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第七話・「窮鼠猫を噛む」

 痛みのあまり風呂場から飛び出した俺は、爆発した痛覚をもてあましてフロントの前を通り、今いる場所が傭兵になるという契約を交わした食卓であることも分らずに、脇目もふらず激痛と共に迷走する。


「あれ〜? 今、ムス太ちゃん〜……? きゃうっ!?」


 ティアナのおっとりとした声を通り抜けた。どうやら、スカートの下を通り抜けてしまったらしい。気のせいか水色と白のストライプ柄が視界をかすめたような気がする。


 ……というか、お前まで俺をムス太と呼ぶのか……。


 ま、それはそれとして。ティアナよ、身体(特に胸、言い換えればバスト)は大人のくせに、身につけているものは以外と子供チックなのだな……ふむ、そういうギャップは嫌いではないぞ。誰とは言わないが、体も心も子供のキズナに比べれば何倍にも増して……おっと、誰とは言わないぞ、余計な詮索は無用――ってそんな場合ではないいたいいいいいっ!?


 一秒にも満たない間だけ、欲望が痛みに勝ったわけだが、結果としてまたすぐに痛みに取って代わられた。


 燃える。なにって、しっぽが燃える。ちぎれたようにさえ感じる。それぐらいに痛い。

 痛い痛いアツイ痛いイタイ痛い熱い痛い熱い痛いいたいいいいいっ!


「どうしたのでしょう? あんなに慌てて……。まるでうっかりしっぽを踏みつけられた痛みに我を失ってしまったようです〜」


 悪いがその通りだ!


 燃え上がるようなしっぽの痛みを冷やそうと、飛び込んだのは証明の落とされた調理場だった。

 蛇口は残念ながら開くことは出来ない。ハムスターの力ではさすがに無力なのだ。

 なので、調理台の冷えた鉄板を利用して、しっぽを冷やすことにする。我ながら名案だ。



 ――が、その『名案』が数秒後『明暗』を分けることになるのを、このときの俺は知るよしもなかった。



 真っ暗闇の中、最大跳躍。


「ふ〜っ、ふ〜っ」


 ひんやりとした鉄板にしっぽを密着させ、その上から息を吹きかける。

 冷たくすることで感覚を麻痺させる。熱いものを触ったときに、とっさに耳たぶを触ってしまうという習性をしみじみと考えながら、俺は引いていく痛みに大きく息を吐いた。あまりの過酷な運動に身体をぐったりとさせる。まさにまないたの鯉が如く、調理台の上でうつぶせになっていた。

 それぐらいに疲れた。


「イリスめ……いつまでも俺が優しい顔をしていると思うなよ」


 お腹を大きく上下させて、身体に最大限の酸素を送り込む。痛みの引いたしっぽを顔の前まで持ってくると、俺は真っ赤に腫れ上がってしまっているしっぽを優しくさすった。

 ぴりぴりとした痛みが残っていて、腫れはすぐには引いていきそうにはなかった。


 目をつぶり、ひんやりとした鉄板の感触に身を任せていると、調理場にぶら下げられているフライパンとお玉のぶつかる金属音が、真っ暗闇の調理場に響いた。


「……」


 目を開けて、周囲を見る。

 ティアナかと思ったが、そうではないらしい。案の定、ティアナは調理場にはおらず、すれ違ったときと同じ食卓にいた。

 テーブルを拭き終わったのか、ティアナの足音が、ボロの床がきしむ音と重なって遠ざかっていく。



 ……気のせいか……? 



