おもかげ
定刻をわずかに過ごしてバイトを上がり帰りがけに挨拶だけ済ますと、そのまま約束の店へ向かう。
駅を南口に出て右へまっすぐ進むとすぐさま目に入る、ネオン通りの角をちょうど左へ折れた先にカフェやバー、カレー屋や創作料理の店が軒を連ねる中のひとつに働いている自分は、付近の店々が気に入らないというわけではないもののしかしどことなく息苦しくもあるので、今日ひさしぶりで七海に誘われたとき、返事をするより先にまずは場所の事を思った。
七海は自分と一緒の店でバイトをするかたわら北口のカフェにも勤めていて、最初はうちの店だけであったのが就職活動をそろそろ本格的に意識するはずの学年になって、急に掛け持ちを始めたのを自分は当然のごとく疑問に思い、それとなく訊ねてみると、彼女はだからこそ新しいバイトをしておきたいとのことだった。分かるような分からないような理由ではあったけれど、もちろん反対することもないまま月日が経つにつれてこちらへの出勤は徐々に減ってゆく。最近では週に一二回、それも平日ばかりになった。
週末は向こうの方に出勤していると知ってはいたものの、平日はむしろ自分は店へ出ないので、気づけば顔を合わせる日も稀になって、たとえあってもバイトに勤めるうちはそうそう喋る暇もない。以前はバイト終わりにそのまま近くで飲むことも度々だったけれど、それは週末のことだった。
今日はだいぶ久しぶりなので今からもう胸が弾む。アスファルトを歩む足が自然軽やかになるのも、冷夏の寒いほど涼しい風が襟や袖から突き入ってくるためばかりではあるまい。勢い早足になりたがるのを努めて抑えながらも、何故こうもうきうきするかとはっきり考えたくはない。いつか駅前に着き高架下を北口へ抜けて大通りの信号を向かいに渡り切ると、急ぎ足の人出にともすると服も擦れ合うほどごった返していた駅前にくらべて、ここではカップルが寄り添って歩み学生たちが悠々闊歩するうちにも、不思議とサラリーマンらしきくたくたにしなったスーツの一群は見当たらない。
歩道から三つ目の細道を折れてたちまち目に入ったスペイン料理屋のテラス席に陣取った男女二人組は、グレンチェックのパンツスタイルが一見大人びて清楚な装いの女はよく見れば自分より一二歳は若く、それに向かい合ってほどよく引き締まった白シャツの中年男は若作りがいやに目立つ。と、赤ワインを飲み干した女が白いというよりは文字通り肌色に甘く伸びる手先で、胸へ落ちかかる豊かな髪を後ろへさっと押しやり、幾度も指先で梳る姿に男は頬杖片手に見とれるともなく見とれながらも、しかし話題はあくまで逸らさず、若い女の目と耳をひしと掴んだまま熱心に何事かを吹き込んでゆく。男と自分の心持ちがほとんど一致してきて覚えず知らず足が止まりかけたのを、払って歩み、それでも女を視界の外にはっきりとらえるうち、二人のかたわらを通り過ぎる。そばからもう忘れて、今日これからへと想いは跳ねる。イタリア料理、フランス料理、創作料理、カフェと無秩序に立ち並ぶ店内の色彩様々な明かりのもと広がるあるいは穏やかな、あるいは打ち解けたさまを折々眺めては想いにふけり、時折見とれてははっと前に向き直りすぐとまた視線を戻すうち、約束の店もそろそろ近い。
七海がバイトを上がる時刻と自分がバイトを上がる時刻には一時間のずれがある。彼女が先で、七海はどこかで暇をつぶすよりは先に店へ入ってひとり杯を傾けるのを選んだ。彼女はひとり自分を待っている。この一時間彼女は何を想い、考えていただろう。好きなカクテルを一口飲んではグラスを置いて見つめ、炭酸のちいさな泡が弾けて上がってくるのに微笑み、あるいは舐めるように鼻先と舌先に味わって、柑橘系の糖分とアルコールの組み合わせの妙にいつかの如くうっすら頬を染めて恍惚としているだろうか。
