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老いらくの恋

作者: 山中幸盛

 小早川桜子は結婚願望が希薄なせいもあって、四十二歳の現在に到るまで独身だ。その最大の要因は、三十歳の頃に好きになってしまった妻子ある二十歳年上の男性と、未だに不倫関係にあるからだ。

 しかし、そのカレは今、奥さんと一人娘と三人でヨーロッパ旅行に行っている。そのため、普段はどうにか抑え込んでいる嫉妬心がメラメラと炎上している最中だ。

 そんな中、職場の退職者送別会があった。酒が進んで大いに盛り上がり、皆が席を立って入り乱れる中を、桜子もビール瓶を片手に定年退職する部長の前に進み出る。

「長い間、ご苦労さまでした」 

「ありがとう」

 コップに注がれたビールを半分ほど一息に呷り、さほど酔っているふうに見えない部長がボソリと言った。

「もしよかったら、この後、コーヒーでも飲みに行かない?」

 この男の場合は若い頃に離婚し、プレイボーイの名を馳せてきたから、どんな女に対しても礼儀として声を掛けるのだろうが、それにしても、還暦を過ぎているのに、この男のナニはまだ役に立っているのだろうか。

 というのも、このスケベ男より二歳年上のカレは最近、急激にナニの膨張率が低下してきたのだ。そのことは桜子よりもカレの方が気にしていて、精力増強に役立ちそうなドリンクやサプリメントなどを色々試しているようだ。

 桜子は腹を決めていた。『カレは妻と旅行に行っている』と考えると気が狂いそうになる自分をなだめるため、やむを得ぬ対抗措置として、このスケベ男に協力してもらうのだ。

 桜子は甘えた声で言った

「コーヒーより、おいしいワインが飲みたいですう」

 がぜん、男の目が輝いた。

「行きつけの店があるから、そこに案内するよ」

「主役なのに、二次会に行かなくていいんですか?」

「なあに、送別会は飲み会の口実だから、少しカンパしてやれば大喜びで見送ってくれるよ。君は?」

「お開きになったらサッサとここを出て、Mビルの近くでお電話待ってます」

 桜子は携帯電話の番号を記したメモを差し出した。


 その店で三杯目のワインを飲みながら、桜子は酔い潰れたふりをして、ろれつの回らない口調で言った。

「部長、還暦を過ぎているのに、まだ現役なんですかあ?」

 部長は鼻の下を伸ばし、いい気になって胸を張る。

「まあね」

 桜子は相談を持ちかける。

「私のカレは部長より若いのに、最近めっきり衰えてきてるんです。赤マムシドリンクも効き目ないし」

「そんなものより、もっといい物がある。このあとつきあってくれたら、少し分けてあげるけど」

「なあんだ、部長もやっぱり薬のお世話になってるんだ」

「こればっかりはね。しかし、不能でも子種は作られるから、そこが男のジレンマなんだよ。ま、論より証拠といこう」

 部長はポケットからViagraの二十錠入りの箱を取り出し、封を切って、青色の錠剤を一粒、コップの水で飲み下す。

「これ、病院で処方してもらったから一粒千四百円もするんだぞ。さあ、千四百円をドブに捨てないために、これから実証検分に行こうじゃないか」

「そんなの、ほんとに効き目あるんですかあ」

 と桜子は脳天気な口調で同意した。


 男はそこから徒歩で五分ほどの場所にあるラブホテルまで桜子をいざなったが、さすがにViagraの効果は絶大で、男のナニはそびえ立ったままで桜子に休息を与えない。あまりに身の程を弁えていないので、もしかしたらこの薬を使うのは初めてではないのか、と危惧していたら、四度目の最中に、突然、「うっ」と唸って動作を止め、桜子の上にドサリと倒れ込んできた。白目をむき口は半開きで呼吸をしていない。

「だから言わんこっちゃない」

 桜子は男の重い体を乱暴に押しのけ、ふらつく足取りで男の上着のポケットから残りの十九錠を箱ごといただいて自分のハンドバッグに収める。そして心臓マッサージだが、新人研修のときに教わっただけだから思い出すのが大変だ。

 男を仰向けに転がし、胸の中央で手を重ね、体重を乗せて早いテンポで絶え間なく三十回圧迫する。そして人工呼吸は一秒かけて息を吹き込み、五秒に一回を二度やって、そしてまた心臓マッサージ。これを三度繰り返し、息を吹き込んだところで男が咳き込み、大きく息をし始めた。やれやれ、これで面倒なことにならずに済む。