 今度は反対側から、ビンの転がる音がした。目をこらすと、調味料が転がっている。俺は仰向けの体勢から急いで身を起こす。

 何者かが動く気配がしたからだ。

 だが、気配はすぐに消え去った。


 何者かが調理場にいて、気配を絶った。

 気配を絶つこと……それは偶然や、気まぐれでそうするのではない。

 気配を消す理由があって消したのだ。


 明らかに何者かは俺の存在に気がついている。そして、現在進行形で俺を捕捉している。


 ――確実に狙われている。


 全身の神経を研ぎ澄ます。耳を逆立て、ありとあらゆる音を拾う。水道の口からしたたる雫の音。わずかに動く大気の揺れ。込められる殺気にすら音に変換する。

 もはや、しっぽの痛みは完全に消え去った。

 集中力は痛みを消す。

 闇に紛れた暗殺者が何者かは分らない。敵は今、この膠着状態を利用して、俺という獲物に対し、タイミングをうかがっている。

 舌なめずりをし、爪を研ぐ。

 迎えるのは緊張の絶頂。

 言い換えるならば、狩りの刻。


 またたく赤光。

 張り詰めた糸が切れる。

 殺気が爆発し、空気が揺れた。


 俺は身をひるがえす。

 今し方俺のいた場所は、鋭い三又の武器によって切り裂かれていた。俺の脳裏によぎるのは、俺の身体から吹き出る血潮。戦慄が、俺の身体から汗を噴き出させる。


 ……やはり、コイツか!


「ニャ、ニャ〜ン(避けるとはなかなかやるニャン)」


 ……【猫】。

 俺の最大最強の天敵。


 黒き悪魔は、舌なめずりをし、その鋭利な獲物を誇らしげに見せつける。右手の爪をぺろりとなめると、今度は左手にも爪を出現させる。世の中はだまされている。

 猫かわいいー、猫かわいい〜、などと言って頬をゆるませ、鼻を伸ばす。

 ぬこだの、萌えだのと言って愛称を付け、愛玩化する。

 愚かな人間はこいつらを手放しでもてはやすが、それはだまされている。

 その証拠に、こいつらは慈悲もなく狡猾。それでいて惚れ惚れするくらいに俊敏で……残忍だ。


 俺の視界から猫が消える。俺は視認する余裕を無くし、調理場から躍り出た。


 ――そうですね〜、昨日なんて調理中、お魚を持って行かれちゃいました〜


 今更ながらに、ティアナの言葉を思い出すが、すでに動き出してしまったときの中では無意味だ。

 人の気配の無くなった食卓を駆け抜ける。テーブルの下を疾走。背後を振り返れば猫はいない。そうそう簡単にあきらめてくれる奴とは思えないが……。


 テーブル下を抜けようというとき、猫が真上から襲いかかってきた。


「テ、テーブルの上からだとっ!?」


 俺が調理場から逃げ出すのをあらかじめ予期していたとしか思えないタイミング。俺の視界から消え、さらには上を取った。テーブルに上がる瞬間を見逃していた俺にとっては、致命的な隙であった。

 俺は何とかその場を転がることで、最初の爪をやり過ごす。

 床には三条の傷が走った。

 猫は眼球の動きだけで起き上がった俺を捕らえ、間髪入れずに左の爪での一撃に移行する。

 俺の腹に赤みが走った。床と同じ三つの線。

 時間に遅れて、にじんでくる血。

 意思さえも引き裂くような猫の酷薄な眼孔に、俺は生きた心地がしない。


「ニャア〜(あっけないニャ〜)」


 コイツ、笑ってやがる……!


 俺は黒き暗殺者と相対しながら、頬袋を汗が伝っていくのが理解できた。猫はゆっくりと、俺との間合いを計ってくる。確実に獲物をしとめられる位置へと移動しつつある。しなやかな身体の中には、必殺の瞬間のために蓄積されていく力が見えた。


「ニャ(ニヤリ)」


 余裕からだろうか、目を細め、俺の出方をうかがっているようだ。

 自らの優位性と圧倒的な力の差を知っているからこそ出来る圧倒的な勝利への構想。俺はその構想を打ち壊す算段すら出来ずに、口内にたまった唾液を飲込むしかない。


 ……いや、駄目だ。あきらめるには早すぎる。

 何か他に出来ることは。

 攻撃力、耐久力、スピード、どれも目の前の天敵には及ばない。


「……これは最後の手段として取っておきたかったんだがな……!」


 不敵に笑ってみせる。猫はそんな俺の笑いに疑問を感じたのか、わずかに顔をかしげる。


「窮鼠猫を噛む――その言葉の本当の意味を……教えてやる!」


 ハムスターの俺がなぜキズナの師匠としていられるのか。

 なぜキズナを助けるなどと大口を聞くことが出来るのか。

 その理由を今明かそう……!



