芽吹く春
あけましておめでとうございます
学校から家に帰る。しんと冷えきったような廊下に、涙も枯れ果てた。
ただいまと言ったって、返事はないから言わない。玄関に荷物を放り出して、重たい溜め息をつく。
一人で住むには一軒家は広すぎる。4人で住んでいた時は狭かったのに。
「おかえりなさーい」
「おかえり」
リビングのドアを開けた所で、お父さんとお母さんの声がした。
心臓が掴まれたように痛む。
リビングのソファーにお父さんが座ってテレビを見ていて、リビングと繋がったダイニングのテーブルに、お母さんが手料理を並べていた。
かしゃん、と手にしたコンビニのレジ袋を落とす。あれ?わたし、どうしてコンビニ弁当なんて買ってるんだっけ?お母さんが作ってくれるなんて当たり前なのに。
前が見えなくなった。どうしてだろう。どうしてこんなに胸が痛いの。指が震えるの。目が熱いの。
わからない。
でも、幸せだと思った。痛いほど。喉がひりついて、鼻がつまる。わたしは完璧に泣いていたけれど、お構いなしに二人に言った。
「ただいま!今日の夕御飯はなあに!?」
久々に食べた母の味は、涙の味がした。
次の日の朝、どうしてか学校に行くのが怖いと思った。
どうしてだろう。そんな気分の時は良くあるけれど、いつもは何だかんだで理由があるのに。理由は見当たらなくて、首を傾げながらも、喉に支える(つかえる)不快感と、息が深く吸えないような苦しさに戸惑いながらリビングに行く。寝起きのいがらっぽい喉で挨拶をした。
「おはよう…」
父が新聞を読んでいて、母が朝食を用意していた。その香りに久々の食欲がわく。
「おはよう、透子。学校は?遅刻するわよ」
「……いきたくない。お母さん、今日は休んだら、だめ?」
「何か嫌なことがあったの?友達とか?」
「…ううん、ないよ。でも、いきたくないの」
食卓について、お母さんの用意してくれた食パンを、もそもそと口に詰め込む。スーパーの安価な食パンはあまり美味しくない。けれどどうして、お母さんが出してくれたというだけでこんなに美味しいのだろうか。
あーあ。どうせお母さんは駄目って言う。高い学費を払ってるんだから、無駄にしないようにって。
わたしだって分かってる。これはずる休みだし、行ったらそれなりに楽しいし。
「だめならいいよ。言ってみただけだか……」
食パンを一枚食べ終えて、気にさせないように笑ったつもりが、喉から嗚咽が漏れた。
違う。そんなに学校が嫌な訳じゃない。
お母さんやお父さんは心配性だから、このままじゃ要らない気を使わせてしまう。
「ご、ごめん。気にしないで、なんか辛いことがある訳じゃないから」
不意に零れた涙を、慌てて拭って誤魔化すように笑えば、お母さんは困ったような表情に笑みを加えて、仕方がないわね、と言った。
「今日だけよ。今日だけは休んでいいわ。でも、今日の後は学校に行くのよ」
「ちょっと…お母さん、良いのか」
お父さんが心配そうに口を挟むが、お母さんは有無を言わせなかった。
わたしは目を丸くする。こんなこと初めてだ。声が弾むのを抑えようとしたけれど、抑えられた気がしない。
「いいのっ?」
「その代わり、家事を手伝ってもらうからね」
「うん!」
いつもは大嫌いな家事が、大好きになりそうだ。ずる休みでベッドに籠るよりも、お母さんとお父さんと一緒にいたいと思った。
季節外れの大掃除だ。ついでに衣替えもする。
お父さんは仕事が休みだそうで、ソファーに寝そべってテレビを見ている。時折リビングで小さな会話をした。
それは勉強の話だったり、両親の思い出話だったり、好きな本の話だったり。他愛もない会話なのに、この話は一生忘れたくないと思った。
