ある令嬢の怒りとその結果
シェラミナ・ジェーリヌラは22歳、ジェーリヌラ財閥の総帥キミナルの長女である。
ジェーリヌラ財閥は現在ではタイのトップ3の財閥の一つとなっているが、父が25歳の時に総帥の座を継いだ時は、国内に10ある財閥の下位の存在であった。
それを、父が建設関係を主とした主要企業をいささか強引な手段で受注を伸ばすと共に、IT産業にも乗り出して、国内トップの携帯会社を買収、さらには盛んになりかけていた外食産業の大手を買い取るなどして業容を拡大してきた。
この手段は、不良少年〜青年であったキミナルの裏の人脈を生かしての、買収・脅迫、さらに言うことを聞かない者には殺人までを交えたものであった。キミナルは30歳の時に、美貌のトップ女優であった、ラーミラルと結婚して長男のスミラークと長女のシェラミナを設けたのだ。
シェラミナは幸いにして、どちらかというと悪党顔の父に似ず、きつめではあるが、母以上の美人と評されて、社交界の女王としての母と共に、華やかな上流社交界を代表する存在であった。兄、スミラークもシェラミナほどではないものの、やはり母に似てハンサムだが、気が弱く父の言いなりの存在であった。
シェラミナについては、世間では父がミナール王子に押し付けようとしている、という見方をされているが、実際は彼女自身が王子との結婚に執着している。それというのも、極めて自己評価の高い彼女は、自分の結婚相手として様々に品定めをしてきたが、財閥の子弟にめぼしいものはいないと見切りをつけていた。
そこに、出席したパーティに珍しく出席していたミナール王子を見て、その国民に敬愛されている優秀さと優しさ、さらに実際に会っての爽やかさと存在感にほれ込んでしまった。それから、早速王子に群がる令嬢たちをかき分け、王子に近づき傲慢な彼女の普段との行動と全く違って、愛想よく彼に話しかけた。
母娘で、社交界において強面で知られている彼女が出張ってくると、他の令嬢はとても対抗できないと去っていった。このことでミナールも、うるさい女性が居なくなったのにほっとして、それなりにシェラミナに愛想よく話相手になった。
これにシェラミナは、王子は自分に虜になったと勘違いしたが、彼は実際のところは多数の女性に囲まれるより、1人の方が楽だから愛想が良かっただけだ。
ミナールは、そうしたパーティには殆ど出席しないために、シェラミナはその後は彼に会えなかったが、父親に『王子も自分には好意を持っているはずだから』と結婚の打診をするように頼んでいる。キミナルも、娘が王族と結婚することは大きなメリットがあるので、伝手をたどって申し込んだものであった。しかし、それに対する反応もなく時が過ぎていったところに、ミナール王子自身から、二宮さつきとの婚約が突然発表されたのだ。
甘やかされて育った令嬢シェラミナは、そのニュースを見て狂乱した。ジェーリヌラ宮殿とも呼ばれる、広大な屋敷に仕える召使のアカーナイは、お嬢様のシェラミナがテレビでニュースを見るや「嘘よ!そんなの嘘よ!」と叫ぶのを見た。
狂乱した彼女が、テーブルの上にあった灰皿を、大きな液晶画面に投げつけて破壊したのをふるえながら見つめる。その後、ソファに横たわって泣き伏した主人を見ながら、『また、始まった』と思いながら、そろそろと逃げる。
このどうしようもないお嬢様は、一旦こうした狂乱が収まると、近くにいる使用人を鞭で殴りつけるのだ。そのための鞭を備えているのも理解できないが。
『あのミナール王子が、シェラミナお嬢さんのような、どうしようもない女を娶るわけはないわ。いつも、王子様が自分を愛しているなんてことを言っていたけれど、やっぱり彼女の妄想だったのね』
そう思いながら、女主人から隠れるアカーナイであった。
令嬢シェラミナは、ひとしきりの激情がとりあえず収まると、父に訴えた。