 桜子は男の耳元で恩着せがましく言った。

「心臓マッサージと、人工呼吸で、生き返ったんですよ」

 男は呼吸を整え、息絶え絶えに応じた。

「腹上死、する、ところ、だったか」

「そうです。私は命の恩人です」

「恩に着るよ。しかし、トシには勝てんなあ」

「いーえ、のど元過ぎれば死にかけた事なんかすぐに忘れてしまいますよ。その時はまた、薬、分けて下さいね」

 桜子のことばに驚いて男は桜子の顔を凝視した。桜子はベッドから下りて言った。

「シャワー浴びてきますね。薬はいただきましたから」

 男はわが耳を疑い、桜子に問いかけた。

「いつの間に? 全然気づかなかったけど」

「部長が息を吹き返してすぐです。重労働だったんで箱ごといただきました」

 桜子はニッコリ微笑み、ウィンクして浴室に向かった。この男はやがて、桜子が自分の命よりViagraの方を優先させたと確信し、恐れおののいて桜子との接触を避けることになるかもしれない。しかし、Viagra欲しさにその都度寝てやるわけにもいかないので、それは桜子の望むところだ。

 一方で、Viagra一箱くらい進呈しても、この男が決して損はしていないことを桜子は知っている。ずっと昔の何かの宴会の席で、花街相場で指名制の『三万五千円』は高いだとか安いだとかと、酔い潰れたモテナイ男どもが情報交換し合っているところを小耳に挟んだことがあるからだ。シロウトで美人で肌がツルツルでナイスボディの桜子をたった三万五千円ぽっちで抱けるわけがないではないか。


 桜子が衣服を身につけ髪を整えたというのに、男はまだベッドに横たわったまま天井をぼんやり見つめている。声を掛けるのも億劫なので、ソファーに座りテレビのリモコンで洋楽専門チャンネルを探すと、ビートルズがどこかのライブでレット・イット・ビーを演奏している。

 やっと、男が上半身を起こし、真顔で聞いてきた。

「小早川君は、ビートルズ知ってるの?」

 桜子は適当に答える

「はい。父がファンだったみたいで、家にあったCDはほとんど聴きました」

「そうか、ボクはどちらかといえばローリング・ストーンズ派でね。といっても君たち世代にはわからないだろうけど」

「はい」

 とだけ応えて桜子は口をつぐむ。この上ローリング・ストーンズの講釈が始まったらたまったもんじゃない、もう用が済んだので早く帰りたい一心なのだ。

 この男はスケベだがバカではないらしく、桜子のそんな気持ちを察したようで、メタボ腹を揺らしながら浴室に向かった。呆れたことに、Viagraの効能は未だ持続していて、一度死にかけたというのに男のナニは萎れずに左右に揺れている。恐るべし、巨大市場がもたらした新薬開発製造技術。桜子は一日でも早くカレに会って、この奇跡の薬品を試してもらいたいと期待をふくらませる。

 始発まで時間があるからそれまでファーストフードレストランで何か食べようと男に誘われたが、岐阜県境近くに住むこの男と違って桜子の住むマンションはタクシーで二千円もかからない距離なので、駅の近くで男と別れた。男が一人淋しく何を食べようが知ったことではない。桜子は一刻も早く自分のベッドで横になって、男に責め抜かれた身体をゆっくり休ませてやりたかったのだ。


 カレと会うことになったのは、カレがヨーロッパ旅行から戻って二週間後のことだった。いつものように魚釣りに行く服装で現れたカレを、桜子は睨みつけながら出迎える。

「旅行は楽しかった?」

「だから、イヤイヤ仕方なく行ったんだって言ってるだろ」

「娘さんには甘いもんね」

 聴く耳を持たない夫に業を煮やし、妻が娘をたきつけたあげくの旅行なのだ、というカレの言い訳はたぶん本当のことだろう。妻がもともとセックスに淡泊だったのが不倫の最大の原因だと言っているくらいだから。

 カレは桜子との交際を始めると、妻に怪しまれぬようセックスの回数を徐々に減らしていき、五年ほど前からは皆無になったと申告している。さりげなく「年のせいか興味がなくなってきた」とウソをついたところ、妻は渡りに舟のような顔をしていた、とのことだ。

 このことは、桜子がカレ以外の男と寝たことに対する罪悪感を薄めている。桜子と交際を始めてからのカレだって、妻としゃあしゃあと寝ていたのだから、おあいこどころか、回数からいくとまだ貸しがあるくらいだ。

 行きつけのホテルのソファーに座ってすぐに、桜子はViagraの箱をカレの前に差し出した。

「何、これ?」

「効果抜群のお薬よ」

「これがViagraかあ。どこで手に入れたの?」

「祐子がくれた。あなたが最近気にし出したって話したら、もういらなくなったからあげるって」

 村松祐子というのは桜子の高校時代からの友人で、夫婦とも名古屋市内の中学校で教員をしている。桜子とは別の大学に進んだこともあって数年間全く会わなかった時期があるし、マメにスマホで連絡を取り合うという仲でもないが、会えば本音で語り合うことのできる唯一の親友だった。

