さつきと王子その後
ミナールは両手を挙げて中央に進んで来るので、さつきも合わせて進んで、お互いの両手のグラブと拳を合わせる。そのミナールのグラブは、掴めるようになっているタイプだ。
すぐに、ミナールは肘を曲げて腕を上げて、グラブを顔の両側に構える。さつきは自然体で、ミナール向かって腕を少し広げて構えをとる。ミナールが一歩踏み込んで、さつきの胴を狙って前蹴りを出すが、さつきはふわりと(しかし、観衆から見れば動きは目にも止まらない)右に避ける。
さらに、ミナールは振り上げた足を下し、脛を狙った回し蹴りを放つが、さつきはこれも軽々と避ける。しかし、王子は反対の足でもっと大きく高めに回し蹴りを放ち、それをさつきに後ろに跳んで躱されると、さらに追いながら回し蹴りだ。
さつきはいずれも軽々と避けていくが、だんだんコーナーに追いつめられる。コーナーポストに追いつめられて、逃げ場がないと思った瞬間、さつきは膝を折って、ふわりと跳びあがり、コーナーポストの上に一瞬立つ。
唖然として、高いコーナーポストの上のさつきを見上げているミナールに向かって、さつきは回転しながら彼に向かって飛び込む。そして、1回転の後にかれの首筋を斜めに蹴って、背を丸めてマットの上を転がる。
それは見事で美しい回転蹴りであったが(スロービデオでようやく見える速さ)、その結果としてミナールはあおむけにばったり倒れる。まだ始まって2分と経たないうちの出来事であり、会場から悲鳴が上がる。
審判が、「ダウン!」と叫び、すでに立ちあがっているさつきに向かい、コーナーを指す。さつきはコーナーに向かいながら、『立ってくる』と確信していた。ミナールは蹴りに対して、ぎりぎりで急所を避け、倒れながらも頭を打たないように首の筋肉で持ち上げていた。
はたして、ミナールは、カウントが2つを数える間に蹴られた首筋を押さえながら、上半身を起こして次いで立ち上がる。審判が、差し出したミナールのグラブを掴み、コーナーから出てきたさつきを見て「ファイト!」と叫ぶ。
ミナールの目はらんらんと輝いており、審判が退くと同時に、さつきに向かって飛び掛かりつつ前蹴りを放つ。さつきは横に跳ぶが、さらに前蹴りとともに、ミナールは彼女に向かって腕を振るう。
さすがに、これは避けられず手で払って、ミナールの腕を跳ね上げる。一見細く華奢そうな腕だが、強化されていて強力だ。ミナールは、蹴り出した足で着地し、横跳びにさつきに向かって飛び掛かかり、さつきは前蹴りでその腹をカウンターの形で蹴り上げる。
しかし、腰が入っていないため、強化された腹には応えない。逆に、今度はミナールがさつきの足を捕らえて、ねじり倒そうとすると、片足で立っているさつきは、その力に素直に倒れ込みながら、ミナールのこめかみを蹴りつける。
これも、倒れながらなので威力が小さく、効きはしたが、ミナールがまたも足を抱き込んで倒れ込む。しかし、さつきはミナールの脇腹に強烈な肘を入れると、これは効いてミナールは顔を歪めて、さつきの足を離して片膝をついて立ち上がろうする。
転がって離れたさつきは、素早く立ち上がり走り込んで、ミナールの立ち上がろうとした顔の首筋を、勢いよく蹴り上げる。『今度は決まった!』さつきは思った。果たして、ミナールは蹴りの勢いに体が浮いて、あおむけに倒れる。
「ダウン!」審判が再度さつきをコーナーに追いやり、カウントを開始する。女性の悲鳴が上がる中、カウントが進み「ファイブ!」と言ったとき、ミナールの目がカッと開いて、素早く起き上がる。やや、もうろうとしているが、ミナールの目は輝いており、顔には笑みが浮かんでいる。