「お父様、嘘よ、あれは嘘だわ。たぶん、日本から圧力をかけられたのよ。ミナール殿下はしょうがなくてあの発表をしたのよ。お父さま、あのニノミヤという女を排除する方法はないの?」
キミナルはそれを聞いて、娘の言うことを信じたわけではない。しかし、彼も、ちょうどその日にさつきに処方を拒否され、それに抗議する彼に、日本から来た彼女の護衛が、彼に無礼な言葉を投げつけたのだ。これは、さつきがあらかじめ言ったように、余りにその人間性に問題があるというより、腐臭のするものについては処方を拒否してきた。
その中でもキミナルは極めつきの真っ黒で『こんなのが国の重要人物でタイは大丈夫か?』と思ったものだ。当然さつきは「この人の処方はできません」とタイ側の担当官に英語で言うが、キミナルはそれを聞いて激怒した。
「この、日本人めが、わしを誰だと思っている!」さつきに向けて怒鳴りつける。
「知りません。でも、私は嫌な人は処方をしなくていいという条件でこの仕事をやっています。私はあなたの処方はしません」さつきはキミナルの形相にひるみながらも言い返す。
「この小娘が、許さん!」さつきにつかみかかろうとするキミナルの腕を、木島警務官が抱え手首を決める。「乱暴は止めなさい!」木島の言葉にさらに激高して叫ぶ。
「こいつ、俺が誰だか知っているのか?」しかし、そう叫んだ彼は周りの同国人の冷たい目に気が付いた。中には大物国会議員も苦々しく彼を睨みつけている。それで、腹の中は煮えたぎりながら、出来るだけの威厳を取り繕って会場を引き上げたのだ。
娘の言い分を聞いて、彼は収まりかけた怒りが、再度燃え上がるのを覚え、思わず返事をしていた。「よし、私に任せなさい。彼女は私が処分してあげるよ」
彼は、とっさにいつも使っているルートから依頼して、さつきを物理的に排除する決心をした。いかに無礼なあの女が、あのハヤトの妹でかつ一流の処方士で魔法が使えるといっても、遠距離からの狙撃を防ぐ方法は無いであろう。逆に彼女を罰するには狙撃して殺すしか手はないのだ。
通常の彼であれば、いかに自慢の美しい娘から頼まれたといっても、そのような決断はしなかった。しかし、処方を拒まれ、恥をかかされたという怒りが、彼の押さえを効かなくさせたのだ。
要は甘やかされて育って、その後は人々を金と暴力で脅して世を渡ってきた経験が、彼の怒りの耐性を低くしたといえるであろう。
しかし、父娘にとって残念なことに、さつきはそう簡単に狙撃を受けるようなターゲットではなかった。しかも、彼女は一旦感知した人がいかに行動しても、超感覚で追えるという、ハヤトに準ずる能力を持っていたのだ。
更なる誤算は、エージェントを通して雇った殺し屋が、彼が本当の雇い主であることを知っていた点である。また、何よりの問題は、キミナルは恐れられてはいたが、逆に極めて多数の人々に深く憎まれていたことである。
それが、ミナール王子の熱愛する女性の狙撃未遂という事件を起こしたことで、人々に一線を越える決心をさせる結果になった。なにより、部下である財閥の様々な会社の幹部が、後ろ暗い工作の数々を証拠付きでマスコミに公表し、官憲に訴え出たことが決定的になった。
これらの幹部も無傷ではすまないが、彼らは彼らの上司を恐れてはいたが、同時に恨み、憎んでいたので、さつきの狙撃という暴挙を実行したことで、もう限界だという判断をしたのだ。
部下の彼らは、キミナルが狙撃を命じたことは、かれの過去の言動から事実と明快に信じた。
この告発により、キミナルは直ちにバンコク警察に逮捕された。むろん、キミナルはあらゆる人脈を使って、金を積み、脅しも交えてその防止に動いたが、彼の味方になる者は全くいなかった。
このことで、事後に起こされた数多くの訴訟によって、ジェーリヌラ財閥は、経済的にも崩壊に追い込まれることが明確になっていった。
