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1億円のご飯  作者: 佐藤
3/5

特別の秘密

 その日は、久しぶりに余裕のある日だった。


 午前中に出先で打ち合わせをしていたが、予定よりも早く終わって、

時計を見ればちょうどお昼の12時。


 すると上司に

「急ぎの仕事が無ければ今日はもう帰っていいですよ。

最近体調が悪そうでしたけど、なかなか休みが取れなくて申し訳ない」と、

不意の直帰を提案された。


 確かに今は、担当している業務にも少しだけ余裕がある。


 どうしようかと悩んでいると「休める時に休んで」と背中を押されて、

午後はフリーになった。



 電車に揺られ、まだ明るいうちに自宅の最寄り駅に降りると、

不思議な気持ちになる。ずる休みしているみたいでなんだか

申し訳ないけれど、どこかさっぱりとした気分。


 すぐに帰る気にもならなくて、あてもなくふらふらと歩くことにした。


 毎日時間に追われながら通る最短のルートではなくて、静かな方へと

気の向くままに足を運ぶ。


 こんなに身近にあったのに全然知らない道は、とても新鮮な

発見に溢れていた。


 秋の日差しが心地良く、のんびりとした雰囲気に癒される。


 商店街を抜けると、脇道にひっそりと佇む、小綺麗なお店を見つけた。

どうやら和食屋さんのようで、店先の看板に、控えめに今日のメニューが

看板に書かれている。


「サンマ定食 800円 旬」


 とてもシンプルな文字だった。

そして、その下にある多分、サンマの絵がお世辞にも上手とは言えないけれど、

とても可愛らしい。最後にサンマを食べたのは、いつだっただろう。


 時計を見ると、もうすぐ13時になろうとしていて、充分お腹も空いていた。


 旬という言葉にも惹かれて、私は暖簾をくぐった。


「いらっしゃいませー、お一人ですか?」


 気の良さそうなおばさんに「はい」と頷きながら答えると、

奥の席を案内された。どうやら店は古民家を改修したようで

清潔感があり、隠れ家のようにこぢんまりとしていて落ち着く。


 席に着いて周りを見渡すと、平日ということもあり、サラリーマンが

二人と、常連らしさのあるおじさんが一人、食事をしているだけの

静かな店内だった。


 注文を聞きに来たおばさんに、サンマ定食を注文すると、

「少しお時間掛かりますけどいいですか?」と言われ、私は

「大丈夫です」と答えた。


 普段であれば昼休みの時間を気にして、迂闊に外食できないから、

今日しか注文できないメニューだと思うと、ちょっと得した気分になる。


 それから20分ほど待ち、「お待ちどうさま~」と運ばれてきたのは、

お盆いっぱいに乗った料理の数々だった。


 中央の皿には丸々としたサンマの塩焼き。


(サンマってこんなに大きい魚だったっけ?なんかすごく豪華…)