「祐子さんのご主人はまだ五十前じゃなかった? もういらなくなったって、どういうこと?」

 桜子にぬかりはない。予めネットで調べておいたので、嘘がバレないように淡々と説明する。

「去年の十二月にトイレが近くなって、ご主人のお父さんが前立腺がんでトイレが近くなったことを思い出したので、検査を受けてみたらやっぱりがんだったんだって」

「それでViagraがいらなくなったってこと?」

「そもそもが、前立腺がんだったから障害が起きて、それで薬に頼ることになったみたい」

「今、ご主人は元気なの?」

「普通に生活はできてるんだけど、前立腺を摘出しちゃったからそれどころじゃないって」

「薬も役に立たないってこと?」

「祐子が言うには、ゼロに何をかけてもゼロでしょ、だって」

 カレは同情をこめて言った。

「まだ若いのになあ。ボクの場合はトシのせいだろうけど、念のため検査を受けてみるか」

「血液検査でわかるみたいよ」

 カレはうなずき、Viagraの箱を開いて、十九錠残っていることを確かめる。

「この薬の効き目もジェネリックがネットで安く手に入ることも聞いてるけど、いずれにせよ家内にバレルから手が出せないんだよ」

「病院だと、一粒千四百円もするんだって」

「ヒエー、それで効き目がなかったら詐欺だな」

「個人差があるらしいから、ケンちゃんには全然効かないかもよ」

「では、生体実験してみるか」

 カレは慎重にViagraを一錠取り出し、コンビニで買ってきたペットボトルのコーヒーで飲み下す。

「どのくらいで効果が出るんだろ?」

「そこまでは聞いてないけど」

「空きっ腹だから、三十分もあれば効果が出るかもな。とりあえず、腹ごしらえをしよう」

 このラブホテルに来る途中でコンビニに寄って、食糧と飲み物は十分に調達してきた。交際を始めてからの習慣だが、ほとんどのラブホテルが、朝8時から夕方4時までのサービスタイム制をやっているので実にありがたい。

 桜子はアパートで独り暮らしなのでホテル代を浮かせるという選択肢がないでもないが、シーツが汚れるので洗濯せねばならないし、何より近所の目があるので、カレをアパートに招いたことは一度もない。

 最初にデートした日に、奥さんから限られた小遣いしかもらっていないことを白状させたので、桜子の方から申し出てすべての費用をワリカンでやってきた。食事もドライブの高速代もラブホテルの料金も。だからこそ、これまで奥さんに怪しまれずに済んできたのだ。

 服用した結果、カレにとってもViagraの効き目は抜群だった。ということは、残り全部が無くなった時、カレはいよいよViagraをどこかで調達せねばならなくなった、ということになる。つまりそのことは、カレではなく桜子の方がなんとかせねばならないということだ。病院に行けば保険組合から年に一度確認の書類が送られてくるし、ネットで買っても現物が自宅に送られてくるからだ。その点、独り住まいの桜子が買えば何ら問題は無い。

「一度ジェネリックを試してみる?」

「釣り仲間の一人がネットで買ってて、副作用もないみたいだから、今度店の名前を聞いておくよ」

 カレは妻に気づかれぬよう念には念を入れて、ラブホテルよりも釣りに行く回数の方を若干多めにしてきている。

「ネットは怖いけど」

「何年も前から利用しているサイトがあるらしいから、たぶんそこなら大丈夫だ」


 桜子がシャワーを浴びるために浴室に行き、コックを回そうとすると、どこからか微かに女性の声がした。見ると窓が少し開いているので、外から入って来た声らしい。「アアーッ」と悩ましい声が聞こえてくる。

 ホテルの壁は厚いので隣室の声が聞こえたことはこれまで一度もないが、おそらく隣室の浴室の窓も開いていて、しかも隣人は浴室の床にマットを敷き、さぞや派手な変態プレイをしているにちがいない。

 好奇心にかられ、桜子は窓の下まで行って耳をそばだてると、「アアーッ、アーッ、アアアアーッ」と絶叫する声が立て続けに聞こえてきた。カレが言うには、桜子も我知らず声を張り上げているようだが、たぶん、この女には負ける。


 カレと次に落ち合う日時と場所を決め、時間ギリギリになってから部屋を出て帰り専用エレベーターに向かおうとすると、隣室のドアが開いて中年のカップルが出てきて鉢合わせになった。『絶叫婦人』は慌てて男性の背後に隠れたが、一瞬垣間見えた横顔からすると五十代後半くらいだった。

 彼らが足を止めたので先にエレベーターに乗ると、カレはポカンと開けていた口を閉じ、そして言った。

「さっきの女は、間違いなくボクの家内だ」 



 


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