さつきはそれを見て、一瞬気押されるのを感じて、ミナールが突進してきたときに反応が遅れて彼の体に巻き込まれた。あっという間に、後ろ向きに押さえ込まれ、ミナールの腕が、素早くさつきの首にまわり締め上げる。
『もういいわ』さつきは、先ほどのミナールの目と表情を思い出しながら、まだ十分耐えられるとは思ったが、静かに彼の腕を叩いた。
審判が叫ぶ。「勝者、ミナール王子!」歓声が沸き上がる。その中で、ミナールはさつきを抱き起こして、顔を向かい合わせてさつきの目を見つめる。さつきは、彼の目を見ていると、感情が高ぶってきて、涙があふれ見ている顔がぼやけるが、目で語る彼の思いに答えて頷く。彼の顔がぱっと笑いに崩れて、彼女をお姫様抱っこして、リングの中を駆け回る。
廻りは拍手と歓声の渦だ。サーシェーナ姫はそれを見ながら、頭を振って呟く。
「やれやれ。なんという、風変わりなプロポーズだろう。私はもう少しムードが欲しいわね」
また、王妃のアーマネルはナーラト王にささやく。
「いいの? 彼女は確かにいい娘だけど、日本の庶民よ。いろいろ問題にならないかしら」
「まあ、ミナールは第2王子だからな。それと、彼女の能力は、へたな財閥の娘などよりよっぽど有用であるし、なによりあのハヤトの唯一の妹だ。
ハヤトという人間は、間違いなく我が国の全軍より強い。さらには、いま世界で画期的な成果をあげつつある資源探査ができる唯一の人間だ。
今後、魔法の処方によって世の中が大きく変わっていくが、我が国も遅れを取らないようにしなければならない。それに、ミナールは我が国の将来に大きな懸念を持っており、何とかいい方向に持って行こうとしている。
その意味では、博士課程で勉強していこうとしている彼女の頭脳と行動力は、ミナールにとって非常に大きな助けになると思う。国内の名門の娘や、海外の王族などより間違いなくミナールにとっても、我が国にとっても有用だと思うよ。わしは賛成だ」
王妃は、それを聞いて王に向かって微笑んで言う。
「わたしもあの子のあの必死さを見ていれば、反対はできないわ。でも、どうも彼女の方があの子より強いようね。あの子、ミナールもそれはわかっているでしょうが」
「ああ、処方をして貰えると、処方する相手の性格も判るようだが、あの娘は大変優しくて思いやりのあるいい性格だ。ミナールは幸せになるだろう」王が締めくくる。
バンコクの日本大使館で、さつきに付き添っていた安田2等書記官が、鎌田日本大使に報告している。
「そういうことで、ミナール殿下が二宮さつきさんにプロポーズのために、試合を申し込みました。その結果殿下が勝ったので、お二人は結婚することになるようです。
色々聞くと、殿下は処方のために日本に行った時に、彼女に会いたかったらしいのです。でも、すれ違いで結局会えず、縁がなかったとしょげていたらしいのです。そこに、今回何と彼女が来るというのを聞いて、『運命だ!』と言っていたらしいです」
鎌田大使は、それを聞いて目を見開いて驚いて言う。「なんと、そんなことになったのか。ミナール王子については、日本人のある女性に熱を上げているというのは聞いていたが、彼女だったのか。しかし殿下の立場なら、いくらでも会いに行けるだろうに」
「いえ、そういうものではないということらしいです。運命に任せるのが正しいのだそうです」
安田が言い、大使が返す。
「うん、結局そうなったがね。しかし、ミナール殿下は良く彼女に勝てたな。確かに、殿下は今のところ、この国では最強だろうが、日本人でも有数の身体能力の強化ができる彼女では基礎の力が違うだろう」
「ええ、私も良くは解らないのですが、最後は彼女が勝ちを譲ったようにも見えましたね」
安田がさらに言って、大使が締めくくる。
「まあ。結果は結果だ。早速本庁に連絡しよう。マスコミに流すのはもう少しはっきりしてからだな。しかし、これがニュースになると、タイもそうだけど、日本でも大騒ぎだね。