零れ落ちる時間が、まるでダイヤモンドの砂粒みたいだった。
冬物の服を仕舞って春物を出す。屋根裏の収納には何が入っているのか教えられて、懐かしい子供用の服を眺めて思い出話。でも、手を止めると怒られて。
「うわぁ…ちっちゃい靴………これ、わたしの?」
「これがお姉ちゃんでこっちが透子ね。あ、臍の緒」
小さい靴を端に寄せて、お母さんが木の箱を手に取っていった。興味津々で中を覗き込む。映像で見たことはあるのだが、現物を見るのは初めてだ。
「ああ、これお父さんのだわ。実家から持ってきてたのね」
「へえ。わたしたちのはないの?」
「…あんたたちのはないのよ」
「なんで?」
「無駄に捨てにくいし、活用の仕方がわからないからねえ、元々もらわなかったの」
お母さんらしい理由だ。決して広くはない家で快適に過ごすには、物が少ない方が良い、というのがお母さんの信条だから。
少し笑ってまた次の物へ移る。
わたしがわたしの服を片し終わると、お母さんはお父さんも呼んで三人で夫婦二人の服を片付け始めた。
「私って物持ってない方だと思ってたけど、意外とあるのよねえ…」
「そうだね。物持ちがいいから…。その服何年目?」
「20年…?シンプルなものは廃れないし、このセーターなんてまた流行りが来たわよね」
衣装ケースから取り出した服は、ほつれも毛玉もないし、型落ち感もない。20年の歳月も感じさせないかわいい白いセーターだ。
「あ、かわいい」
「じゃあこれ透子にあげる」
「やった」
断捨離にハマっているお母さんに、着なくなった服やアクセサリーを譲られることはしょっちゅうだ。
「あ、これお姉ちゃん好きそう」
「じゃあお姉ちゃんにあげておいてね」
「………お母さんが渡せば良くない?」
「だってママ忙しいしぃー?」
「この専業主婦め」
「えっとね…通帳は、あったあった。ここよ」
「何で本の間に挟まってるかな。しかもわたしの部屋の本棚に」
「んー防犯対策?」
「家計簿はね、こうやってつけるんだよ。ほらお手本」
「さっぱりわかんないんだけど」
「慣れよ、慣れ。透子もお小遣い帳ぐらいつけなさい」
「えーめんどくさ」
「庭には水をやるのよ。そんなに多くなくていいけど、枯れたら悲しいもの。あと茶毒蛾とかに注意してね。出たら農薬散布よ」
「この狭い庭に散布とか逆に難しそう」
「ベランダからジョウロでいけるわ」
「経験済み…!」
「掃除のしかたは…大丈夫ね。仕込んでてよかったわあ」
「鍛えられたからね。お母さんに」
掃除はわたしの仕事だった。手伝わないとお小遣いをくれないからやってたけど、実りはあるみたいだ。嬉しい。
「電子機器の説明書等はここ。壊れたって捨てないで修理に出すのよ」
「はーい」
「お父さんは働かないの?」
「なんで?」
「寂しそうだったから」
さっきリビングに行ったらひとりぼっちでテレビを見ていた。調子はどうだ、と聞かれたけど、あれは絶対寂しがっている。手伝うことはないかって聞かれたし。
「だってやらせたら、あれが分からないこれが分からないってうるさいのよ」
「わーかーるー」
お父さんはわりと構って欲しい人だ。寒い親父ギャグをいって、みんなにスルーされて心なし涙目で、ふって笑う感じだ。
それなのに変に亭主関白を発動させるから、お母さんによく、もうこの人いや、と言われている。仲良いけど。
一番楽しかったのはやっぱり料理だ。
お母さんと二人で台所にたって、いろんな料理をした。時期外れなのに、お母さんはおせちの作り方を仕込んできた。
飾り切りとか無理。え?出汁?粉末状のあれでしょ?