結局、キミナルは、懲役合計105年の刑を受けて、一生刑務所を出ることができないことが決まった。また、その妻と長女は、2年後には全ての資産を失って、一家のなかで唯一人並の神経であった長男が働いて得た収入で、貧弱なアパートで細々と暮らすことになった。
しかし、娘のシェラミナはそうした生活に耐えられず、65歳のある富豪の囲われ者になったが、その驕慢さと性格の激しさが富豪の怒りを買って、行方が分からなくなってしまった。その富豪からみの怪しい人脈から、彼女は中東に売られたとささやかれている。
結局、彼女が怒りに任せて、父親にさつきの排除を願ったことが、その父と彼女のその後の運命を決めたことになる。
稲田准教授は、講演の翌日には、タイ国政府の集めた専門家に対して、改めて自分の構築したモデルを詳しく説明して、入力の必要なファクターを示し、分野ごとに必要なデータを示した。
集められた専門家達は、皆直接・間接はあっても昨日の講演を聞いており、自らの国を発展させるという使命感に燃えていた。従って、求められるデータを理解するや、全力を尽くして彼らにできるだけの正確なデータ値を算出した。
その結果、1ヵ月を見込んでいたデータ収集が、僅か半月でほぼ完全な値を得ることができ、入力も終了した。
本日は、稲田モデルのタイ王国版が完成して、公開で最初に走らせる日である。会場は産業・経済省の会議室であり、当初稲田の講演はこの部屋で予定されていたのだ。
午後2時の開始時にはすでに150人の政治家、官僚、研究者、在外公館関係者が集まっており、テレビカメラも2台入って実況中継を行っている。
最初に、小太りの、主催者になる産業・経済大臣が中央の演壇から挨拶を行った。
「本日は、お集まりいただきありがとうございます。この稲田モデルのタイ王国版の完成に当たり、稲田先生をこのタイ国にお招きいただいたナーラト・シリカーン国王陛下に、心からのお礼を申し上げるものです。
さて、半月前にここにおられる稲田先生が、簡易版のモデルを走らせることによって、我が国のありうる将来の姿を描いて見せて頂きました。その様子は概ね3千万人の我が国の人々が見たと思われます。それらの人々を中心に、今や我が国の将来に明るいビジョンを持つ人々が圧倒的に多くなりました。
正直に言って、東南アジアの優等生と言われた、我が国の経済情勢は近年明らかに陰りを見せており、どのようにそれを打開するか誰にも解らない状態でした。それを、稲田モデルの簡易版を使ってではありましたが、稲田先生は人々の前に解決策を明快に示していただきました。
その稲田モデルの完成版が本日ここに出来上がり、間もなく稼働を開始しようとしています。その完成に協力いただいた、多くの専門家の方々に感謝致します。
私はもうすぐ完全なモデルが走り始めること、その結果を見ることができること、それを待つことでわくわくする自分の心が抑えきれません。
さて、本日は、稲田先生の招へいを進言して頂いたミナール王子殿下がいらしております。皆さんもご存知のように、殿下は、まだ依然として我が国に数多い、貧しい人々のことをことさらに気にかけて頂いており、その解決策としていわゆるタイ王国経済高度成長が不可欠であるとされております。ミナール殿下にお話をお願いします」
大臣が演壇から降り、ミナール王子が上がった。それだけで拍手が巻き起こり、その、タイ人の中での人気がうかがえる。王子は、その引き締まった顔を緩めて、にこやかである。
「今日は、皆さんがこの席においで頂いたことを感謝いたします。
皆さんは、すでに稲田先生の半月前の講演、私はこの講演は我がタイ国の歴史に残るものと確信していますが、それをお聞きになったことと思います。
あの講演で示された計算結果と、本日の結果は大きくは異ならないということです。従って、本日は実際のところ、その追認にすぎないかもしれません。しかしながら、完成版は今後の我が国の経済運営に、いずれにせよ必要であります。従って、予定の半分の期間で、完成版のためにデータ提供頂いた専門家の皆さんに心からの感謝を申します」
