第十九話・「猫に襲われても知らないわよ」
ティアナが経営する【旅人の止まり木】の裏口から出ると、そこには広い空き地が広がっていて、物干し竿が二列にわたって並べられていた。
天気は快晴。連日の雲一つない青空が、俺を出迎えていた。
「自主トレか?」
俺の声に顔を振り向かせたのはキズナだった。
「そ、イメージを確認していたの、この前の戦いを」
身に纏うのはいつもの対魔法用の制服ではなく、ショートパンツに半袖シャツ一枚という何ともラフな格好。変わらないのは髪型と、右手に握りしめられた【鶺鴒】だけ。近くにはヒップバックが転がっていた。
キズナはヒップバックからハンドタオルを取り出すと、身体の汗を拭っていく。顔の汗を拭い、首もと、脇の下、と移動し、最後は恥ずかしげもなくシャツの中の汗を拭う。ちらちらと見える下着の色は予想に反し水色だった。
ほう……今日は珍しく黒ではないのだな。
「それより何? まだ講義の時間には早いはずでしょ?」
ヒップバックに【鶺鴒】をしまうキズナ。トレーニングは終わりのようだ。
「講義ではなければ、来てはいけないのか?」
「猫に襲われても知らないわよ」
「ふん、猫ごとき……俺が返り討ちにしてやるはずだ」
「リニオ、文法がおかしいわよ」
な、何だ、考えただけで身体の震えが止まらないぞ。これが生き物の持つ第六感……危険予知という奴なのか。
聞いたことがあるぞ。
ネズミが家から一斉に出ていけば、その家に火事が起こるとか、地震で家が壊れてしまうことを予測しているとか。
う〜む……動物とは不思議なものだな。ぶるぶるぶる。
「怖いなら怖いって言えばいいのに。助けてあげないこともないわよ?」
「結構だ」
「ふ〜ん……」
「ふん! 馬鹿め、俺を誰だと思っているのだ? 遠からん者は音にも聞けっ! 近くば寄って目にも見よっ! 我こそは偉大なるリニ――」
「あ、猫」
「助けてくれっ!」
ジャンプ一番、キズナの足下にすがりつく。
そんな俺を胡散臭そうに見下すキズナの目があった。
「そ、その目は何だ!」
「嘘よ、いないわよ、猫」
「……し、知っていたさ。なんだ? 疑っているのか? いいか、勘違いをして欲しくないのだがな。今のは俺が緊迫の演技を見せてやっただけなのだぞ。お前がどんなリアクションを返すかと思ってな。ちょっとからかってやっただけだ。決しておれが猫に対して恐れを抱いているわけではないぞ、本当だぞ」
「ここに始めて来たとき、猫の特長とか、生息状況とかをティアナに聞くように言われたのは、全部、私の夢だったのかしら」
「あ、アレはだな……備えあれば憂いなしと言ってだな……ま、言ってしまえば俺程の猛者ならば、聞かなくとも撃退可能なのだ。それでも、まあ、情報が多いにこしたことはなかろう? たとえ数匹で襲ってこようと、猫など俺が数秒でギッタギタのケチョンケチョンに――」
「あ、猫」
「助けてっ!」
キズナのふくらはぎに飛びついていた。
しっぽを縮めて恐る恐る周囲を見回しているが、猫の姿はどこにもない。血に濡れた鋭い爪も、狂気に揺らめく炯眼も、狩りに適した柔軟な身体も、どこにも見あたらなかった。あるのは、空き地を薙いでいくそよ風と、満面の笑顔で燃え上がる太陽ぐらい。
ああ、今日もいい一日になりそうだ。
「……リニオ」
「……はい」
「怖いんでしょ?」
「怖いんです」
何か今、俺の中で大事なものを奪われた気がした。
威厳か、主導権か。
……いや、両方か。
キズナのふくらはぎをずるずると滑り落ちながら、俺はそんなことを考えていた。
「あ、キズナさん、お肌焼けちゃいますよ〜?」
つぎはぎだらけのメイド服を着たティアナが裏口から現れた。
相変わらず……良いものを持っている。
胸元を押し上げる二つの巨大な活火山は、今にも大噴火を起こしてしまいそうだ(俺も噴火しそうだ)。
俺は目を細めて空を見上げる。本日は晴天なり、本日は晴天なり。絶好の登山日和である。
今日この日、インタビュアーに、あなたはなぜ山に登るのですかと聞かれたら、俺は間違いなくこう答えるだろう。
そこに山があるからだ、と。
「リニオ、待ちなさい」
キズナがふくらはぎからジャンプした俺を鷲づかみにする。
ぐわし、という擬音語がうってつけの乱暴な行為。
(何をする! そこに山があるのだ! 登らないわけにはいくまい!)