他にも色々つくって、お母さんの持ってる料理本の、いつも使っているレシピを教えてくれて、三色きちんと食べるのよ、と何度も念押しをされた。
わたしは不思議に思いながらも頷く。
だってわたしがお母さんの料理を食べなかったことはないのに。
夜になって、三人でアルバムを捲った。二人が結婚した頃から、つい昨日までのアルバム。到底一晩では見終わらない。
楽しい思い出、ばかりだった。
金、土、日とそんな生活が3日続いた。
部屋はすっかり片付いて、アルバムも見終わった。
日曜日の夜、気づけばわたしは両親の手を握って、引き留めるように懇願していた。
「いかないで………!」
「透子…」
お父さんは困ったように眉尻を下げた。
「わかってる。わかってる……でも、お願い。お願いだから、ひとりに、しないで……!」
何を口走っているのか、自分でも理解できない。だってお父さんも、お母さんも、こうして目の前にいるのだ。どうしていなくなると思うのか。
でも、胸が痛かった。この痛みをどうしても無視できなかった。見ないふりをして過ごした3日間、痛みは膨らみ続けたのだ。
震える声で、指先で、縋り付いて懇願した。
先に音を上げたのは、お父さんだった。
「…どうして居なくなるだなんて思うんだ」
わたしだってそう思う。今日も昨日も一昨日も、わたしたちは一緒だったはずなのに、どうしてこんなことを思ってしまうのか、と。
そんなわけないだろうと言うように、ぎこちなく頭を撫でるお父さんの手は温かい。でも、それがどうしようもない違和感を、浮き彫りにさせるのだ。
ふと蘇るのは、真っ白い地下室に横たわる、人影。掛けられた白い布からはみ出た手は、青白くて冷たくて。
そんなもの、知らないと、3日首を振り続けた。逃げ回って、知らんぷり。でも逃げ出した何かが、もうわたしに追い付いてしまう。
「だって、何かがおかしいよ!どうしてわたしに印鑑とか通帳の場所を教えるの?形見分けみたいなことをするのっ。
どうしてこんな、わたしの胸は痛いのさ!?」
分からない。分からない。分からない。
―――分かりたくない。
逃げ回って蓋をして、幸せを甘受しても、胸の痛みがわたしに言うのだ。大切ななにかを失った痛みが、わたしにこれはおかしいと教えるのだ。
「ねえ、どうしてわたしに会いに来たの」
実感だけがあって理解が追い付かないけれど、わたしはわかっている。心に刻まれて、忘れられなかった。
―――もう二人は生きていない。
痛みばかり、わたしに与えられる。
喪失の痛みを二度もだなんて、死んでしまいそうだ。
目を醒ましたとき、わたしは全てを理解していた。
あれはなんだったのだろう。
3ヶ月前に死んでしまった両親が、わたしに会いに来たとでも言うのか。
交通事故だった。
わたしは、ひとりぼっちになった。
姉は父と折り合いが悪く、数年前に大学を卒業すると一人県外に就職した。祖父母も遠くに住んでおり、家を離れたくないと意地を張ったわたしが一人で暮らしていた。
3ヶ月とは、喪失を受け入れるには十分な時間だと人は言うのかもしれない。わたしも、受け入れる振りは上手くなっていた。
『透子のご両親はとても仲が良かったよね』
友人がわたしに告げる。友人は、少しデリカシーがない。幸せに育っているからこその、疎さだ。きっとわたしも、ついこの間までそうだった。わたしは、答えられなかった。
『……わないで』
両親を思い出すだけで、からだの真ん中がずたずたに引き裂かれるかのように痛い。喉が苦しくなって、指先が冷たくなる。
『透子、そろそろさ、良いんじゃない?』
『言わないで』
あの子は、わたしに何と言いたかったのだろう。
『――――――――』
『いや!言わないで!!』
金切り声で懇願した。息が苦しい。休み時間だったからクラスの皆がわたしを見つめていた。堪えきれなくて、叫ぶ。