ミナール殿下のこの国の人気は、王様より高いと言われるし、二宮さつきさんも日本では何と言っても例の映像の事がある上に、ハヤト氏の妹ということで知名度は高いからね」
その夜、さつきはミナール王子とバンコクの高級レストランで食事を共にしている。王子としてはそのようなところは好みではないが、彼のような有名人が、女性と食事をするには、プライバシーの面で最高級のところに行くしか選択の余地はない。
さつきも、ニノミヤ・カンパニーからの十分な収入があるので、今回の旅には十分な品質のフォーマルな服も持ってきている。今晩は、その一つであるベージュのドレスを着ている。
そのドレスでホテルのロビーに行くと、ちょうど処方士仲間がたむろしており、中の一人が目ざとくさつきを見つけて大きな声で、彼女に話しかける。
「あら、二宮さん、すごいドレスでどこへ行くの?」
「え、ええ、ちょっとお呼ばれで……」
「ああ、今日はそういえば王宮の処方だったわね。すごいな、王族のお呼ばれとは。まあそういうのも大事よね。行ってらっしゃい」彼女はあっさり言う。
さつきがほっとしながら外に出て行くと、言われたとおりのナンバーの黒のベンツが待っている。彼女は、彼女に気が付いて車を降りてドアを開ける運転手に「お出迎えありがとうございます」と感謝の言葉を述べて乗り込む。
「君は、カジュアルな服もいいけど、そんなドレスだと本当に美しいね」人目に付くのを避けるために、レストランで出迎えたミナールの言葉に、さつきは顔を赤らめて返す。
「ありがとう。そう言って頂くと嬉しいわ」個室に落ち着いた2人は、用意された水を飲む。料理を待ちながら、ミナールがさつきに気遣って言う。
「今日は、結構乱暴なことになったけど、特に痛いところなどないの?」
「ええ、強化をかけていたので大丈夫です。殿下は大丈夫でしたか?」さつきが答えるとミナールは応じる。
「ああ、大丈夫。ところで、殿下は止めて欲しいな。ミナールと呼んで欲しい」
つきは、彼を見て言う「わかったわ。じゃあ、ミナール、今日は御招待ありがとうね」
「いやいや、本当はこんなところでなくて、もっと大衆的なところが僕の好みなのだけど、男同士だったらいいのだけど。君を連れてはちょっといけないものね」
やがて、食前酒が来て料理も運ばれてくる。その日の処方について様々な話の後にさつきが聞く。
「ミナールは今のところは、軍人と言ってたわね。今後についてはどう考えているの?」
「うん、いずれにせよ。王族の一人は、軍に入って一定のキャリアを積むのは王家の伝統なんだ。しかし、間もなく僕としては実業の世界に入ろうと思っている。王家の持っている会社もあるからね。 しかし、僕の本当の意味での目標は、この国をもっと豊かにしたい。
このバンコクだけを見ていると、確かにそれなりに豊かな人も多い。しかし、農村に行くと、まだまだ実に貧しい人が多くて、人間らしい生活はできていない。とりわけ、男の子は奴隷のような労働をさせられ、女の子は売春婦に売られるという状況はなんとかしたい。
しかし、僕には方法が解らないんだ。何か方法があれば、何とかしてやってみるのに」
そう言って、髪を掻きむしり、はっとしてさつきの顔を見て謝る。
「ごめん、ごめん、悲観的なことを言って。ホスト側失格だね」
さつきは首を振って言う。「ううん、そんなことはないわ。そういう気持ちというか。問題意識を持つことは大事だと思います」それから、彼の顔を見つめてさらに言う。
「実は、私の大学、千葉国大というのだけど、研究生や若手の先生方が集まって、いろんな問題を話し合う会があるの。その中には経済の准教授もいて、その人が言っていたの。
