エピローグ
痛々しい傷をさらしながら【鶺鴒】を構えるキズナを、肌から立ち上る闘争心で受け止めるヘイデン。
俺はハムスターの身体に戻っており、イリスの頭の上でその様子を見ていた。
丘の上、早朝の涼やかな風が平等に四人の頬を撫でていった。
「イリス……どう思う?」
頭上から問う。
「……キズナは、他にコミュニケーションの手段を知らないの」
「悲しい人間だな」
「うん……私もそう思うの」
「聞こえてるわよ、アンタ達……!」
キズナがにらみつけてくる中で、俺とイリスは目を合わせてやれやれと首を振った。
「やるのか? やらないのか?」
ヘイデンは腰に帯刀した【朱雀】に左手で触れながら、右の眉をぴくりと上げる。
「……やめるわ。言っておくけど、臆病風に吹かれたとかそういうのじゃないんだからね?」
【鶺鴒】をヒップバックにつっこむキズナ。それを見たヘイデンも、手をだらりと下げて、闘争心を霧散させた。
「お主が臆病風に吹かれるところを、一度で良いから見てみたいものだな。青龍を打ち倒す人間など、聞いたことがない」
ヘイデンは【鶺鴒】が切り裂いた丘の切断面を眺めて、感嘆の息を漏らす。
昨夜の戦いで、俺は【鶺鴒】のAMRを解除した。最後の魔力を費やした長大な一撃は、青龍の首を切り落としたにとどまらず、丘の半分をも両断した。
「あれは、アイツが――……なんでもないわ」
俺をちらりと見て、歯がみする。
「さて、戦わないというならいつまでもここにいる必要はないな」
「やけにあっさりしてるじゃない」
「右腕がないというのは、思っていた以上に負担を強いるものだ」
失った右腕に巻かれた包帯を見せてくる。
「残念だが……このまま戦ったところで、お主には勝てぬだろう。一から見直さねばなるまい、我が剣術を。……その前に、新たなるスポンサーも探さねば、飯にもありつけぬ。この年で無職だけは勘弁願いたいところなのでな」
太い眉を崩して豪快に笑った。
そそり立つ石壁のような、ごつごつした背中を向けて丘を降りていく。
「傭兵のつらいところだな。ペラン亡き今、そこまでして戦う理由はないということか」
「身につまされる話よね」
「身につまされる話だぞ」
「身につまされる話なの」
ごめんなさい。俺たち全員無職です。
「……だが、ハムスターは元々無職だ。愛玩動物はどちらかというと与えられる側なのだ。俺を愛し、至れり尽くすがいい」
「……うん、健やかなときも、病めるときも、豊かなるときも、貧しきときも、ムス……リニオを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命の限り、固く節操を守ることを約束するの」
頭上にいた俺を手のひらに移し、宣誓してくるイリス。
……だが、その宣誓は何か特別な他意を感じるようで少し怖いぞ。
「お前は素直でよろしい……が、今のままのお前では俺の満足する女には到底及ばない」
手のひらの上で腕組みし、鼻を鳴らす。
「俺は色気のある大人の女が好みなのだ。出るところは出、引っ込むところは引っ込む。上から下まで平板では駄目だぞ」
「うん……頑張る」
「お前はまず胸を大きくするのだ」
「うん……頑張る」
「背も大きい方がいいな」
「うん……頑張る」
「……イリス、お前はどこの誰かと違い本当に素直だな。どこの誰かに見習わせたいくらいだ、どこの誰かに」
横目に見れば、どこの誰かの血管がすごいことになっていた。
「……私、素直。……素直な恋人なの」
「いや、恋人ではない」
「……恋人なの」
「断じて違う」
「……恋人……なの……っ!」
「い、痛い痛い痛いっ!? 身体が潰れるっ!? おいイリス! 手の力を抜くのだ! おおうっ! 何かよからぬものがはみ出てしまうっ!?」
握り合わされた両手の中でじたばたする俺を、馬鹿弟子は乱暴にイリスの手から奪い取る。
「スプラッタはやめなさいよ」
息も絶え絶えになった俺を胸ポケットに放り込む。
「む……キズナ、夫を返して」
キズナに手を伸ばすイリス。
「アンタが甘やかすからこうなるのよ」
「お、俺のせいなのか……?」
「リニオ……ひまわりの種なの」
「ひゃっほう!」
「このくそネズミ!」
歓声を上げながら胸ポケットから飛び出す俺を、キズナががっちりとつかむ。
「油断も隙もあったもんじゃないわ……イリス、舌打ちするんじゃないわよ」
「はっ! ……俺は一体何を……」
意識を取り戻す。
ひまわりの種……なんて恐ろしい魅力!