『あの人たちのいない世界で!わたしだけが生きてて!どうしてわたしが幸せになれるの。どうしてわたしが、忘れられるの!?置いていかれるなら一緒に死んでしまいたいとさえ、思うのに!!』
こんなにもからだが痛いのに。こんなにも胸が痛いのに。
いっそ一緒に死んでしまいたかった。
わたしの世界はちっぽけだった。両親がいなくなって、わたしの世界は壊れた。両親が死んだと連絡が入ってから、わたしは何度も何故ついて行けなかったのだと思う。そうしたらこんな痛みを知ることはなかったのだ。
辺りを見渡せば、知らない病室のようだった。事切れた両親と対面した部屋とは違う、生きている人間のための部屋だ。
「置いて行かないで……」
呟きが染み入る。そうだ。お父さん、お母さん、どこにいるの?お願いだから、わたしを置いて行かないで。
「おいてかないで」
白い部屋は静かだった。わたしの呟きが水面に波形を作るように広がる、広がる。
「お父さん、お母さん、どこにいるの……」
体を起こせば目眩がした。ふらつく体を支える腕の細さがいつにないほどだ。わたしはいつのまにか随分と痩せたらしい。
腕には点滴のようなものが刺さっている。初めて見た。動くのに邪魔だから、引っこ抜いて打ち捨てた。かしゃん、と倒れる音がするが、気にするほどではない。
お父さんと、お母さんを、探さなくては。
きっと、いる。
あれがただの夢ではないと、どこかに確信があった。
スライド式のドアを開けて、外に出る。長い廊下には等間隔で電灯がついているが、それも薄暗く、静まり返った気配が今が夜であることを知らせていた。
「連れていって…」
今度こそ、わたしを。遠くに背中が見えた。懐かしい、見慣れた、背中だ。
「お父さん!お母さん!待って!」
背中は立ち止まらず、どんどん遠くなっていく。
わたしは追いかける。どこまでもどこまでも。何がどうなってもよかった。ただ、ついて行ければそれでよかった。
どこまでも追い付けないかもしれないと思うほどに長く走り、両親の背中が少し近づいた。
笑みが浮かぶ。やっと、追い付ける。
「……お父さん!お母さん!やっと追い付いた!」
わたしは笑って二人に飛び込む。危なげなく受け止められて、やっぱり両親は既に死んでいるのだと思った。
「透子……どうしてあんたはこんなとこまで来ちゃうのよ…」
「早く帰るんだ、透子」
諦めたような顔をした二人は、わたしの肩に手を置いて何やら言うけれど、笑って遮った。
「帰らないよ。せっかくお父さんとお母さんに追い付いたんだから。今度こそ、一緒に連れていってよ」
確かに幸福だった。そのときの、わたしは。満面の笑みを浮かべて、二人と手を繋ぐ。
ぱんと頬が鳴って、脳天に衝撃。目の前に星が散る。
「ったあ!何するのさ!」
「それはこっちの台詞よ!あんたなんてこと言うの!」
「は?何にもおかしいとこなんて無いじゃん!」
「意味がわかってるのか、透子」
お母さんに頬を叩かれお父さんに拳骨を落とされたらしい。酷い、理不尽だ。
「わかってるよ」
短く告げて顔を上げれば、難しい顔をした両親と目が合う。わたしは逸らさなかった。
両親は二人顔を合わせてやれやれと溜め息をついて、疲れたような顔をした。
「絶対、連れていかないわ。親は子供より先に逝くものなの。分かってるでしょ?」
「お父さんもお母さんも、お祖父ちゃんよりも早く死んじゃったくせに。
あ、ほら。お父さんとお母さんだけじゃ寂しいんじゃない?ついて行ってあげるよ」
「いや…別に……」
「寂しくないわよ」
お父さんよりお母さんの方が辛辣だ。
「じゃあ、わたしはどうしたら良いの。ひとりぼっちは嫌だ。お父さんとお母さんがいないなんて、受け入れられない。どうして、わたしに会いに来たの?二回も置いて行かないでよ」
みっともなく声が震えて、俯く。視界がぼやけて不明瞭になる。温もりしか、わからなくなる。
