第二十九話・「キズナ……俺は限界のようだ」
俺は震える足に拳を打ち付け叱咤する。
動かなければ確実に灰になる。精霊、青龍は無差別に無詠唱魔法を繰り出し続け、ペランの屋敷は瞬く間に炎に覆われた。
炎はまるで餌に群がる肉食獣の如く、屋敷に真っ赤な牙を突き立て続ける。
崩れ落ちる天井。
割れる窓。
吹き飛ぶ壁。
倒れる柱。
ぐずぐすしているとあっと言う間に瓦礫の下だ。
俺は崩れてきた天井と炎に鋼糸を走らせ、直撃を免れる。この身体で出来る最大限で、何とか命をこの世に繋ぎ止める。
見れば、ペランとティアナが地面に倒れ伏している。二人とも苦しそうに身体をかきむしっていた。
炎に焼かれているわけでも、煙にまかれているわけでもないのにどういうわけか。
俺が流れる汗を飛び散らせながら、思考に気を取られそうになったとき、それは襲ってきた。
身体の中から生命が抜かれていく感覚。
かわりに冷徹な何かが体中に浸透していって五感を消失させる、いかんともしがたい感覚。
死の匂いがした気がした。
俺は足かせでもされたように鈍重になる身体に足を引っ張られて、崩れてきた破片に頭を打ち付けてもんどり打つ。額から流れ落ちる血液で世界は赤に染まった。なおも身体は何かを失い続ける。体温さえも吸い取られていくような感じがした。
「……こ、これは……魔力を……吸い取っているのか……?」
広大な裏庭に火柱を打ち立てる神々しい精霊をにらみ付ける。
青龍は長大な身をうねらせて、手当たり次第に無詠唱魔法をほとばしらせている。
尾は地面を裂き、叫びは大地を震わせ、波動は瓦礫を吹き飛ばした。
大小様々な魔法文字が、幾つもの輪になって、まるで竜巻のように滞空している。
「そうか、契約を……利用しているのか……っ!」
魔法文字とは、古代精霊文字に他ならない。
人が己の中にある魔力を形にして放出するために、精霊と契約し、その手段である古代精霊文字を授かった。
魔力が魔法文字に変換され、それからやっと魔法として体現できるのはそのためだ。
ならば逆に、精霊はその契約を破棄し、魔法文字から人の魔力を吸い出すことも可能なはずなのだ。青龍の周りを延々と回り続ける魔法文字は、おそらく人々から吸い上げた魔力なのだろう。
俺も例外ではない。
この身体の持主に魔法の素養はない。すでに虫の息となったペランとティアナ同様、魔力を吸い尽くされミイラにでもなってしまうのが関の山だ。
「やってくれるな……!」
必死の形相で匍匐前進する。
もはや雀の涙ほどの魔力もない。死が足下からはい上がってくる。真っ黒な蟻走感をともなって、もぞもぞもぞもぞと半身を奪っていく。
青龍はさらなる無詠唱魔法を唱えた。
同時に十を数えただろうか。もはやその文字列から発動した魔法を数えることさえ出来ない。
霞む視界。その先にあるのは冷たい世界。
死。
紺碧の炎が俺を容赦なく包み込む。ペランとティアナはすでに真っ青に燃えていた。断末魔の悲鳴もない。干からびたミイラのように眼窩をくぼませ、必死に手を伸ばしていた。
だが、生の最後、その手が互いににつながれていたことが、なぜか俺の目に焼き付いた。
痛みが俺に断末魔を要求する。
俺の手が焼けてただれていた。足がくすぶり、内側の真っ赤な肉と骨が見えた。
血液が蒸発する。髪の毛の焼ける匂いがした。
「……すまないキズナ……俺は限界のようだ」
せめてもの仕返しに、青龍をにらみ付けてやった。
「……【スワップ】……解除……!」
意識が途絶える寸前。
俺は身体の持主に謝罪した。燃える手で十字を切り、せめてもの冥福を祈る。視界が収縮し、俺は身体からギリギリのところで抜け出した。
意識が廊下を走る。
壁を突き抜け、部屋を抜け、立ち上る炎を突っ切り、火の粉を横切った。
時間を止めるほどの速度でもとの身体に戻る。
世界が拡大し、身体の隅々から痛みが消える。
だが、目を開けても、あるのは暗闇だった。
俺は気が動転しかけて、自分が死んでしまったのではないかと焦る。まもなく杞憂と悟るのだが。
「く……苦しいぞ」
どうやら俺はポケットの中で何かに押しつぶされているようだ。酸素不足で気を失いかけながらも、何とか力の限りでポケットから抜けだし、暗闇の正体を探ろうとする。
思い切り酸素をむさぼる。
ふむ……生きているって素晴らしいな。
「むっ……?」
冷静さを取り戻した俺の目に映ったのは、満身創痍でうつぶせに倒れているキズナだった。
刀身のない【鶺鴒】を握りしめたまま、だらしなく横たわっている。血がエントランスホールを赤く染め、今もその領土を広げている。所々焦げた対魔法制服は、スカートも上着も燃え、あるいは破れていて、まるでボロ雑巾のようだ。キズナお気に入りの黒の下着も破れた制服の隙間から見えてしまっている。
おいおい、やられすぎではないのか、キズナ。
俺はぴくりとも動かないキズナの頭を足蹴にする。
「おい、死んだふりはよせ」