 身のふっくらとしたサンマは、艶のある表面の皮がパリパリに焼けていて、

見るからに美味しそうだった。その隣にはちょこんと、レモンと大根おろしが

添えられている。


 その長い皿を囲むようにして、ご飯、お味噌汁、茄子の炒め物、

筑前煮、お漬物、デザートの梨まで揃っていた。どうしても茶色っぽく

なりがちな和食なのに、どれも色鮮やかで、見た目からして美味しそうだった。


 いつもと違い、見た目の感想に浸れるほど、数字が浮かぶまで時間が

掛かっていることを不思議に思い、私は目を凝らす。


「あ!」


 思わず声が出てしまった。


 お盆の模様だと思っていたそれは、数字だった。

だが、いつもと違う。桁が全然違う。


100000000


 ゆっくりと目で数えて確認すると、0が8個あった。


 初めは数字が重なっているだけだと思った。

つい最近も、おにぎりを2つ並べていたら100と100が重なって

見づらいと感じたことがあったから。


 けれど、今回は明らかに、このお盆にある食事のトータルが

「100000000」と表示されていた。


 これはお弁当と同じパターンで、恐らく作り手が、このお盆のまとまりで

一つの完成形とみなしていることで起こる現象だった。


 動揺を隠しながら、私はいただきますと手を合わせると、

箸を手に取って、そっとお味噌汁を口にした。


「?」


 いつものお味噌汁と、決定的に違う。今度は、焼きたてのサンマをつまむ。


「?」


 筑前煮のタケノコを噛みしめる。


「?」


 筑前煮の鶏肉と人参、ホカホカのご飯を口にする。


「??」


 茄子の炒め物とご飯を頬張り、サンマに大根おろしを乗せて頬張り、

ご飯の後に漬物をパリパリ頬張る。


「????」


 どれもが全然違う。いつもの食事と比べると、これらは全く

次元の異なる食べ物だった。


 初めての衝撃だった。どうしてこんなにも、それぞれの食材の味が

するのだろうか。どれほどの手間が掛かっているのだろうか。


 今まで食べてきた物は何だったのだろうかと考えてしまうほど、

これらは明らかに「特別」だった。


 これほどまでに美味しくてたったの800円。私にとっては1億円の

価値がある食事ができるというのに、どうしてこれだけしかお客さんが

いないのか、不思議で仕方がない。


 なんとなく、平日は、ここを訪れたくないという気持ちも分かる。

こんなに美味しい物は、仕事の合間ではなく、時間をかけてゆっくりと

味わいたいから。もしくは、お店が裏路地にひっそりとあるから、

気づかない人が多いのかもしれない。


 色々なことに思いを馳せていると、もうそろそろ食べ終わってしまう。

悲しい気もしたが、それ以上に満ち足りた気持ちになり、私は最後に

デザートの梨を口にした。


「…はあ」


 思わずため息が出てしまう。

信じられない、梨も、ただの梨じゃない。何かのシロップで漬けたのか、

舌の上で薄っすらと、複雑な味わいを感じることができる。

すっきりしているけど、スイーツのような充実感。私にはとても真似が

できないレベルのものだと断言できる。そして、私が知っているどこのお店も、

今まで食べてきた物も全て、敵わない。


 食事を終えて周りを見ると、店内には私だけになっていたことに気づき、

ちょっと恥ずかしい。時計を見ると、既に14時半。

1時間近く居座ってしまった私は、慌てて席を立った。


「美味しかったかしら?」


 会計しているとお店のおばさんに尋ねられて、私は「はい!とっても!」と

勢いよく答えた。するとおばさんは「それはよかったわ」と朗らかに笑った。


 スタンプカードがあったら欲しいくらいだった。このお店のカードであれば

すごく適当な性格の私も、無くすことはないだろう。


 店先の、暖簾に書かれた店の名前を忘れないよう、呟く。


「…緑…じゃなくて、えにし、か…」


 偶然の出会いに感謝しながら、上機嫌のままアパートに帰った。


 夕陽が沈んでいく。

夜へと変わる早さでひっそりと、秋の終わりと冬の始まりを感じる。

寒かったので、その日の夕飯は定番のもやしと豚バラ肉の鍋を作った。


 500


 いただきますと手を合わせ、もそもそと食べながら

あの店のことを考える。またすぐにでも味わいたいけれど、

価値が下がっているのを目の当たりにするのは怖かった。


(…でも、どうして1億円もするのだろう?)