「ごめんね。お父さんもお母さんも、透子のこと置いて行っちゃった。ごめんね」
「…お母さんのせい、じゃ、な、い………」
お母さんに抱き締められて、泣いた。
お父さんもぎこちなく抱き締めてくれる。
「すまんな。こんなに早く置いて行くつもりなんて、無かったんだ。もっとずっと先の話だと、お父さんたちも思ってたんだ」
「じゃあ、連れてってよ」
「………それは、できない」
無様な自覚はあったけど、しゃくりあげるのも、駄々をこねるのも、止められなかった。
「そんな、の、ずる、いよ。ふたりとも、置いていかれた方の気持ちなんて、分かんないんだ……っ」
こんなに苦しいのに。こんなに痛いのに。
それでもなお、生きていけだなんて、残酷すぎる。
「うん。ごめんなさい。透子、ごめんね。それでもね、透子は連れていけないわ。分かっているでしょう?」
首を振る。
「…わ、かんない」
「透子」
「分かんない」
「透子、だめ」
お母さん、わからないよ。わかんない。どうしてわたしは連れていってくれないの。わかんない。わからないから、だから、連れて行って。
困った顔をしている二人の前で首を振りながら、本当はわかっていた。わかりたくなかったんだ。
生きて行かなければならない。わたしは生きているから。
両親はわたしを愛しているから、わたしに会いに来てくれたのもわかっている。それでも詰らずにはいられなかった。
「……………分かってる。分かってるよ」
さっきも告げたその言葉は、酷く弱々しく響いた。
「それでも、一緒にいたかったと思うぐらいは良いよね」
抱き締める力が強まる。
「お母さんも、透子ともっと一緒にいたかった」
「お父さんもだ」
お母さんとお父さんが遠くへ行ってしまうのがわかった。抱き締めているはずなのに、感触がどんどん曖昧になっていく。置いて行かないでと叫ぶことは、もうできない。
だから、違うことを叫ぼう。
「お父さん!お母さん!愛してる!」
返事が聞こえたような気がした。聴覚も視覚も曖昧になるが、聞き間違いではなかった。
すぐに全ての感覚が曖昧になって、意識が眩んだ。
目が覚めたとき、夜明けの薄闇の中、桜の木の下のベンチで眠っていた。開きかけの桜の蕾がとてもきれいだった。
「透子!」
ぼんやりとそれを見つめているうちに、わたしを呼ぶ声がして、振り返る前に抱き締められた。
「どうしてこんなところにいるのよ…!心配したじゃないっ。あんたまで、どうかしちゃうのかと思った……」
姉がわたしを抱き締めて泣いていた。わたしはひとりぼっちじゃなかった、とそんなことを考えて、恐る恐る、姉の背中に手を回した。
「お姉ちゃん、桜がきれいだよ」
3ヶ月。長い時間だったのかもしれない。冬を越した蕾が、花開くほどの時間だったのだから。
長い夜が、明ける。
春は風が強い。桜の花弁が舞い散るのを眺めながら、霊園を歩いていた。
両親が死んだのは、十年前の年越しを直前にした冬の日だった。
交通事故で、遺体は損傷が激しく、見る影もなかった。
わたしは祖父母か姉と暮らすよう催促されたが、学校をやめたくないからと、思い出深い家に一人で暮らしていた。あの頃の記憶は曖昧だ。死なない程度に食事をとって、学校に通っていた。
家は荒れたし、わたしも酷くやつれた。
そして友人の一言に、壊れたのだ。
『もう透子は、幸せになってもいいんじゃないの?』
わたしは子供だった。ちっぽけな世界が壊れても、そこに自分から囚われたまま、静かに朽ちる以外には何も思い付かないぐらいには。
幸せになりたくなかった。両親がいない幸せが分からなかった。
学校を飛び出して身一つ。ふらふらと彷徨っているうちに車に跳ねられた。
そこから3日、軽傷だったにも関わらず、わたしは昏々と眠り続けたらしい。胆が冷えた、と姉は今では笑って言う。
眠っている間に見た夢は、目覚めたわたしを助けてくれた。