いわゆる発展途上国にとっては、経済については今から5年が勝負だとね。それは、魔法の処方によって人々の知力が上がってくるその影響を生かすということです。
あなたも知っていると思うけれど、日本では過去5年に処方の進展に沿って、ものすごい速さと広がりで制度や技術の革新が起きました。その結果、わずか5年で4割程のGDP上昇がおきたのよ。このようにGDPが上がったのは、結局技術と制度の革新によって生産性があがったためです。
これは、人々の知力が上がったために、すべての職場で様々な工夫がなされてきました。その中には画期的なものも多かったのよ。
ですから、このタイでも、ここ2年で少なくとも生産人口のほとんどが処方を受けて、知力が大きく増大します。
でも、多分ですけど、悲しいかなこの国には、日本で起きたような、人々の工夫による爆発的な技術革新を受け止める、生産・サービスなど職場の基盤がありません。というより少ないのです。
農業でコメを作っている人々には、その生産の効率を一気に高めることは困難ですよね」
さつきはミナールを見つめる。「う、うん。そうだ。そうなんだ。僕の不安は。人々の知力が上がったとして、それをどう生かすか。それが問題だ。どうしたらいいのだろう?」
ミナールは困った顔をして、すがるようにさつきに尋ねる。
「日本ではかって高度成長期という時期がありました。これは基本的には内需によるものです。メカニズムとしては、貧しい住環境を改善して、その中に様々な機器、テレビ、冷蔵庫、洗濯機さらにはマイカーを持つことで、10年以上も毎年8%以上の経済成長を遂げたのです。
私もこの国に来るにあたっては少し勉強をしましたが、まだまだ、お国の住環境は劣悪です。
でも、逆に言えば、ここには莫大な需要があります。そして、当然その内需に応える産業を育成する段階で更なる成長が期待できます。
その内需に火をつける方法、産業育成の方法などに工夫が要ります。そこで、先ほど言った私の大学の先生は、失礼ですが、タイなどの途上国の、魔法の処方により人々の知力が増強した時に経済発展をするための、処方箋なるものを持っているそうです。
私の話などを聞くより、その先生、稲田准教授のお話を聞くべきだと思います」
さつきが言う言葉に、ミナールは身を乗り出して答える。
「そ、そうだ。そういう話こそ私は聞きたかった。その、稲田准教授を呼べないだろうか。無論、費用などはこちらから出すよ。我が国の経済・産業大臣には少なくとも話を聞かせるよ」
さつきは、時計を見て言う。「そうね。今はまだ、こちらで19時だから、日本では21時、失礼ではないわ。では、直接連絡を取ってみます」
さつきはスマホを取り出して、魔力で必要な番号を呼び出して国際電話をかける。呼び出し音が鳴るところは、以前と変わっていない。30秒もしない内に相手が出る。
「はい、稲田です」
「夜分恐れ入ります、稲田先生。私教育学の二宮さつきです。今タイからなのですが、先生の経済成長の理論について御興味のあるかた、タイ王室のミナール王子が今一緒なのです。お話をしたいということですが、電話を代わってよろしいですか?」
さつきが話をして、相手も戸惑いながら応じる。
「あ、ああ。え!ミナール王子だって、王室?」
「ええ、先ほど先生の、いわゆる途上国における、人々の処方後の経済成長についての持論のお話をしたのです。その結果、大変ご興味を持たれて、そのミナール王子が是非お話を聞きたいということなんです。また、その際にはお国の経済・産業大臣も聞いていただけるということです。では、電話を代わりますよ。いいですか」
結局、ミナールと稲田が直接話をして、次の日曜日に、稲田が助手を連れてタイに来ることになった。