 確かにびっくりするほど美味しかったけれど、食べ物という概念を

超えた価格であることは間違いない。


 ちらっとスマホを開いてお店、「縁」について検索してみたが、

定休日は土曜日かもしれない、ということ以外は情報が出てこなかった。


「…よし!」


 豚バラもやし鍋を食べ終えた私は、パチンと手を合わせて

立ち上がると、手帳で予定を確認する。次の日曜日、

再び店を訪れることを心に決めると、不安よりもワクワクが

勝った自分を、久しぶりに見つけることができた。


 けれど、もしいつものように仕事が忙しかったら、この出会いは

きっと無かった。


 ずっと必死に走り続けて、ふと立ち止まった瞬間に、

運良く見つけることができただけ。


 みんな、そうして生きているのだろう。

目まぐるしく時を過ごして、なんとなく手にできたもの、

心を動かしたものを愛でるのだろう。



 不思議な巡り合わせに気持ちを惹かれたまま数日を過ごしていると、

あっという間に日曜日が来た。


 あの出会い以来、食事をする度にいつもあの店の料理を思い出した。

それはまるで、楽しい片想いをしているようで、不思議と

幸せな気分になっていた。


 朝ご飯は食べずに、のんびりと身支度を済ませて、

とてもゆっくりと歩いて移動する。


 そうして「縁」に到着するとちょうどお昼時、11時半になっていた。


「あれ?」


 店先に「縁」と書かれた暖簾は無く、看板も出ていなかった。

そっと戸に手を掛けるが、やっぱり閉まっている。


「…もしかして、お休み…?」


 衝撃の事実に、私は店の前で途方に暮れて、立ちすくんだ。


 どう考えても休日にピッタリなので、土曜日にやっていないのなら、

絶対に日曜日には営業していると思い込んでいたけれど、

どうやら平日しか食べられないらしい。



「うちにご用ですか?」


 落ち込んでいると、後ろから声を掛けられた。

振り返ると、荷物をたくさん持ったメガネの男性。


 彼の頭に、視線が移る。完璧なスキンヘッドで、まるでお坊さんのよう。

髪型のせいかもしれないけれど、年齢は多分私よりも上で、30代だろう。


 再び目が合った時、私はようやく、この男性は店の人だと気づいて、

慌てて返事をした。


「あ!すみません!ランチ食べに来たんですけど、今日ってお休みですか?」


「土日はやっていないんです」


「…あ…そうなんですか…」


 明らかに私がしょんぼりとした所で、会話が終わってしまった。


 そのあまりの気まずさに、「それは残念だなあハハハ」と笑って

取り繕うこともできず、私は小さくぺこりと頭を下げて、

すぐ立ち去ろうとした。



「食べて行かれますか?」


 不意の言葉に振り返ると、男性は店の鍵を取り出し、戸を開けている。


「一人分なら、大丈夫ですよ」


 ここでひとつ、注意しておきたい点がある。


 私は今まで一度もナンパなんてされたこともないし、学生時代に

道を歩いていたら「地味」と、見知らぬ人に採点されるほどの、

しがない25歳のOLだ。


 そのため、この男性の目に、私は「ランチを食べ損ねた可哀想な人」として

映っているだろうことは間違いなかった。


 店の人の提案は、とても優しさに満ち溢れていた。


「…いいんですか!すみません!」


 私は自分で図々しいとは思いながらも、どうしても1億円のご飯の

真実が知りたくて、暖簾の掛かっていない店内へと入った。


 彼は「好きな席にどうぞ」と言うと、荷物を持って厨房へと

消えてしまった。私はなるべく邪魔じゃなさそうな場所をきょろきょろと

探して、結局、前と同じ奥の席に座った。


 しばらくして、男性はお茶を持ってきてくれた。

料理をする服に着替えていて、わざわざ休みの日に働かせてしまい、

申し訳ない気持ちになる。


「今日は肉じゃが、ゴボウと大根のきんぴら、イカの煮つけ、

明太子のだし巻き卵がありますが」


「おまかせで大丈夫です!嫌いな物無いので」


 彼の感心するような視線を受けて、なぜか私は慌てて

「パクチーとレバーは食べられないんですけどね」と付け加えた。