病院でさんざん不摂生を叱られたわたしは、いつのまにか食べ物の味を感じられなくなっていたようだった。コンビニで毎日買っていた弁当も、一口二口食べて捨てていた。
退院して、夢で教わったレシピで自分で食事をつくったら、味を初めて感じた。それから食事をとれるようになったし、部屋を片付けて、夢の記憶と時間をたどるたびに涙が溢れ、静かに喪失を受け入れた。
色々な人に夢の話をしたが、真実にわたしの話を信じる人はいなかった。夢の中でわたしが知らなかった事実を知らされたのだ、と言っても、それは忘れていただけだ、とか結局はただの夢だと思っている人が殆どだったし、わたしにもそう思う時があったから。
でもそれは、もうどうだっていいのだ。
わたしは信じることにした。あれは両親だったのだと。だってその方がわたしは嬉しいから。
「お父さん、お母さん、こんにちは。わたしは元気です。毎日ご飯、食べてるよ。この間ね、庭でタンポポが咲いてたの。あれって抜くべきなのかな…」
墓石の前で手を合わせる。一通り掃除をして、他愛もない近況報告をする。
「わたしは幸せです。お父さん、お母さん、愛してます」
両親が生きている間は一度も伝えられなかった。わたしは子供で、愛を恥ずかしいと考えるぐらいには幼かったから。伝わるといい。こうして手を合わせるたびに。
「遅くなってごめんね、透子」
ぼんやりと墓石と線香を見つめていたら、しゃがんだわたしの後ろで声がした。
「お姉ちゃん!遅いなあ。もうお掃除しちゃったよ」
「いつもごめんね」
「ううん、気にしないで。仕事も育児も忙しいでしょ」
姉は一昨年結婚して子供がいる。義兄も、義兄の両親も、優しくて暖かい人だ。祖父母もこの十年の間に失ってしまったわたしたちを、家族のように愛してくれる。生まれた甥は、義兄が面倒を見てくれているそうだ。
「あんたも大きくなったわね」
「お姉ちゃんはあまり変わらないよね」
この十年のことを言っているのだとすぐにわかった。身に付けるのは制服ではなくなったし、母から譲られた真珠のイヤリングとネックレスを身に付けるようになった。
「十年だからね。ねえお姉ちゃん、お姉ちゃんはお父さんとお母さんがわたしに会いに来てくれたのだと思う?」
「夢の話?」
「うん」
風が吹いてイヤリングが落ちないように押さえる。帰り道、わたしはそんなことを聞いた。
「どうだろう。透子が通帳の保管場所とか知ってたわけないって思うから、ほんとかもしれないとは思うけど、そういうことじゃないんでしょう?」
姉は、わたしは論理的に証明したいわけじゃないだろうと言う。確かにそうだと思う。わたしは信じたいんだ。
「最近ね、思い出したんだ。透子が事故に遭った日に、夢を見たのを」
徐に姉が言って首を傾げる。
「わたしが高校の時の夢で、透子はまだ小学生で、なんかあるとすぐピーピー泣いて」
「お姉ちゃん」
からかわれて咎めるが、姉は気にも留めない。
「何てことない日常なんだけど、気がついたら誰もいなくなってるんの。そこで目が覚めるんだけど、最近思い出して」
満開の桜がきれいだった。
「一人でいるときに、遠くから声がするんだ。ごめんなさい、幸せになってって。お父さんとお母さんの声で。あれは二人だったのかなって思う」
遠くを見る姉の横顔を盗み見る。姉は変わらないけれど確かに変わった。きちんと大人になって、母親になった。時折、はっとするぐらいお母さんに似て見える。
「そうだといいなあって思うんだ」
わたしも頷いた。
「そうだといいね」
「うん。だからね、透子の夢も、そうだったらいい」
「………うん。そうだね」
風が吹いて桜が舞う。光に満ちた視界に、どこからともなく花が香った。
「お姉ちゃん、春が来たね」
開けない夜はない。そして終わらない冬はない。わたしたちはそれを知っている。




