さつきと王子の出会い
翌朝から、さつきと他の処方士一行は分かれて、さつきは選ばれた中高年の国の要人の処方、他の者は選ばれた若者の処方を行うことになっている。彼ら30人の処方士は、国立グラウンドにある体育館に集まった約3千人に処方と、その後の処方士としての訓練を行うのである。
さつきは、彼女1人で2,500人の処方を行う必要があるため、1日最大の150人を処方する予定であり、最初の日は少ない人数の王族の処方、次の10日で1,500人を終わらせる予定にしている。
残りの人数は、ルンジャーン教授が教鞭を執っているタマサート大学を会場として、同教授と教育関係者への送付した資料の内容の説明を実践の援助をしながら、10日間程度で処方を終わらせる予定になっている。
従って、さつきのタイでの予定は、余裕をみて30日を予定している。王族については、若い者は当然すでに日本を訪れて処方を受けているが、インプレッサーが開発後の再処方は受けていないので、知力増強の処方の効果が中途半端であることが予想されている。
さつきは、護衛の女性警務官である木島と、大使館から派遣された日本人と現地人の2人の職員と一緒に、黒塗りの公用車で王宮の門をくぐる。王宮の壮麗な玄関に横付けに車は止まり、先に大使館の2人が下りて、出迎えの中年の男性に向かって頭を下げながら手を合わせる。
2人の合図でさつきも後部座席から降りて、ゆっくり出迎えの男性に向かって、教わった通り頭を軽く下げながら手を合わせる。その後、出迎えの男性について建物に入り広い廊下を進むと、彼は2人の警備兵が立っている扉の前で止まり、その合図に警備兵の片方が両扉の片方を開く。
そこは広間になっていて、30人近くの人々が立って待っている。案内の男性が、一歩部屋に入った後、一旦深く頭を下げて顔を上げる。それから、正面に立っている、ラフな白っぽい服を着ている初老の小太りの男性に、現地語で何やら語りかけ、英語に切り替えてさつきを指して言う。
「国王陛下、今日皆さんに処方をしていただく、二宮さつき嬢です」
更に彼は、さつきに顔を向けて言う。
「さつき嬢、国王陛下と王族の皆さんにご挨拶を」
さつきも一歩は中に入って、片膝をついて拝礼をして英語で挨拶する。
「国王陛下、また王族の皆さま、二宮さつきと申します。本日は、恐れながら私が、皆さまに魔法の処方をさせて頂きます。少々時間を要しますが午前中には終わる予定ですので、ご容赦ください」
56歳の、現国王ナーラト・シリカーン陛下は、さつきににこやかに挨拶を返す。
「遠路ご苦労様でした。今日は私を含めて28人の王族への魔法の処方をお願いします。まずお立ち下さい」その声に応じて、さつきは立ち上がり国王を見る。
「これは、美しいお嬢さんですね。だいぶ前のものですが、あなたの活躍を画像で見せて頂き、是非お会いしたかったのですよ。あなたは、あの頃もですが、今はさらに輝いていますね。
今日は、あなたが処方をして下さると聞いて楽しみに待っていました。でもこの点は、私もそうですが、次男のミナールはもっと熱心に待っていましたよ」
そう言って、少し下がって控えている青年を指す。青年は、引き締まった体の、日本人からすれば少し浅黒いが、輝く目の精悍な顔立ちであり、軍服のようなラフな服を着ている。青年は数歩進み出て、さつきの前まで歩み寄り、彼女の顔を見てまっすぐ立つ。
身長は160cmあるさつきより15cmほど高い。「ミナールです。現在は軍に属しています。あなたの映像を見て、ひと目で虜になりました。父の言うように、あの映像に比べてもっと美しくなりましたね」そう言って、ほれぼれ彼女を見て言葉を一旦切って続ける。
「実は、私自身は兄上や姉・妹やいとこたちと共にすでに処方は受けています。でも、あなたの処方を受ければ、知力増強の効果が増す可能性が高いというので、今日の処方を楽しみにしていました」そう言い終えた彼は、さつきの目を見ながら、彼女に向かって手を差しだす。綺麗ではあるが鍛えられた手だ。
国王とこの王子の言葉に、さつきは少し顔を赤らめながらも微笑んで、「あの活劇は、私としては黒歴史です。でも、ありがとうございます。今日はよろしくお願いします」そう言って差し出された手をしっかり握る。
このような挨拶で始まったが、まずは、対象の王族の28人皆の魔力を測る。流石にエリートの王族と言うべきか、日本人以外の人々としては高い数値で、例外の一人を除いても平均的には300マリュー程度ある。
なかでも国王は405あり高いが、ミナール王子はもっと高く850マリューもあるので、王子は日本人以外としては例外的と言っていい。
次に、皆に手を広げた程度の間隔程度に立ってもらって、思念を送り始める。