 彼はそっけなく「お待ちください」とだけ言って、厨房へと再び消えていく。


 フワフワとした気持ちを落ち着かせるため、私は淹れてもらったお茶を飲む。


 ここまで、普段の自分からは想像できないほどの行動力だった。

でも、お店の人が良いと言ってくれたのだから、きっとこれで

良いのだろうと開き直って店内を見回した。


 古民家らしさもあるが、どこか今時な雰囲気なのは、あの男性の

好みだろうか。接客を担当していたおばさんは多分、彼のお母さんで、

家族で経営している和食屋さんなのだろう。


 そんなことをぼんやり考えていると、彼がお盆を持って現れた。


「お待たせしました」


 彼が私の目の前に食事を出してくれた瞬間、数字が現れる。


 100000000


 それは見間違えでもなく、数字が変わることもなく、絶対の

価値を示していた。言葉にならないほど嬉しい、不思議な気持ち。


「ありがとうございます…えっと…」


「ごゆっくり」と立ち去ろうとする彼に何か言いたくて、それでも

丁度良い言葉も見つからずにもごもごとしていると、

「食べ終わったらお皿はそのままで大丈夫ですから。お代も結構です」

と言われてしまう。


「違うんです!」


 私は思わずそう言い切ったが、何と言ったらいいのか分からず、

小さな声で、その何かを伝えようとした。


「あの、特別なんです、このご飯。よく分からないんですけど、

先週初めて頂いた時から、すごく特別なんです」


「…まだ食べてないのに?」


「え!?…あ、いえ…そうなんですけど…」


 不意の問いに動揺していると、しばらく沈黙があって、男性は再び

「ごゆっくり」と言い残し、いなくなってしまった。


(絶対これ不審な女だって思われたよー!最悪!恥ずかしいよーーー!)


 そう心の中で叫んだが、時間は巻き戻せないので、とりあえず

食べることにした。


「いただきます」


 お盆には、先週と同じように、たくさんの料理が並んでいた。

お店が休みの日にもこんなに料理するのかな?と不思議に思いながら、

まずは鮮やかな明太子が中央にたっぷりと入った、だし巻き卵に手を伸ばす。


 何層にも巻かれたそれに箸を入れると、じんわりと出汁が溢れてくる。

口にすると、ほんのりと温かく、優しい卵の味がした。


 ゴボウと大根のきんぴらはピリ辛で、ゴマ油の風味が食欲をそそり、

しっかりと野菜本来の味がする。醤油味の染み込んだイカの煮つけは

びっくりするほど柔らかく、生姜が効いてさっぱりとしていた。


「…美味しい」


 私の舌にぴったりのその美味しさに、とてもご飯がすすむ。


 具沢山の肉じゃがは、じゃがいも、にんじん、白滝にも牛肉の味が

しっかりと染みていて、おかずとして完璧だった。緑色の絹さやが

ツヤツヤとしていて美味しい。


 正直、ご飯をおかわりしたいくらいだったが、お味噌汁を

飲んでほっと息をつく。


「アサリのお味噌汁って、インスタントしか食べたことなかったな…」


 貝の身までしっかり食べ終わると、お盆の端に目が留まる。


「…黒豆」


 お正月のお節料理にいつも入っている、つやつやと輝く黒豆が

デザート扱いなのかは分からなかったが、最後までとっておいた。


 口にするとまったりと甘くて、噛むほどに濃厚な味がする。


 でも、どれもがため息がでるほど美味しいけれど、

前に食べた時と、何かが違う気がした。


(…ちょっとだけ、薄味…?)


 どこか引っかかりながらも、私の中で価値は下がっていないし、

お休みの日だったからレシピ自体が違うのかも、と一人で納得して

「ごちそうさまでした」と手を合わせた。


 静かに厨房を覗いてみるが、もう既に人の気配は無い。


「ごちそうさまでしたー…」


 声を掛けてみたがやっぱり誰もいないので、お盆を厨房の近くに戻し、

千円札を2枚と、ちょうど鞄の中にペンがあったので、紙ナプキンに

「とてもおいしかったです!ごちそうさまでした。」と書き置きをして、

店を出た。


 ゆっくりと来た道を戻りながら、私は色々なことを考えていた。


(…お兄さん忙しかったのかな。お店休みだったのに申し訳なかったな)


