第三十五話・「イリス」
脳みそまで焼けるような灼熱。
キズナのなめらかな肌も、二つに結わえた栗色の髪の毛も、消滅していくだろう。無詠唱魔法で構築した薄紙のような防壁が、青龍の放つ青の奔流に簡単に浸食されていく。
俺は魔力の波に飲み込まれた。ただそれだけがはっきりと分かっていた。
ふむ……キズナには悪いことをしてしまった。
お前の身体を借りていたというのに、お前の身体を失ってしまう結果になったのだから……。
だが、キズナよ、ハムスターの身体というのも存外快適なものだぞ。
お前にもそれが分かる日が来ると良いのだが……。
目をつぶろうとする俺の視界を影がよぎる。白い魔法文字が青龍の口内で広がり、つぶされそうになっていた俺の無詠唱魔法の後方に、さらなる防壁が築かれる。
「あきらめるには早いぞ! 【恩寵者】!」
剛胆な声が俺の鼓膜を直撃した。現れたのは、厚い胸板と、二メートルはあろうかという巨躯だ。
躍動する筋肉男が、ぼろぼろの身体でにやりと口の端をつり上げる。
「ヘイデン!」
スーツの胸ポケットには大層ご立腹なハムスター。
「……と、おまけ」
「誰がおまけよっ!」
問答無用、ヘイデンは左腕で俺の襟首をぐいと引っ張ると、先ほど俺がキズナにしたように青龍の口内から放り出した。
ヘイデンもそれに続いて青龍の口から飛び出してくる。青龍の口から吐き出される魔力は、俺たちのコンマ一秒前にいたところを消滅させていく。
「【恩寵者】キズナよ!」
ヘイデンの身体から放出される真っ白な魔法文字が、青龍へと流れ込んでいく。
「私の魔力では刀は振るえぬ! それゆえ、お主にこれを預けるぞ!」
一足早く落下していくヘイデンが、残った右腕で【朱雀】を投げてよこす。
「……イリスが待ってるわよ」
キズナがヘイデンのポケットで寂しそうにつぶやく声に重なって、俺は【朱雀】をがっちりとつかみ取った。
ふむ、色々なものを受け取った気がする。
……やらねばなるまい。
「イリスよ……俺をここまで手こずらせた女はお前が初めてだぞ」
青龍をにらみつけ、身体に残った残り全ての魔力を爆発させる。
右手に【鶺鴒】。
左手に【朱雀】。
両方の魔法刀に魔力を込め、青白い刀身を顕現させる。
さらにペランの邸宅跡から生える魔法の木を鳴動させた。
巨木に燃え移った劫火が、葉に燃え広がり、まるで紅葉のように世界に散っていく超常的な光景。
炎の落葉。
そこから伸びる一本の太い枝。同時に、キズナの身体から吹き上がる魔法文字。大小様々な魔法文字が狂喜乱舞し、身体の隅々から吹き出す。
魔力を羽のように身体に従わせながら枝に着地、俺は青龍を――イリスを見据える。
「よく見ておけよ、キズナ。魔法刀にはこういう使い方もあるのだ」
魔法刀は、魔力を加えれば、道具の方が勝手に刀身を制御してくれる。
魔力を一定に保つ自動魔力制御装置。通称AMR。
その制御を自動制御ではなく、手動制御する。
「リミッター……解除だ」
AMRを解除した魔法刀が、際限なく魔力を吸収していく。
刀身は激しく太く揺れ動き、魔力を盛大に垂れ流しにする。
俺は二振りの魔法刀を構えて、一本の枝を疾走する。
青龍までの……イリスまでの一本道。
俺は駆ける、最大速で。青龍は高らかに咆吼し、無詠唱魔法を手当たり次第に放ち出す。赤い球体が青龍の周囲に滞空し、まるで弾幕を張るかのごとく光線を放ち出す。
目の前は真っ赤な豪雨。その一つ一つが殺人級だ。
遠く、背後では、魔法の木はその大部分が霧散し始めている。もう維持するだけの魔力はない。
青龍の炎に焼かれた木、それに対抗するだけの魔力など、この世の誰も持ち合わせてはいない。
枝がきしみ始める。
まだだ、まだ折れるには早すぎる。
「イリス! 聞こえるだろう!」
近づいてくる青龍の頭上には、人形のように立ちすくむイリスの姿。
意識はない。破壊の限りを尽くす青龍に支配されてしまっているのだろう。
だが、声は確かに聞こえた。
あのとき聞こえた声は、イリスの深層からの声に違いない。
「寂しさは誰にでもあるものだ! 寂しさのない者などこの世にはいない!」
寂しさ、その言葉にイリスの肩が再び震える。
「過去のことも!」
深い闇をたたえていた蒼い瞳は、鮮やかさを取り戻し、一心に俺を見つめる。
「ティアナのことも!」
青龍が近づいてくる俺をとらえた。冷酷な眼光で俺を見据える。
「つらいことも、寂しいことも、たくさんある! 今までも、これからも!」
赤い弾幕が、俺の身体をかすめていく。
頬をかすめ、髪の毛を燃やした。
太ももを突き抜け、腹部を焦がす。
「だからこそ!」
激痛に歯を食いしばる。止血に魔力を割くことはできなかった。
もう、そんな魔力は残っていない。
今は最後の最後のためだけに。
俺はのどをからして、イリスの胸のドアを叩く。
「寂しかったら寂しいと言え! 俺がそばにいてやる!」
暗い部屋に閉じこもったイリスの心を。
「悲しかったら悲しいと言え! 俺が嬉しさに変えてやる!」
ドアを必死に叩いて、話しかけて。
「泣きたかったら泣いてもいい! 俺が涙を拭ってやる!」
青龍が猛り狂う。口腔を最大限にあけて、魔力の光を収束させる。
「痛かったら痛がっていい! 俺が傷を癒してやる!」
イリス、扉を開けてくれ。
「お前の全部を――俺が抱きしめてやる!」
青龍がのどの奥から膨大な魔力を放出した。
「――だめええええええええええっ!」
イリスの叫びに青龍の動きが緩慢になる。
吐きだされた魔力の溶岩は少ない。
イリスの叫びに青龍が戸惑ったのだろうか。冷酷な龍の瞳が微かにかげる。
――ここだ。
俺は全力を振り絞って【朱雀】にあふれさせた魔力を解放する。