俺はキズナの握力から逃れようとじたばたともがく。
(ひまわりの種、処分するわよ)
(冷静になろう、お互いに)
キズナがヒップバックに目配せする。
人質を取るとは、卑怯だぞ。
(分かったら、アンタはおとなしくしてなさい)
(……分かった。あきらめよう)
ティアナに聞こえないようにつぶやくと、キズナはヒップバックの脇に俺を下ろした。どうやら、ひまわりの種を食べていいということらしい。仕方がないな。
(ふん……大きいののどこがいいのよ)
キズナが何かをつぶやいていたが、取り出したひまわりの種の神々しさから比べれば微々たるものだった。
俺は頬ずりしながらその妖艶なラインに酔いしれる。
「ティアナ、お店はいいの?」
「はい、イリスちゃんに任せてありますから〜」
洗濯かごを抱えながらにっこりと笑う。
「イリス……ね」
キズナは近くにあったベンチに腰掛ける。
「イリスって義理の妹なのよね?」
「はい」
ティアナは答えながら洗濯かごを置くと、濡れた洗濯物を取り出す。
「孤児だって言ってたけど」
「はい」
ティアナは感慨にふけるように眉を下げた。
濡れたシーツを伸ばすと、物干し竿にはらりとかけた。
「イリスちゃんのことは、私もよく分からないんです。私が【旅人の止まり木】働き始めて五年目にイリスちゃんがやってきた……ただそれだけなんです」
語尾を伸ばすことがなくなり、愁いを帯びた口調になる。
「イリスちゃんがここに来たときに持っていたのは、ぬいぐるみただ一つでした。他には何もありませんでした。ただ無表情に、私を見上げるだけで……」
「確かに、愛想ないわよね……アイツ以外には」
キズナが俺を見る。
何だ? これ以上、まだ俺に何かする気か?
「はい。でも不思議です、ムス太ちゃんにはあんな表情を見せるのですから」
「ホント…………困るわよ」
唇を尖らせて俺にタオルを放ってくる。ひまわりの種に気を取られていた俺は、そのタオルに投網漁が如く捕獲されてしまい、身動きが取れなくなる。
むせかえるようなキズナの汗の香りに頭が侵食されていく。胸の奥を刺激する甘酸っぱい香りだった。
もがもがもが……ぷはっ! いきなり何をするのだ、キズナ!
「イリスちゃんは……ムス太ちゃんに会えて良かったのかも知れませんね」
真っ白なシーツがそよ風にはためく。
宿泊客がいないとはいえ定期的にシーツを取り替えているのだろう、洗濯の量は少なくない。
前後に並んだ物干し竿に、ティアナが干した大量の純白がはためいている。見ていて清涼な気分になる光景だった。
「イリスちゃんは……きっと寂しかったんだと思います」
「ティアナ?」
「私は五年間イリスちゃんと暮らしてきました。でも……あんな風に笑うイリスちゃんを見たことはありませんでした。見るのはキズナさん達が来てからです。ムス太ちゃんと遊んでいるときのイリスちゃんは、まるで生まれ変わったかのよう……」
キズナは物言わず、また俺の方を見た。
俺はまたキズナが何かしてくるのではないかと身構える。だが、キズナは俺を視界の隅に留めただけで、すぐにティアナに向き直る。
聞こえてきたのは、ティアナの寂寞とも言える声音だった。
「だからきっと……イリスちゃんは寂しかったと思うんです。私と居た五年間もずっと……。ふふふ、たまには襲われてみるものですね。おかげでキズナさんと、ムス太ちゃんに出会うことが出来ました」
「なによそれ」
キズナが少し不機嫌そうに立ち上がった。
「私に何かあったら、その時はイリスちゃんをよろしくお願いします」
そんなキズナにティアナは深々と頭を下げる。はためくシーツがティアナとキズナの姿を隠そうとする。
「馬鹿じゃないの?」
「馬鹿かもしれません。でも、私には最後までイリスちゃんを笑わせてあげることは出来ませんでしたから……きっとそれぐらいの存在なんです。だから、イリスちゃんをよろしくお願いします」
小首をかしげて、儚げに笑うティアナ。
空き地を吹くそよ風が、ティアナのポニーテールを揺らし、メイド服のスカートを撫でていく。
風が一通り去ったところで、キズナがティアナの微笑みから顔をそらした。
「それぐらいの存在って……そんなの……なんか違う気がするわ」
キズナは自分が感じている違和感を言葉に出来ないのだろう。
駄々をこねるような物言いだった。
「言葉に出来ないけど、なんか違う気がするのよ」
腕を組んで俺の元に歩いてくる。俺の隣にあったヒップバックとタオルを拾い上げると裏口にむかう。
ティアナとすれ違いざま、キズナは立ち止まり、ぼそりと告げる。
「イリスがそう言ったの? 寂しいとか、存在がどうとか」
「……」
ティアナは首を縦にも横にも振らず、宿の中に消えていくキズナを見守った。
俺は手に持っていたひまわりの種を頬袋に押し込み、しばし考える。
イリスの部屋にあったぬいぐるみと、屋根の上で見たイリスの瞳、自分を慰めようとする姿。確かにそれは寂しさから来たのかも知れない。
しかし、だからといってティアナの存在がそんな軽いものではないはずだ。
ふむ……確かに、キズナの感じた通りかも知れないな。
「あ、猫です〜」
俺が熟考しながらひまわりの種を咀嚼していると、ティアナが手を叩いて声を上げた。
おいおい、ティアナまでそんなことを言うのか……やれやれだ。
そんな見え透いた手に何度も引っかかってたまるか。
俺は偉大なるリニオだぞ。後の世にまで語り継がれる天才魔法使い――
「ニャンニャア〜(また会ったニャ)」
……。
狼少年という童話を知っているだろうか?
俺は知っているぞ。知らなければあとで図書館にでも行って読んでくれ。
「ニャ……(死ぬニャ)」
きっとこの状況が笑えるだろうから。