「……ハム太……!」



 飛び出す青い影。

 イリスがバスタオル一枚のまま俺の前に立ちふさがった。長い髪の毛の先から、雫がしたたっている。

 ほのかに香る石けんの香り。ピンク色に染まった肌と、立ち上る水蒸気。どうやら、お風呂上がりに慌てて駆けつけたようだ。使命感を帯びた紺碧の瞳が、黒き暗殺者をにらみ付ける。


「ウニャ〜ン(余計な邪魔が入ったニャ)」


「ハム太……私が守るの」


 自らの柔肌が傷つくことも厭わず、全身で俺の盾になろうとする。


 ……なんというか、ジンときた。キズナにも見習わせたい。


「ニャン、ニャウ(この勝負、預けるニャ)」


 猫は鋭い爪をしまい、調理場へ音もなく駆け出していった。

 まるで闇に紛れるように、その姿は一瞬でかき消える。


 俺は噴き出した汗の冷たさを今更ながらに思い出し、その場にぐったりと突っ伏す。床にだらしなくあごをつけた状態で、自らの心臓がまだ動いていることを確認する。


 嗚呼、生きているって素晴らしい。


「ハム太……大丈夫?」


 巻いただけのバスタオルが、どういう原理かギリギリのところでギリギリのものが見えないように引っかかっている。イリスはそれを直そうともせずに俺を抱きかかえると、優しく抱きしめてくる。

 香ってくるイリスの甘い匂いは、瑞々しい果実のよう。白き柔肌は見せつけるように水分をはじき返し、その滑らかさを強調している。抱きしめられている胸元は、意外や意外、まな板などではなく、ふっくらとした感触を感じられた。押したら跳ね返す。そんな当たり目でありながらも若さが誇る弾力性とやらが、最大の魅力を持って俺の身体を襲ってきた。


 むむむむ……お前は着やせするタイプだったのか、イリス。


「ハム太……大丈夫?」


 同じ言葉を繰り返すと、抱きしめる胸元から俺を話す。

 ……少々、名残惜しい。


「……」


 じっと見つめてくる。何かを詮索するような瞳の色だ。

 何か嫌な予感がする。


「…………窮鼠猫を噛む」


 どきり。

 ラピスラズリような瞳の深遠さに、俺は飲込まれそうになった。


「……その言葉の……本当の意味……」


 どきどきっ。

 まさか、まさか……聞かれていたっ……!? 

 ぬうう……俺としたことが……俺としたことがっ……!?

 どうする!? どうする、どうする、リニオ!?


 俺のパニックをあざ笑うかのように、イリスは嬉しそうな表情で、小首をかしげた。


「…………教えて?」


「あら、イリスちゃん? そんなところでどうしたの〜?」


 戸締まりをしていたティアナが、タオル一枚のイリスを見て目を丸くしていた。


「姉さん……っ、くしゅん!」


「もう、イリスちゃんったら〜、風邪を引いちゃうほどムス太ちゃんと遊びたいの〜?」


「うん……私、ムス太……好き」


「うふふ、イリスちゃんったら大胆〜」


「うん……大胆」


 姉であるティアナに対して、無表情でVサイン。ティアナはそんな無表情の妹に慣れているせいか、笑顔のままで口に手を当てて笑っていた。


 これは……ごまかしきれたのか……?


 結果オーライとしか言えないが、とにかく急場はしのげたということにしておこう。

 と、言うことで――


 ハムスターの俺がなぜキズナの師匠としていられるのか。

 なぜキズナを助けるなどと大口を聞くことが出来るのか。

 その理由は、機会がきたら、明かすことにしよう。





 ……そして、機会は、キズナのせいで思ったよりも早く訪れる。


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