 それでも、自分の中で大事なものが生まれたことが嬉しかった。

周りには理解されなくても、自分にとって価値ある物が存在する

ということが、こんなにも強く私を生かしてくれるなんて、

全然知らなかった。


 もしかしたらいつかこの先、あの料理でさえも、価値が下がってしまう

時が来るかもしれない。


 けれど今は、この気持ちを大切にしたいと思った。



 それからというもの、私は週に1度だけ「縁」を訪れるようになった。


 やっぱり昼は難しいので、仕事を必死に片づけてから夜に向かうことが

ほとんどだった。店内は夜の方が混み合っていて、美味しい料理とお酒で

その日の疲れを癒して帰るようだった。


 お店は夜10時までの営業なので、絶対に9時には着くようにしていた。

 ダッシュで帰るので、先輩にはよく

「お?桜ちゃん、彼氏とデート?」と冷やかされていた。


 店を訪れるとおばさんは「いらっしゃい、桜ちゃん」と私の名前を

覚えてくれて、いつも笑顔で迎えてくれた。


 夜に行くと、お酒が飲めなくて申し訳ないと思いながら、

足りないカロリーを補給するように定食をしっかりと食べた。


 たまにお兄さんや、おじさんも出てきて声を掛けてくれて、

なんだか親戚の家のような居心地の良さを味わっていた。


 あっという間に月日だけが過ぎていって、増していく冬の寒さに、

本当に春なんて訪れるのだろうかと身を縮こませながら、毎日働いていた。



100000000


 その日も最高に美味しい料理に満足し、会計を済ませていると、おばさんに

「通ってくれてから、もう3か月くらい経つわね」と言われた。


 私はつい最近のように思っていたので驚きながら、

「そうですね、お陰ですごく健康になりました」と笑った。


 それは社交辞令ではなく本当のことで、ここに通うようになってから、

食べることに対する恐怖はだいぶ薄まっていた。


 きっとこの店の料理が、いつも変わらずに安心させてくれるからだろう。

体重も戻り、先輩にも「桜ちゃん顔が生き返ったね」と言われている。


 おばさんは他にも何か言いたそうにしていたけれど、ちらっと厨房を

気にして、いつものように「また来てちょうだいね」と話すだけだった。



 そして、次の週に、それは起こった。


 私がいつものように仕事を終わらせてギリギリ9時前に到着すると、

店先に、お兄さんがいつも書いている「本日のおすすめ」の看板が

出ていなかった。それを見るのも楽しみにしていたので、ちょっと

残念に思いながら店内に入る。そして、いつものように注文を済ませて

料理を待った。


「お待ちどうさま~」


 運ばれてきたお盆は、いつもと見た目は変わらない。それなのに。


10000


「…ん?」


 0が、4つ足りない。それは見間違えではなく、いつもと何かが決定的に

違うことは明らかだった。私は慌てておばさんを呼び止める。


「あの!」


「はいどうしたの?」


「これって何か、いつもと違います?」


「え…」


 もしかしてこれって失礼なこと言っているかも?と後から慌てたが、

おばさんは「よく分かったわねー」と感心し、

「今日は一基かずのりさんいないのよ。全部お父さんが作ったから、

確かにお料理、ちょっと渋い感じかしらねー」と頷いている。


 そして私はこの時初めて、あのお兄さんが「一基かずのり」という

名前ということを知った。


 正直、料理をじっくり眺めても見た目の違いは分からないし、

一口食べてみても、いつもと味が変わっているとも思わない。


 今日の料理は、一基さんは作っていない。


 定休日に作ってもらった料理は、一基さんが作った。


 私は、私の能力は、作り手にも影響されるということが判明した。

そして、一基さんの作った料理だけが、私にとって1億円の価値がある

ということだとしたら。それはつまり


 ここまで考えて、顔が熱くなる。


 いつもの倍の速度で完食し、そそくさとお会計を済ませて店を出た。

正直、何を食べたのかもあまり覚えていない。こんなにパニックになるのは、

この能力に初めて気づいた時以来だった。



 凍えるような向かい風も無視して足早に家に帰り、早々に寝る支度を整え、

ベッドに潜っている自分がいた。


「なんでなのー?!」


 枕にそう叫び、ゴロゴロとしているとますます恥ずかしくなってしまい、

とても眠れそうになかった。仕方なく起き上がり、少しだけお酒を飲む。

これからどうしたらいいのかすら、恋愛経験の乏しい自分には分からなかった。


(…なんであの人が作った料理は、1億円もするんだろう)


 あのお兄さんが特別だから、彼の作った料理が1億円になるのか。

それとも、あのお兄さんが作った料理が1億円だから、

彼は特別ということなのか、よく分からなくなっていた。


(そもそもこれって、好きってことなの…?)