直接思念を受け取れない、中高年の者にはM器官の膜操作をして、思念を受け取れるようにすることで、最初の条件付けができる。さらに、魔力が小さいものにも、知力増強の効果を十全のものにするための、必要な操作をする。
ミナール王子については確認したが、やはり魔力が高いのですでに知力増強の効果は、ほぼ十分であるようだ。つまり、彼については、今日の処方は余り効果がないことになる。しかし、他の彼の兄弟やいとこなど若いもの12人については、知力増強は十分でなく、今日の処方によって数割の増強ができる。
この最初の条件付けは、人数が少ないため、通常1回に100人の処方をする彼女にとっては、1時間もかからず作業を終える。さらに、魔法を感じるところから始めて、魔法の体への巡らし方を教えて、手慣れた手順で、順次簡単な使い方の訓練を行っていく。
やはり人数が少ないので、進行も早く9時30分に始めた処方は昼までには終わるであろう。
訓練の途中で、一旦小休止をした時、ミナール王子からさつきに質問があった。
「さつきさん。私は、どうも今日の処方の効果があったようには思えないのですが。気のせいでしょうか」
「いえ、殿下については、もともと魔力が大きいので、最初の処方で殆ど十分な効果があったようです。ただ、多少の上乗せ、そうですね。2〜3%でしょうか。これが期待できるので無駄ではないと思って、皆さんと一緒に処方を受けて頂いています。
他の方々で、2回目の処方の方は、十分効果はありますよ」
さつきの答えに、彼は笑顔でしゃべりかける。
「そうですか。実は私も日本での処方後、ずいぶん効果があったのは実感していたのです。ですから、これ以上の効果というのはどういうものか、怖いような気もしていたのですが、それでわかりました。
実際、私は身体能力の強化については非常に効果が高くて、我が国にも沢山処方を受けた者がいますが、私が効果としてはトップのようです」
さつきは頷いて言う。「なるほど、そうでしょうね。殿下のマリュー値は日本人の平均程度ですから、たしかに身体能力の強化の効果は高かったでしょうね。それで、知力増強の効果については、今日の処方で、他の方も殿下と同程度になるかと思いますが、処方後はどういう風に感じて来られましたか。他の方の参考におっしゃっていただけますか?」
「そうですね。兄上や姉・妹と比べても効果が高いのは感じていました。まず、日々普通のことをしていても視界というか、考える範囲が広がった感じですね。客観的にすぐに解るのは、書類や本を理解しながら読む速さが、2倍程度でしょうか、大幅に早くなりました。
書類で判断しなくてはならないものについても、十分に考察した上で、ごく短時間で自信のある判断をすることが可能になりました。加えて、それらの知的活動については余裕を持って出来るので、疲れ難くなったことも確かですね。
一面で、口頭で報告を受ける場合に、考えるほうが大幅に速いものですから、ちょっと苦痛な面があります」ミナール王子が答える。
「私も、ミナールと一緒に日本で処方を受けたのだが、ミナールの効果が身体能力も知力も歴然と高かったので、非常にうらやましく思ったよ。しかし、今日のさつきさんからの処方を受けて、知力については明らかに良いように変わったのを感じる。大変ありがたいと思っている」
第1王子のラヌラーシャールが言うが、国王が口をはさむ。
「お前たちは、十分と言えないまでも、処方の効果を既に享受してきたが、余は今日が初めてだ。
身体能力については、これから体を動かして確かめるわけだが、知力増強については、余もすでに視覚というか感覚が広がったということは実感している。魔法の処方というものの効果が非常に高いのはすでに感じているよ」
さつきはそれらの言葉にニッコリ笑って応じる。
「皆さんが、すでに効果を実感しているというのは、良かったですね。さて、次は身体能力強化を実感して頂いて初歩的な訓練を致しましょう」彼女の言葉によって、訓練の後半が始まる。
こうして、午前中で処方は終了したが、若手の王族にさつきが招かれる形で、王宮内の食堂で昼食を取った。すでに日本で処方を受けていた、12人の若手の王族とさつきに、大使館から派遣された日本人の2等書記官が同席している。
さつきは、英語については問題ないので通訳は不要である。やはり、出席者の皆はさつきの5年以上前の、活劇の映像は見ており、その話題が何度もでる。
「さつきさんは、あの時は兄さんのハヤトさんから、格闘技を習っていたということですが、その後は日本の空手か何かをやっているのですか?」
ミナールの妹のサーシェーナが聞くのに、さつきは答える。「ええ、大学に入って、総合格闘技部という部に入って練習はしてきました。総合格闘技はいわゆるマーシャルアーツの一種で、合気道、柔道と空手をミックスしたようなものです。