王子は出席している専門家に頭を下げ続ける。「さて、先ほど大臣閣下も触れられていましたが、過去30年以上経済成長を続けてきた我が国ですが、私は、その陰の部分を憂いていました。
それは、主として農村の貧しさであり、そこから逃れてきた人々が、バンコクなどの大都市のいわゆるスラム街に住んで低賃金の労働層を形成していることです。
この解決に際しては、リュームル准教授などとも相談した結果は、結局我が国経済が大きく成長するしかないという結論でした。そのための方策は、実際のところ先日稲田先生が、そのモデルによって示されたものと変わりません。
しかしながら、そのためにどの程度の規模で投資が必要か、どの程度の規模でローンシステムを構築するか、さらに教育のための人材にしてもどの分野で何人必要か、そしてその結果がわかりませんでした。
その意味で、稲田モデルによって、明確に必要な投入資源が算出され、そしてその結果が明らかになる点でこれは偉大なのです。このモデルを提供頂いた稲田先生に感謝いたします」
王子は、今度は稲田に向けて頭を下げて続ける。「私は、稲田モデルによって示された結果は、タイ国において実現されると確信しております。そして、その過程の中で、なかば売られる形で、農村から都会に連れて来られる子供たちが居なくなるように、私自身も会社を立ち上げて、主として農村の貧困問題の解決に当たるつもりです。皆さんも、我が国の陰の部分の解消にご協力をお願いします」拍手の中で、王子は会場の皆に向かって頭を下げて降壇した。
ちなみに、さつきは処方を午前中に済ませて今日は会場に来ている。
司会からアナウンスがあった。「稲田先生のデモストレーションの前に、日本大使からお話をしたいということです。では、鎌田大使お願いします」
「日本大使の鎌田です。本日は本国からの指示もあり、お話をする時間を取らせて頂きました。
さて、ご存知のように、稲田先生のモデル構築と並行して、貴国の皆さんに対する魔法の処方も行われており、すでに我が国の処方士によるお国の処方士の訓練は終えたところです。
従って、訓練が終わったお国の処方士による、若い人々への処方はすでに始まっております。ちなみに、我が国は、アジア・アフリカの国々のこうした処方に責任を負っており、若い世代に対しては、今後2年以内に終える予定であります。
それに並行して、我が国は、こうした国々に対する経済成長プログラムの援助を開始することが先日閣議決定されました。そうです、先日稲田准教授によって示された、貴タイ国における経済高度成長政策と同様なものです。
その意味で、このタイ王国におけるこの政策は、今後始まるプログラムのモデルケースとして位置付けられました。
従いまして、わが日本政府は、貴タイ王国の経済高度成長政策に対して、その資金供与、人材の供与に対して全面的に協力致します。資金に関しては貸し付けになりますが、先日も議論があったように、その経済成長の結果からすれば、まったく無理なく返済は可能と見込んでおります。
さらに加えて、二宮ハヤト氏の資源探査に関して、今現在アフリカ東部で行われている探査が間もなく終了する見込みですので、次の探査はこのタイ王国と周辺各国に決定されました。以上お知らせ致します」
この大使の話に「おお!」「うわあ!」という歓声が沸いた。
これらの、話の後で行われた、稲田モデルの実稼働結果は、殆ど講演の時に行われた結果と変わらず、あまり盛り上がりのないものであった。
これは、条件を成長率平均8%でなく、2035年末のGDPを1兆ドルとしたものであったが、平均成長率が8.1%に変わったのみで投入条件に殆ど差はなかった。
諸事情あり今後、週に2話程度の投稿になります。