 思わず発覚してしまった新たな問題について、これ以上は

考えないようにして、私は無理やり眠りについた。



 このまま会ったら、なんだか絶対に変な感じになってしまう気がしたので、

その次の週はお店に行かなかった。


 ただ、食事の度に数字が見えると、思い出すのはあの美味しい料理ではなく、

なぜか一基さんのことだった。


(…こういうのって、怖い話を夜中に思い出しちゃうやつに似てるな…

考えないようにすればするほどって感じだよね…)


 心の中で笑いながら、相変わらずの残業をして、とりあえず

時間が解決してくれるのを待つことにした。本当は誰かに

相談するのが一番良いのだろうけれど、まずは食べる物に

数字が表示されることから説明が必要になると考えると、ひどく億劫だった。


「ねぇちょっと聞いてよ~私って少し前から食べ物の価値が可視化される

ようになったんだけど、ある男性の作る料理が1億円するんだよね~

これって運命の人ってことかな?」なんて、もし私が友達に言われたら、

どんなに仲が良くてもまずは宗教や怪しい薬に手を出していないかを確認し、

今すぐに心療内科に行くことを勧めるだろう。


 この現象ともう一度、冷静に向き合う覚悟ができた時、

私は再びあの店に行くことを決意した。



 はっきり結論から言ってしまうと、いつまで経っても決心はつかなかった。


 長くて短い平日をモヤモヤしながら乗り越え、うじうじと土日を過ごし、

それを2回ほど繰り返してようやく、このままでは永遠に変わらないだろう

ということだけが分かった。


 職場のカレンダーで、今日は金曜日であることを確認しながら、

「今週で残されたチャンスは今夜だけだぞ!」と、強く自分に言い聞かせる。


(…よし!絶対に今夜行く!行かなかったら罰としてトイレ掃除…にしたら

家中の掃除に逃げそうだから…えーと…)


 一人で悩んでいると、後ろからコソコソと、後輩の女の子に

小声で話しかけられた。


「先輩すみません、今夜って予定ありますか?」


「うーん、あると言えばあるし、無いと言えば無いかな」


「そうなんですか?じゃあ合コンやるんですけど行きません?

