第四話・「……よほど欲に目がくらんだのね」
「れおぽるどぺらん? 何それ? 食べ物?」
食後の紅茶を味わうこともなく飲み干すキズナが、初めて他国語を習う素人のようにティアナの告白をオウム返しにした。
「いいえ、レオポルド・ペランは人間です。彼は食べられませんよ」
語尾を伸ばすこともなく、落ち込んだ気分で言葉を吐き出す。
俺の観察の結果、気分が良いときでないと、語尾は伸びないらしいことが判明した。
蛇足だが、胸の大きさはキズナの六まわり上であるということも分った。テーブルに腕をのせながら話しているだけなのに、その有り余る柔和な脂質はテーブルの上に乗ってしまっている。
ふむ……キズナにも分けてやりたい。
「彼は、この町を裏の法律と言っても過言ではない権力者なのです」
「……そう……ペランが右と言ったら右。……左と言ったら左。これは……絶対なの」
「ふ〜ん、なんかむかつく奴ね。世の中自分の思い通りになると思っているような奴って、いなさそうで必ずいるのよね。まるで食べ物があると寄ってくる茶色の甲殻虫みたい」
キズナ、お前は一度自分というものを見つめ直した方が良いと思う。でなければ、自分探しの旅に出ろ。ふっ、我ながら、ナイスなアイディアだ。
そう思わないか、キズナ?
足を組んでふんぞり返るキズナに、心の中で問いかける。
「でも、それと今日ティアナが襲われていたことってなんの関係があるのよ? 何かそいつの気に触るようなことでもしたの?」
考え込み、少しの間をおいて馬鹿にするような顔つきでティアナをのぞき込む。
「あ、ぺらんぺらんとか言って馬鹿にしたんでしょ? 馬鹿ねー、ティアナは」
ティアナはそんなことはしない。するとしたら、お前だけだぞ。
「……姉さんは、そんなこと言わない。言うとしたら、キズナだけ」
小さな声で姉をかばうイリス。お、なかなか気が合うな。
いらだつキズナに俺の足場が危うくなる。俺はキズナの組んだ足の上でうとうとしかけていた。組み直される足の上で睡魔に襲われている俺が悪いのだが。
俺はうとうと天国と決別し、キズナの組んだ足の上からテーブルに飛び乗る。
キズナの近くは危ないかもしれないので、イリスの方に駆け寄る。イリスはそんな俺に気がつくと、無表情を少しだけ笑みに変えて、そっと手のひらを差し出してくる。
……どうやら、乗ってこいということらしい。
「私とイリスちゃんは、義理の姉妹なんです」
今更の告白だな。そんなものは、胸の大きさを見れば分ることだ。
「悔しいけど、そんなの胸の大きさを見れば分ることよ」
……俺は今、無性に後悔している。まさか、お前と同レベルな発言をしてしまうとは。この偉大なる俺が、お前の馬鹿さ加減に感化されてしまったということなのか。
「……おいで、ムス太」
俺は失意の後押しのせいか、半ばうなだれるようにイリスの手のひらに上で丸くなる。イリスはそんな俺を愛おしそうに見つめると、細く小さな指で俺の頬を撫でてくる。
「……眠い? ……つんつん……ふふ、かわいい……」
おい、イリス、俺は少し眠いのだ。そっとして欲しいところだが……まぁ、その無垢な瞳に応えなければいけないだろう。これも大人のつとめというやつだ。俺の寛大さに感謝するんだな。
「この宿屋……【旅人の止まり木】は、身寄りのない私を育ててくれた、おじいさんとおばあさんが経営していたものです。私とイリスちゃんは孤児なんです。私がここで働かせてもらうようになって、五年目にイリスちゃんがやってきたんです」
キズナが一気飲みした紅茶が無くなっているのを目につけ、会話の間を告ぐようにティアナはティーポットから紅茶を注いでいく。柔らかい香りが、食後のテーブルを彩っていく。
「おじいさんとおばあさん、私とイリスちゃん、とても幸せでした。おじいさんとおばあさんが亡くなって、私がこの宿屋を継いでからも、何とか貧しいながらも頑張ってきたんです。私に幸せを教えてくれたおじいさんとおばあさん……お二人に報いたかったんです。お二人にいただいた幸せを、救っていただいたこの命をかけて。でも、それが出来なくなってしまった」
「過去形なわけね」
「はい……」
注ぎ終わったティーカップの中では、悲しげなティアナの顔が紅茶に反射していた。ティーポットから落ちた最後の一滴が、ティーカップに波紋を広げる。
「……ムス太、ムス太」
なんだ、イリス。俺は今日は色々あって疲れているのだ。いい加減に眠らせろ。つついてくるイリスの指を、俺がしっぽではじく……という作業が、しばらく繰り返される。
「なら……奥の手」
ごそごそ、という何かを探る音が、目をつぶった俺の隣から聞こえてくる。
「……これは……なんでしょう」
イリスが空いている左手で何かをつまんで俺に差し出してくる。俺は香ってくるかぐわしい香りにたまらず目を開けていた。
……ん? ……おおっ! これはっ!?
