし少しずつ鮮明に浮かび上がってくる。もう一度その記憶を体験したかのような感覚に、男は恐怖し叫ぶ。またあの地獄に戻らなくてはならないのか、またあの痛みの中生きていかなければならないのか。気が付くと皿は空になっていた。どこからともなく熱々のグラタンが入った皿が現れる。気が付けば男は再びスプーンを握っていた。
恰幅の良い女が優しく男に話しかける。行く当てのない浮浪者でも、生きるのに疲れた若者でも、たとえ人殺しでも、ここはすべてを受け入れる、と女は言う。
ああ、こんな賑やかな、優しい楽しい世界があるならば…。
店主は、キッチンの壁に、右下がりの線を一本彫り込んだ。