4対4で、結構良い感じの人達なんですけど」


 脳内の天秤が、カタンと傾く。


「ごめん、予定あります」


 折角の誘いを「へへへ」と謎の笑いで誤魔化して、

今夜は潔くお店に行くことに決めた。



 約1か月振りの「縁」は、当然何も変わっていないけれど、

私の心臓は、店に向かう段階から騒がしくて嫌になる。


 到着すると、いつものように店先に出ている看板をチェックする。


「ヒラメの煮つけ定食 800円 旬」と書かれた

素っ気ない彼の字と、正直下手なヒラメのイラストにどこかほっとして、

少しドキドキしながら暖簾をくぐった。


「いらっしゃいませ、あらー!久しぶりじゃない!」


 笑顔で迎えてくれたおばさんにぺこりと頭を下げ、

案内されていつもの席に座る。


「今日も定食にする?」


「あ、今日はお酒飲みたいんです。えっと、梅酒のお湯割りありますか?」


「梅酒なら美味しいのあるから持ってくるわね」


「ありがとうございます。あと、それに合いそうな料理を

おまかせってできますか?」


「できますよーとりあえず3品くらい用意するわね」


 そう言って、おばさんは厨房へと向かう。


 私はぼんやりとその姿を目で追い、奥で料理を作っているだろう

彼のことを考えてしまい、ハッと我に返った。


 前髪をいそいそと整えて、つい先走ってしまう気持ちを

押さえながら、店内を見渡す。


 みんなが美味しそうに、とても幸せそうに食事をする様子を眺めて、

私もなぜだか嬉しくなった。


「お待ちどうさまー」


 梅酒のお湯割りと一緒に出してもらったのは、山芋とオクラの酢の物と、

ヒラメの煮つけ、そして牡蠣と野菜がたっぷり入った湯豆腐の鍋だった。


 今日は単品だからか、それぞれに「100000000」と表示されていた。


 久しぶりでも、何も変わっていなくて、心が落ち着いていく。


 私は気合を入れるためにお酒を飲んでから、「いただきます!」と手を合わせ、

まずは小鉢の酢の物から手を伸ばした。


 山芋のしゃくしゃく感と、オクラのネバネバがとても合う。

出汁とお酢の味がしっかりと染み込んでいて当然のように美味しく、

1か月ぶりに食べられて、体も喜んでいる気がした。


 私は込み上げてくる何かに気持ちが負けないよう、再びお酒をぐっと飲む。

梅酒のさらりとした甘みが、山芋とオクラを溶かしていく。


 湯豆腐に箸を伸ばす。ふつふつと煮える湯豆腐には、牡蠣とセリ、

長ネギがたくさん入っていた。取り皿には、ポン酢と大根おろし、

そして千切りの大葉が添えられていた。


 それらをまとめて頬張ると、とても爽やかで大好きな味。

それはまるで雨の日のような、瑞々しく澄んだ味だった。


 ヒラメの煮つけを口にすると、ほろほろと身が解けて、

醤油と生姜、魚の旨味がぎゅっと広がる。


思わずお米が欲しくなるけれど、ぐっと梅酒を飲む。


 梅のほのかな甘みと酸味がしょっぱさと混ざって、大人の贅沢だった。

食事中は水やお茶しか飲んだことがなかったので、新しい発見に嬉しくなる。


 〆には鍋にうどんを入れて、卵とじにしてもらった。

それを食べ終わると、冷え切っていた体がすっかり温まっていることに気づく。


(やっぱり食べることって大切だよね。人間って、空腹で寒い中寝ると

死んじゃうって言うし…)


 酔った頭でぼんやりと考えながら、最後にお酒を飲みきった。


 ここまで来たら、もう言うしかない。


 お腹いっぱい食べて元気が出たのだから、もう一歩、前へ進む勇気も

あるはずだ。むしろ、こんなに美味しい物を食べて何もせずにいたら、

神様に叱られてしまう気さえする。


 私は席を立ち、支払いを終えると、覚悟を決めておばさんに伝えた。


「あの、一基さんと少しだけ会えますか?」


 おばさんは一瞬だけ驚いていたけれど、すぐに

「呼んでくるから待っていてね」と厨房へと向かった。


(あ~言っちゃった~!もう、後には引けない!)