驚天動地な魅惑のラインを称えつつも、決して肥大化することなく、太陽の光を浴びて健康的に育ち、なおかつ左右対称、中身がぎっしり詰まった高品質かつ艶やかなひまわりの種ではないかっ!
俺は一瞬のうちに目が覚めてしまっていた。
「ムス太……欲しいの?」
俺は手を伸ばす。
……だが、寸前のところでイリスがひまわりの種をお預けにした。
む……どういうつもりだ、イリス。
「はい……ムス太」
そうそう、素直によこせばいいものを……どれどれ……。
「…………(ひょい)」
またしても種をつかむ寸前に遠ざかる。むむ……。
「ふふ……」
悪戯な笑みを浮かべているイリス。それは天使のように愛らしく、馬鹿な大人ならばころりとだまされてしまいそうな笑みだった。瑠璃色の瞳に、悪戯心の灯火がともる。瞳の色と同じ長い髪が楽しそうに揺れている。
……コイツ、俺を挑発しているな?
イリスがゆっくりひまわりの種を近付けてくる。
なめるな。ここは一時的に興味のない振りをして、あきらめたところを背後から一気に急襲してやる。題して、だるまさんが転んだ大作戦だ。
「……ムス太ー……種だよー……」
押して駄目なら引いてみろ。個人の偉大なる教えを実践するのだ。
「……むぅ……いらないの……?」
悲しげな声が俺を包み込む。そろそろか……? ひまわりの種の気配が遠ざかっていく。
「……いらないなら、しまう」
あきらめたような気勢。今だっ! チャンスは今しかないっ!
種を気にならない風を装っていたのを一変させて、狂気の瞳でダッシュにかかる。
――種っ! たあああああねええええっ!
「ふ……」
イリスの瞳がきらりと光る。俺はそこに敗北を悟った。
しかし、敗北するからと言って、今更引き下がれない。兵士は戦うものを指す言葉。たとえ自軍が劣勢であろうとも、敗北が必至になろうとも、兵士は戦うことが宿命なのだ。戦わない兵士は兵士ではない。戦うからこそ兵士として存在できる。いわば戦闘こそがアイデンティティー。
逃走という行為を忘れたバーサーカー、それが今の俺だ。
そこに敵がいる。愛したい者(ひまわりの種)がいる。
戦う理由はそれで十分だ。
それ以外に、何がいる?
否、何もいらない!
背後から種を捕捉、後ろ足の筋力を最大限にまで高め、跳躍。俺は宙を舞い、腕を最大限に伸ばす。もう少しだ。もう少しで届く。だが、可憐な乙女の皮をかぶった小悪魔は、ぎりぎりのところで種を遠ざける。種の表面をかすめるだけに終わった俺の指は、恍惚の残滓を残して空を切った。
……むむむ……貴様、このリニオを愚弄する気か!? 許さん……許さんぞ、イリス!
俺は空を切った体勢のまま、イリスの手のひらに着地する。そのまま、ひまわりの種の行方を探る。いまだ左手の指先にひまわりの種がある。対して俺は右の手のひら。その距離で、俺からひまわりの種を奪われないとでも思ったか? だとしたら、甘いな。
俺は、後ろ足二本立ちの体勢から、フリーだった両腕を地面に着く体勢へ。
知っているか? ハムスターは四足歩行なんだぜ?