「糖分とアルコールという、毒にもなりえてしかも人がどうしても抗えない二つのもの。その魔術的な合わせ方。それがこれなの」そう言いながら彼女はむしろゆっくりと、とても溺れているようには見えないほどの時間をかけて一杯を干していった。
それだけ時間をかければ酔っ払うはずもなく、自分も七海と杯を合わせるうち微酔という悦楽を知ったけれども、といってそれは彼女に対する酔いも多分に含まれていたかもしれない。七海もあるいは自分と二人だからこそ、杯を進める手を抑えられたのだろうか。図らず染まったのだろうか。
ひょっとして氷が解けるのも構わず読みかけの本を取りだして、時折くるりくるりと、一息つくようにマドラーをそっとかき混ぜてはページにしおりを挟み、見えてはいないものを見つめながら、瞬間の想像に遊んでいるだろうか。
あるとき、フローベールの『ボヴァリー夫人』と、ハイスミスの『太陽がいっぱい』に対する単純な感想として、自分が「なぜ男の小説家は女を描き、女の小説家は男を描きたがるんだろう」と何気なく疑問を呈したとき、七海はべつに深く考えるふうもなくしかし妙に悟りきった口調で、
「エンマは男だし、トムは女なのよ」と言ったのに続けて「それに、こっちの方が遥かに大切だけれど、男はほとんど女だし、女はほとんど男なの。あなただって、わたしが男であるくらいには女なのよ」と答えた彼女の姿は、落ち着いた色合いの髪を中程から毛先にかけて緩やかに巻いたのを、うしろで一つに縛ったのから始まって、枯葉のような色彩の薄手の五分丈ニットをざっくり着た下に、ホワイトのボトムスとサンダルの組み合わせがむしろ、彼女を年齢以上の大人の女性へと演出しているように見えたのだけれど、あるいはこれをこそ男っぽいと七海は考えていたのかもしれない。
「俺はねもうひとつ、『ボヴァリー夫人』には女同士の友情における葛藤がほとんどといっていいほど書かれていなくて、『太陽がいっぱい』にはくどすぎるほど男同士の友情の葛藤が書かれてる。これが気になる。ていうかしっくり来てない。トムはひょっとしてゲイなのかもしれないっていう疑いもあるけれど、でも俺としては問題はそこじゃなくて、男同士にああいうしつこい友情の葛藤があるだろうか。男の俺が女の君にきくのはもちろん変なんだけど」
「わたしはそこまで深く考えてない。ていうか感じなかったのかな。でも、ほんと二つとも胸糞わるくなるし、主人公は二人とも最低といっていいし、決して褒められたような人たちじゃないし、そうなんだけど、でも惹かれるところもあって。ただ、文学って道徳とは違うよね、って実感できた」
「そうだよね」
「そう」と横を向きながらつぶやく彼女の姿からは、不倫や犯罪の香りなど少しも嗅ぎつけられなかったけれど、それについては何も問わずに終わった。けれど小説を読むこと自体、反道徳的な体験なのかもしれないとふと、折々自分も思うことがあるので、それと近い何かを七海も感じているのかもしれない。
物思いにふけるうち、両側からだんだん店が減っていき住居が建て込んできたところで、右に細道が見えた。そこを折れるとまた店が続き、その三軒目の地下一階に約束の店がある。一階のパスタ屋を覗くと店内は明るくも無人である。と、折り悪くアルバイトらしき小柄な女の子と目が合って、自分はさっと顔をもどしながらひっそりとした階段を地下一階へと下りてゆく。
ドアを引くと、仄暗くも間接照明が穏やかで雅やかに照らすそれほど広くない店内に、ひと目で彼女を見つけた。七海もこちらに気がつく。瞳が合っても彼女はそれをずらさない。と、七海は瞳を逸らしながら、うしろへ落ちかかる豊かな髪を両の手櫛で一度前へと梳いて、手の甲で扇ぐように押しやるや、口元を引き締めた微笑がきゅっとこちらを射た。彼女の手先にグラスの影はない。自分は店員の導きなしに女のもとへ引かれて行った。
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