ニンゲンニナリタイ
初めて書きました。見苦しいかもしれませんが、読んで下さるとありがたいです。実話です。「場面緘黙」と言う病を知って欲しいです。
暗闇の中のトンネルからなかなか脱け出せない、これは、場面緘黙の人生の話し。優子は幼稚園の時から、家族以外の人間とは全く話せなかった。幼稚園。それは幼い優子にとって、決して楽しい場所ではなかった。同世代の子達はお友達と楽しく遊び、先生と遊び、人生で初めての社会生活を送る。
普通の人は、人と会話が出来て当たり前だが、優子は何故かわからないが、全く会話が出来なかった。声を出したくても出ない。言いたいことも言えない。極度の緊張で体が固まる。なんとなく人が、皆恐い。でも一方、家に帰ると家族にはべらべら、リラックスして話していた。自分でも、なぜこうなのかわからなかった。
そばにいてくれる友人は少数はいた。でも周りの人間には変に思われたのだろう。気の強いクラスメートからは、からかわれる事もあった。一人の女の子から木に身体を縛りつけられ、一人の男の子を呼んで、輪ゴムを手で弾いて自分が的みたいにされた。先生が気づいたので慌てて助けてくれた。
年長生になったある日、昼食の時間、いつものように輪になって食べていると、優子は緊張からか、牛乳をこぼしてしまった。
すると、周りの子達が、優子がこぼした牛乳を一緒に拭いてくれた。先生もその場にいて、皆で拭き終わったので、先生が「優子ちゃん、ありがとうって言って。」と言ったが、優子は言えなかった。すると後で先生から呼び出され、二人きりになって、優子の巾着に入った空の弁当箱をとりあげ、何度も何度も殴られた。「何でありがとうも言わないのよ、言いなさい。」と、狂った様に殴った先生は、ただでさえ人が恐い優子には、幼稚園の先生が自分を殴るとは、ありがとうの一言を言わなかっただけなのに、ただただ恐ろしく、恐怖でしかなかった。
家に帰ると、緊張からは開放されたが、母親からは毎日毎日、幼稚園では一言も話していない事を、突き詰められた。無言の幼稚園生活から帰ると、母親に責められる毎日。物を投げられたり、蹴られたりもした。幼稚園の時の母親は恐かった。父親は、自分も子供の頃に大人しかったので、優しかった。でも、愛情はあるが、子供と会話する父親ではなく、優子には心が休まる場所はなかった。
親戚や知り合いにも、心がえぐられる様に、責められたりした。「何でしゃべらんとね。」「あ。って言って。」とか。何も話さない変な子供だったのだろう。笑ってバカにされた。
そして小学校に上がると、授業で当てられたり、音読があるが、優子は当てられても、音読も、無言でしかいれなかった。無言のまま、しばらく時間が経って、先生や周りの生徒にも迷惑をかけた。音読の授業や、当てられる授業では、死ぬほどの緊張と動悸で声が出なかった。休み時間もほとんど一人で過ごす事が多かった。給食も、食べるのに時間がかかった。昼休みの時間になっても食べていた。
クラスメートに、休み時間に、トイレで軽く突き飛ばされた事もあった。また、高学年~中学1年まで、何回も上履きを隠されていた。何回も何回も。画ビョウが入っていた事もあった。そんなに優子の事を恨む人物も思いつかなかった。でも、犯人は一番近くにいた友人だった。証拠はなかったが、その人以外は誰も考えられなかった。優子の一番近くにいながら、本当は嫌いで、困る顔を見たかったのだろうか。人間は裏と表があって、信じられないな。と思った。その友達は、色んな嘘がバレて、結局グループからは仲間外れにされた。
学校では全く話せなかった。でも、部活動で、友達は何人かいて、その人達とは親しい友達関係にはなった。一言も話さない、首でうん、か、いいえ、のジェスチャーをするだけの優子と仲良くしてくれた。しかし、中学二年の終りぐらいから、仲良くしてくれたそのグループから、外された。1~2年何も話さない優子に、嫌気が差したのだろう。そして独りぼっちになった。
授業でも相変わらず、当てられても話せなかった。優子の居場所は家だけだった。家族の前だけでは、リラックスできて、べらべら話せた。家だけが安らげる場所だった。でも、他人や親戚が家に来ると、緊張して、とたんに無言になっていた。
高校生になると、少し話せるようになった。自分からは、なかなか話せなかったが、話しかけられて、返せるようにはなった。優子は、中学の時に、高校生になったら思いきって今までの自分を変えようと、優子の中で、大きく決意していた。
でも、授業で当てられると、話せなかった。しかし徐々に話せるようになった。高校生活は、優子の人生で、初めて、暗闇のトンネルから少し光が差したような生活だった。大声は出せなくても、人と話せると言うことは、優子にとっては本当に嬉しかった。周りの人のようには、会話を続けることは出来なかったが、少し友達もできた。
そして短大生になった。寮に入って、友達もできた。少しは話せるので、楽しかった。友達と深夜まで話をしたり、部屋で一緒に寝たりして、優子は友達の、人の温かみを初めて味わった。それこそ、普通の人達みたいには話せなかったが、楽しかった。
しかし、社会人になると、数ヶ月しか仕事が続かず、何回も辞めてしまった。緊張して、頭が真っ白になって、頭が回らなくなる。人前では、言いたいことも言えない事が多かった。職場の同僚に何か言われても、緊張で忘れる事も多かった。挨拶すら、声を絞り出しても、相手に聞こえづらいようだった。優子の体は毎日、極度の緊張でガダガタだった。
こんな状態で仕事が続くはずもなく、クビになって辞めたり、注意されると、自分を責め、何もかも嫌になり、勝手に辞めたりした。ついに家に引きこもるようになった。
毎日死にたくなった。何年かして、しばらくして、また仕事を始めたが、午前中だけの仕事だった。そこは1年半は勤めた。頑張ったが体はガタガタだった。
そして何年か過ぎ、今に至る。この優子は私だが、今も暗闇のトンネルから脱け出せない。時間だけが過ぎ、周りは幸せな人生を歩んでいる。
人と普通に会話をし、仕事をし、友人もいて、恋人もいて、結婚もして、子供もいて、平凡な人生がとても羨ましい。
「場面緘黙」と言う病だとは何年か前に知ったが、世界中に同じように苦しんでる人がいる。この病の苦しい所は、話したくても声が出せないので、人に相談もできないし、人にも理解されない。そして精神科に行っても理解してくれる医者も少ない。そして、あまり治った人が少ない。言いたいことも言えないので、ストレスが溜まる。会話もできないので仕事も務まらない。
人前では、極度の緊張で体の動きも止まる。本人もどうしていいのかわからないし、周りもどうしていいのかわからない。人それぞれだと思うが、私は幼い頃から人が怖かった。家族とだけは、普通に話せた。世の中には、今も暗闇のトンネルの中から脱け出せない人達、悩んでいる人達もたくさんいらっしゃるので、元気な人は、そんなかわいそうな人達の事も考えて欲しいです。
決して、親の育て方ではありません。今まで、たくさん誤解された事も、この病気の悔しい所です。「場面緘黙」と言う病を、一人でも多くの人に知ってほしくて、書きました。もし、私のように、話せない人がいたら、絶対に責めないで下さい。本人も辛いんです。
最後まで、読んで頂いて、本当にありがとうございました。