前足と後ろ足。膂力、加速力はこれで二倍と化した。俺はイリスの右の手のひらを駆け、手首を通り、さらに速度を上げる。半袖のメイド服が近付いてくる。腕を駆け上り、肩へ。イリスがくすぐったそうにしているが、それはこの際どうでもいい。
イリスの肌から立ち上る小悪魔のように心をつかむ香りに頭がくらくらしてくるが、俺はそんな誘惑には乗ったりしない。それが大人というものだ。
首元にたどり着くとロングヘアーが目の前を塞いでいる。俺は瑠璃色の滝に突っ込むとそのまま純白のうなじを突っ切り、反対側の滝を突き出る。
左肩にさしかかるが油断はしない。
勝利の余韻というものを、戦いの途中で味わおうとすることは、敗北に等しい。現実の戦いに勝利宣言などないのだから。誰かが勝利と言ってくれるわけでもない。たとえ勝利したとしても、それは戦士……兵士? ……もう、どっちでもいい。とにかく戦士にとっては、勝利は次なる勝利までのスタートにすぎない。
余韻を味わうのは二流。
そうだ、戦士には勝利も敗北もない。
戦い続けることがアイデンティティーなのだから!
左手も半ばにさしかかったところで、俺は最後の跳躍のために後ろ足に最大限の負荷をかける。たわむ筋肉。俺は戦場(イリスの身体)を駆ける疾風になる。
身体を取り巻く風の音に視界がかすみ始めたとき、それは起こった。
左手にあったはずのひまわりの種が、今度は右手に移動していたのだ。
俺は驚愕する。何が起こったのか、少ない時間の中での判断を余儀なくされる。
導き出した答えは簡単だった。
纏っていた風を、身体を反転させることで捨て去り、元来た道程を最高速で引き返す。うなじを通り、右手へ引き返す。来た道を引き返した時間は、行きにかかった時間の半分。俺だからこそ出来る、まさに神業だった。
しかし、二度の驚愕に、俺は戦慄さえも覚えた。
ひまわりの種が、右手から左手へ、瞬間移動して居るではないか。それが二度三度と続き、さすがの俺も少しずつではあるが体力を消耗しつつある。本来ならば、消耗は漠然とした不安や、絶望を生み出す。
……が、俺は逆に失った体力を、ある感情が補填するのが分った。
自分を突き動かそうとするのが分かった。
あえて一言で言おう、プライドだ。
……やるな、イリス……ならば俺も最大限の称賛を持って応えよう……。
この根比べ、貴様は最後まで追いついてこられるかっ!
「何を遊んでるの、あの馬鹿は?」
「うふふ……お二人とも楽しそうです〜」
「あんなの、ただひまわりの種を右手から左手に持ち替えているだけじゃない」
「ぐるぐるぐるぐる……まるでメビウスの輪ですね〜」
「それすら気がつかないって……よほど欲に目がくらんだのね」
「ニンジンをぶら下げられた馬って感じですね〜」
「その例え、なかなかやるわね」
「うふ、ありがとうございます〜」
「……これで私の師匠って言うんだから、嫌になっちゃうわよ……」
「師匠……ですか?」
「あ、なんでもないのよ、なんでも。それより……んぐんぐ……ぷはっ! ほら、紅茶無くなったわよ」
俺が何十回という往復運動に疲れ、遺憾ながら痛み分け宣言を心の中でしていると、ちょうどティアナがキズナに紅茶をついでいるところだった。
イリスが満足そうに俺を見てくる。
いいか、俺が遊んでやったんだぞ、それを忘れるな。決して遊ばれていたわけではないからな。
そこが大事だからな、勘違いするんじゃないぞ!
「話、途中になったけど……ペランに目がつけられる原因……一体あんた達二人に何があったの?」
俺は安息の地を求めて、イリスの頭のてっぺんにたどり着く。メイドらしい白いカチューシャに背を預けて、深く息を吐く。イリスのカチューシャから見える風景には、紅茶を無下に一気飲みするキズナ。
「私ではないんです、原因は。……原因は――」
キズナの視線が俺をとらえたように見えたが、違う。俺を見ているように思えたのは、イリスを見ているからだ。俺がイリスの頭の上にいたから、俺は勘違いをしたのだった。
「イリスね?」
「はい」
和やかな陽気だった食後の団欒が、曇り空に覆われる。
「イリスちゃんは……【恩寵者】なんです」
……イリスがあの【恩寵者】だと?
俺に頭を貸す美少女は、うなずくこともなく、感情をあらわにすることもなく、ただ無表情で座すばかり。
俺と遊んでいたときのかすかな笑顔は、嘘のように消え去っていた。