これで良かったのかは分からないけれど、私がそうしたかったのだから、

悔いはない。


 一基さんが作った料理が、私に生きる力をくれた事実は変わることはないし、

どんなことがあっても、この希望ともいうべき感動は失われない。


 もしも、このお店の食事の価値が下がったとしても、もう食べることが

できなくなったとしても、後悔はしない、と思う、多分。


 ちょっと落ち込んでいると、厨房の奥から一基さんが現れる。

1か月ぶりに見たけれど、いつものスキンヘッドと、黒縁の眼鏡に

仕事着で、何も変わっていない。


「こんばんは」と言われて、私も「こんばんは」と頭を下げた。


 すかさず、おばさんが口を開き、

「今日はもう上がったら?後は片づけておくから」と

一基さんをほらほらと急かし、彼の仕事着をはぎ取って、

「隣のコーヒー屋さんでお茶でもしてきてくださいな」と、

レジからササッとお金を渡していた。


 一基さんはちょっと強引なおばさんの追い出し方にむっとした

様子だったけれど、私が慌てて「急にすみません!忙しかったら大丈夫です」

と謝ると、「大丈夫です」とだけ言い、一緒に店を出た。




 外は雪が降りそうなほどに寒く、私達は足早に、隣にあるお店に入る。


 そこは夜中までやっている、ジャズが聴ける喫茶店だった。

私達はコーヒーを注文し、向かい合って座った。


「…突然お呼びしてしまって、すみません」


 なんだか緊張してしまって、私は目を合わせられないまま呟いた。

彼は「いえ、大丈夫です」と素っ気なく答える。


 返事をしてくれて、純粋に嬉しかった。コーヒーが出てきて一口飲むと、

ほっと、ひと息つくことができた。


 本当はもっと気軽な感じで伝えたかったのに、おばさんの厚意で、

なんだかハードルが高くなってしまった。沈黙が続くが、このまま

呼び出しておいて何も言わずコーヒーだけ飲んで帰るのでは申し訳ないので、

まだ微妙に残っているお酒の力を借りて、再び口を開いた。


「今日のご飯も、とても美味しかったです。梅酒をいただいたんですけど、

おまかせで、お鍋とかも出してもらって、ずっと体がぽかぽかしてます」


 彼は「そうですか」と頷き、私は、言葉に詰まりながらも

「この前気づいたんですけれど、一基さんの作る料理って、私にとって

特別みたいなんです」と端的に伝えた。


「…特別?…僕よりも父の料理の方が上だと思いますが」


「えっと、どっちが上とかではなくて、一基さんの料理が、特別なんです。

…つらい時、私はあなたの料理に救われたので、どうしてもお礼を

伝えたかったんです。ありがとうございます」


 けれど、一基さんは何も言わずに、コーヒーを見つめていた。

あまりに無反応なため、私は内心動揺しまくっていた。


(もしかして変な人だって思われてるのかな?ただのお客さんのくせに、

こんなこと伝えてきて、気味が悪いって思われてる?)


 そう考えて心が折れそうになったが、この出会いに感謝していることに

嘘や偽りはないので、「いつも美味しいご飯、ありがとうございます」と

深く頭を下げた。


「…こちらこそ、いつも食べに来てくださって、ありがとうございます」


 顔を上げると、彼も頭を下げている。


「ふふ」


 私は嬉しくて笑ってしまい、コーヒーを見つめた。

交わす言葉はほとんどないけれど、なんとなく気持ちを伝えられた気がして、

不思議と幸せな時間だった。




「…どうして特別なんでしょうか」


 彼の問いに、私は顔を上げた。

どこか緊張した様子の彼は、コーヒーを見つめたまま、それ以上何も言わない。


 私は途端に、かあっと顔が熱くなって、慌てて誤魔化すように

「ど、どうしてなんでしょうかね…」と言葉を濁してしまった。


 ちらっと彼の様子を窺うと、目が合った。

なんとなく、この時初めて、一基さんと向き合った気がした。


 彼はハッとしたように目を逸らし、お互いそれ以上は何も言えず、

ただ静かにジャズを聴いていた。




「…土曜日、お時間ありますか」


 不意に、彼はそう尋ねた。驚きながらも、私は何度も頷きながら

「予定何も無いです」と即座に答える。彼は覚悟を決めたかのように頷き、

「では土曜日の昼、店に来てください。一緒に料理を作りましょう」と言った。


 飛び上がりそうなほど嬉しい提案だった。


 心の中では、一基さんと料理をするなんて緊張するけど、それ以上に

とても楽しいだろうという根拠の説明できない、絶対の自信があった。


 けれど、彼は言葉を付け加える。


「…僕の料理は特別ではありませんので、一緒に作れば、

特別ではないことが分かると思います」と、まるで言い訳するように話した。


 そっと、心に暗い影が差すのを感じながら、自分の口が勝手に

「はい」と返事をする。


 その後は、言葉少なく会う時間だけ決めて、

私達はそのまま喫茶店を出て別れた。



 一人になって、帰り道をとぼとぼ歩き、考えたけれど、

彼の提案の意図は分からなかった。


 彼の料理が特別ではないことを証明しよう、私に分からせようということは、

もう店に来てほしくないということだろうか。


 それとも素人が軽々しく特別なんて言うなということだろうか。


 そうだとしたら、とても悲しい。

でも、その意味を尋ねることができなかったのは、物分かりの良いふりを

しようとする、私の悪い癖だった。


 大切だからこそ、怖くて何も言えなくなってしまう自分が居た。


 街灯に照らされたその影を踏むようにして、私は泣かないように、

必死に歩いた。ぽかぽかと温かいままの体とは裏腹に、弱い心は、

彼の一言でひっそりと冷えていった。


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