それを中心に、陸上競技の練習も積んできました。なにしろ、処方を受けて身体能力強化ができるようになると、一日に1時間以上はある程度激しく体を動かさないと、欲求不満になりますから。皆さんもそうじゃありませんか?」
「ええ、私達もその傾向はありますね。でも、なんといってもミナール兄さんが、強化の効果が一番高いせいで、その意味での体を動かすのも一番ですね」
サーシェーナが答え、ニコリとさつきに笑いかけて尋ねる。
「さつきさんは、将来を決めた人はいるのですか?」
「え、私ですか?それがですね。あの映像のために変な風に有名になっちゃって、声をかけてくる人はいるのですが、私としては遠慮したいタイプなので、24歳の今に至るまで、彼氏いない歴です」
さつきは、最も緊張した王族への処方が終わったことと、すこし飲んだワインで気持ちが軽くなっていたこともあって、気楽に正直に答える。
それに対して、サーシェーナが意味ありげに笑いながら言う。
「じゃあ、ミナール兄さんはどうですか?兄さんはさつきさんに夢中で、処方で日本に行った時も会おうとしたようですが、どうしても都合がつかなかったのです。
27歳独身、スポーツ万能、学力優秀、タイ式ボクシングのミドル級の実質的なチャンピオンで、国民のアイドルです。お買い得ですよ」
「え、え!」さつきは冗談でしょうと言おうとして、ミナール王子の顔をみるが、真剣な顔をしている。「え、その……」さつきが詰まっていると、ミナールがニッコリ笑って、さつきに言う。
「どうです。さつきさん。私と賭けをしましょう。さつきさんのその総合格闘技と、私のタイ式ボクシングと。多分、さつきさんの身体能力の強化の方が、私よりレベルが上でしょう。でも私の方の体格が大きい。私が勝ったら、一つだけ、私の言うことを聞いてください」
じっと目を見つめる彼から、先に目を逸らしたのはさつきであった。さつきは混乱しながらも答える。「いいでしょう。でも私も、総合格闘技最強の名に懸けて負けませんよ。おあいこに、私が勝ったら一つ言うことを聞いて頂きましょうか」
ミナールがニッコリ笑って応じる。「もちろんです」こうして、午后は時間が空いているさつきは、2時間ほど時間をおいて、王宮内にあるジムで試合をすることになった。
ミナールが、実質チャンピオンというのは、これも処方を受けたミドル級のプロのチャンピオンに、身体能力強化無しの場合にほぼ互角、強化ありの試合では彼が完勝しているのだ。無論、これはジム内のみの話であり、公にはしていないが。
もっとも、負けたチャンピオン自身が、王子と試合がやれたのが光栄と言いふらして、タイ人で知らない人はいないという状態になっている。
一方のさつきは、総合格闘技の全国大会の、身体能力強化無しの女子の部でチャンピオンであり、強化ありでは男女含めてチャンピオンである。
彼女はさらには、強化ありの陸上競技で、女子の100m走7秒8と、高跳び3m98cmの日本記録を持っている。ちなみに男子の記録は、無論ハヤトであり、100m5秒5、高跳び5m35cmであり、加えて一度走ったフルマラソンでは45分45秒の記録を打ち立てた。
ハヤトを別にして、日本の男子の記録は流石にさつきを上回っている。
試合は、王宮内に作られた、ジム内のリングで行われた。通常は、柔道場のような、樹脂製の畳の上で試合をしているさつきにとっては、慣れない試合場であるが、身体能力強化ありであれば自信はある。
日本ではキックボクシングとして、一時期ブームであったタイ式ボクシングは、粘っこい絡み合いと、強力な蹴りとパンチがある世界でも最強の格闘技の一つである。もっと重いクラスもあるが、実力から言えば、実質的にミドル級が最強であろう。つまり、現時点ではミナール王子はタイ式ボクシング最強ということになる。
王子はむろん上半身裸で、長めのトランクスを穿いて、グラブを着けており、さつきはホテルに帰って持ってきた総合格闘技の試合着で、素手であり、白の空手着のような胴着の下にはTシャツを着ている。
午前中の処方を受けた王族のみならず、宮殿の主だったものも集まってきたので見物人は50人以上もリングの周囲の椅子に座って見物している。
『えらいことになったなあ。多分勝てると思うけど、ぼこぼこにやっつける訳にもいかないわね。どうしようかな』リングに立ったさつきは、マットの感触を確かめながら、どう闘うか迷っている。
一方のミナールは、胴着姿のさつきに見惚れていたが、はっと気が付いて、頬を張って気を引き締めた。『いかん、簡単に勝てる相手ではない。おそらく、速さ、筋力では負けるだろう。必死で戦うしかない』
やがて、審判を務める体育教師が「レディ!」声で、2人とも身体の強化を行い、審判の合図でゴングが鳴った。