「それよりもイリス、アンタは無職じゃないでしょ? 全焼したとはいえ【旅人の止まり木】はどうするの?」
「……」
わだかまっていた明るい雰囲気を、丘の風が残らず連れ去っていた。
イリスは表情もなく、無言のまま、丘からの町の眺望を視界に納めていく。
「……ティアナの優しさは……偽りだったのかも知れないけど……それでも優しさだったような気がするの」
青龍の付けた傷跡があちこちに見える。
半焼、全焼、半壊、全壊……それを免れた家の方が数少ない。
「私は……ティアナに感謝しなきゃなの」
【旅人の止まり木】の跡地に向かって語りかける。
「アンタ馬鹿じゃないの?」
あきれ果てて、ため息を吐くキズナ。
理解できないとばかりに肩をすくめる。
「……だからと言って、ここで今まで通りには……きっと生きていけない……そんな都合よくなれないの。だから……私はこの町を出て生きていくの。私が暮らしてきた【旅人の止まり木】とは……さよならするの」
「それは逃げじゃないの?」
キズナの顔が引き締まる。
イリスは町を見下ろしたまま首を横に振った。
「ううん……逃げじゃない。……旅立ちなの。【寵愛者】として本当の自分の役割を見つける旅の始まり……」
イリスの決意に、キズナは引き締めた顔の筋肉を弛緩させた。満足したようにイリスの横に並び、同じ町の風景を眺める。
「ま、確かにそうね。【寵愛者】であることを無かったことにして、今まで通り宿屋を続けようなんて無理。自分がそうしたくてもきっと周りがそうさせない。それが力を持って生まれた人間の宿命なのよ。それに……周囲の目も違うだろうしね。二度と同じような目では見てくれないわ」
「……うん」
古の精霊……青龍。それは国一つを揺るがすに足る力だ。
個人意志の自由が許される範疇の話ではない。
「来る者は拒まず、去る者は追わず。一緒に行くか行かないかはアンタの自由よ」
「いいの……?」
キズナを見、俺を見るイリス。
紺碧の瞳の奥では、戸惑いと期待が揺れ動いている。
「お前の自由だ、イリス」
「行く……一緒に行くの」
張りのある声が、風を押し返す。
「そうと決まったらさっさと行くわよ。次の町でこの服修繕しなきゃ」
ぼろぼろになった服をつまむと、町に背を向けるキズナ。
おい、感慨に浸らせる時間ぐらい与えてやったらどうだ。長年暮らした町との別れなのだぞ。
俺がキズナにもの申そうと、口を開きかける。
「……さよなら、なの」
そこには、町に向かってぺこりと深くお辞儀をするイリスがいた。たっぷりと十秒を費やして頭を上げると、振り切るようにぱたぱたと駆けてきて、キズナの横に並ぶ。
「そういえば、俺の身体はここでも見つからなかったな……。いつになったら、あの美しい肢体に戻れるのだろうか……」
かつてあった自分の身体に思いを馳せる。
「鬱陶しい死体?」
「そうそう、さっさと土に還った方がいい……って、おい! そこな馬鹿弟子、わざと間違えただろう」
「……リニオは、ずっとハムスターでいて欲しい」
「そうね、アンタは一生ムス太のほうがいいわよ」
「ムス太、かわいいから好き」
ムス太と呼ぶな、無礼者。
「そして、そのほうが世の中にとって、百害あっても二利ぐらいはあるし」
そっぽを向くキズナ。
「……二利? かわいいのは一利……もう一つは?」
イリスが首をかしげる。
「そうね……少なくとも……わ、私の師匠でいてくれるぐらいの……利も、あるから……」
「む……」
嬉しくなどない。嬉しくなど無いぞ。
「キズナ、顔赤い」
「夕焼けのせいよ」
「今は朝だぞ」
「朝焼けよ!」
「……でも昼にも近いの」
「日焼けよ!」
「訳が分からん」
【恩寵者】と【寵愛者】が並んで歩く。
今後俺たちに降りかかる災いは増えるばかりだろう。
丘を抜ける涼風と静けさの向こうに待つ嵐を予感する。
俺は、お前達に何もしてやれていないのかもいれない。
俺は、本当に、本当に駄目で、矮小で、哀れで、どうしようもない存在なのかもしれない。救いがたい存在なのかも知れない。
……どうか許して欲しい。いや、許さなくてもいい。きっと許されるはずなどないのだから。
そう、俺は馬鹿だ。大馬鹿なのだ。愚か者なのだ。
でも……でも俺は……。
キズナ、イリス。
――そんなお前達が、自分と同じぐらい好きなんだ。
《終わり》