キズナの指がぴくりと動く。
「……なによ……戻ったの……?」
地面にこすりつけていた顔をわずかに傾け、俺の姿を瞳に納めるキズナ。
「……イリス……は? ティアナは……どうしたのよ?」
強気の名残がある声。
俺はわずかに頭を下げると、ティアナが実は敵だったこと、イリスが【寵愛者】で、今は精霊と共にいること、そのイリスの暴走を止めなければいけないことを告げる。馬鹿なキズナでも理解しやすいように要約して手短に話してやる。
「そう……散々ね、リニオ」
「お前もな、キズナ」
師弟でため息をつき、師弟でわずかに笑いあう。
……やれやれだ。
毎回新しい町を訪れる度にこんな目にばかり遭う。
いい加減にしろ、馬鹿弟子。
お前が動けば半分の確率で事件を起こし、もう半分の確率で事件に巻き込まれるのだぞ。
「……よい……しょっと」
ふらふらしながら立ち上がろうとする。生ける屍のように足下がおぼつかない。
「まだ立ち上がるか、【恩寵者】キズナよ」
腕を組んでふんぞり返っているヘイデンがいた。炎の広がるエントランスホールの中心であっても、その身体は雄々しく猛々しい。
キズナほどではないが、身体のそこかしこに切り傷があり、血を足下に滴らせていた。だが、その口調や立ち居振る舞いには、痛みや出血など微塵も感じさせない。
「……ちょっと……休んでいただけよ……あと五分ってね」
(お前は朝に弱い学生か)
俺は頭を痛める振りをする。
「単詠唱魔法すら使えぬお前が、ここまで私と渡り合ったのだ。若くしてそこまで至った自分の才能を誇るのだな」
やはり、俺の講義は身に付かなかったようだな。
分かっていたようだが……少し悲しい。
「この私が断言しよう……お前は天才だ【恩寵者】キズナよ」
「……知ってるわ」
頬を伝う血液を乱暴に袖で拭うと、フェイスペイントのような赤いグラデーションが出来上がる。
ほ、ほう……お前は自分が天才であるという自覚があったのか。この私を差し置いてよくも言ってのけたものだな、未熟者め。
「そんなことより、その上から目線……ムカツクわ」
(褒められて遠慮しないお前もムカツクがな)
キズナは足の裏を見せつけて俺を踏みつぶそうとする。
(貴様……師匠に対して手をあげようというのか?)
「あっそ……でもあげているのは足よ」
(貧乳のくせに生意気だぞ)
「貧乳はステータスよ、基本的人権の尊重よ」
(ついに開き直ったなっ!)
ああいえばこういう女め。達者なのが口だけではなく、胸もだとよいのだがな。
キズナは眉根をぴくぴくさせる俺に満足したのか、あげている足を下ろすと、俺に手をさしのべてくる。
「そこにいると踏みつぶすわよ、ほら……アンタの指定席、来なさいよ」
腕を伝う血で、手のひらは赤い。
……まったく強がりだけは上手いな、お前は。少しだけ……ランクアップさせてやる。
俺は血に濡れるのも構わずキズナの胸ポケットの中へ。
何だろうな……ここからの景色、とても安心する。
「見られてないと、なんだか調子でないのよ」
(嫌な性癖だな)
「そうね、アンタがしたのよ、こんな私にね」
(……ふん、責任は取らんぞ。俺には俺を待つたくさんの美女達がいるからな)
「はいはい、脳内脳内」
(違うもん!)
「いきなり口調変えるんじゃないわよ……気持ち悪いわね」
(……溢れんばかりの可愛らしさをアピールしてみたぞ)
「私にアピールされても困るんだけど」
(そうだった、貧乳だしな)
「……コロス」
俺達が交わす会話に、いつものペースが戻り始める。
「【恩寵者】よ……お主は先程から独り言が多いな。それと――」
巨躯をもてあます男の眼光が、俺をとらえる。
「ちょろちょろと目障りなドブネズミだ。私はドブネズミが一番嫌いなのだ」
「私も同感」
「ヒドイっ!」
あまりのショックに、思わずわめき散らす。
「……でも、これドブネズミじゃないから。ハムスターだから」
魔力をみなぎらせ、【鶺鴒】の刀身が蘇る。
何度でも、何回でも。
キズナの心が折れぬ限り。
「よく聞きなさい!」
【鶺鴒】でヘイデンを指し示す。
「こいつはね……こいつは……世界で一番可愛いハムスターなの。私の自慢のペット。だから、今のは少しむっと来たわ。こいつを馬鹿にしていいのは飼い主である私だけ。他の誰にも馬鹿にされたくない。ていうか、馬鹿になんてさせない」
「キズナ……」
何だろうな、言い方は雑だがほのかに嬉しいぞ。
満身創痍はかわらない。流れ出た血は戻らない。
それでもとびきりの強がりで炯眼を燃え上がらせる。
「……頭が馬鹿にでもなったか? だが、病院に行く必要はない。馬鹿は死ななければ治らぬからな。……頃合いも頃合いだ、終わりにしてやろう」
燃えさかるエントランスホールをぐるりと見回し、組んでいた腕を下ろす。
右手には魔法刀【朱雀】がある。
「言って……くれるじゃない!」
体勢を落として突きの姿勢に構えたキズナが、言葉と同時に飛び出した。