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旅行記

作者: shichuan

 旅路に至るまでの過程は、フィクションを絡めてなんらかの文章にまとめるだろうから、ここでは省略する。要点だけ簡潔に言えば、今、中国安徽省の義両親のもとへ"結婚の挨拶”に向かう、高速鉄道に乗っているということ。チケットの手配など、旅程はすべて陳ちゃんに任せた。

 「緊張するわ」、とリクライニングに深く沈み込みながらつぶやいたが、隣で携帯をせわしく操る陳ちゃんは、一瞬笑顔を向けただけで、相手にしなかった。言葉に出したほど気負っていないことに、気づいているのかもしれない。言葉や文化を解さぬ外国人らしく、寡黙さを全面に出し、表情や仕草、簡単な一言二言だけで、両親には自分のことを理解してもらおうという、安直な作戦でいくことに決めていた。陳ちゃんには、両親には気に入られるだろうから何の問題もない、と言われていたが、彼女の人物評価にたいした信頼を置いていないので、話半分でしかなかった。ただ、万が一、面と向かって"鬼子”などと言われたら(陰では何を言われてもかまわないが)、キレた振りして一人で杭州に戻るつもりだった。表面的にも取り繕うことのできない人を家族として接するほど、人間はできていない。素養とか性格はともかく、人間性は同じレベルであってほしい。中国国内であれば、お金さえあれば、どこに放り出されても、一人で杭州まで戻ることはできる。

 ふと、車窓を流れる単調な田舎の風景から目を離すと、陳ちゃんが、携帯でドラマを流したまま、頬を緩め寝ている。止まらない妄想に、なんだかんだと気負い、緊張していることに、気がつく。朝5時過ぎの出発、高速鉄道の車両に籠もる適度な喧噪、寒々と飛ぶ鳥と生暖かい空調、それでも眠気はこなかった。


 安徽省には黄山に登ったことがあるだけで、合肥ははじめてだった。昼前に到着。親戚が迎えに来てくれた。中国人と結婚した日本人が一番苦慮するのは、親や配偶者ではなく、訳もわからず金を無心してくる親戚だろう。警戒心が高まる。体つきは丸まるとしているが、瓜実顔に細い目つきが、陳ちゃんにそっくりで、なるほど親戚と分かる。「ガハハ、よう来たの。久しぶりに駅まで来たわ。ホントは仕事だったんじゃけど、あんたの父ちゃんに言われて、迎えに来たんじゃわ。交通費はあんたの父ちゃんに、請求するよう言われとるけ、心配せんでええわ。え、あっ?駐車場料金?おい、ちょっとしかおらんかったろう。5元もすんのかい。まあ、ええわ、祝儀代わりに駐車代は、あたしが出してやるわ。え、なんじゃて?ゴミ捨てたら、罰金?聞いたことないで、そんなん。それより、右の奥の建物、あそこがあたしが昔働いとったとこで。おっと、それより紹介してよ。中国語分かる?え、方言はわからん?そんで、なんて呼べばええんかな。日本語なんてミシミシくらいしかわからんわ。お、あの前のでかい建物の裏に学校があってな、そこにあたしの娘がかよっとるんで。……」名前を告げるだけで、あとは、親戚の近況に話がうつり、会話ではなく、親戚のおばさんの豪快な一方通行の話に、陳ちゃんが楽しそうに相槌をうつ。半分ほどしかわからない方言に傾聴する努力を諦め、中国独特の代わり映えのしない市内の渋滞を抜け、奥行きの広がる郊外へと進む景色を眺めることにした。安徽の省都、合肥から車で二時間ほど北へ向かう。もともとは、ありきたりな農村だった場所で、最近、国際空港ができたため、再開発が進められている。何もない場所に片側三車線の道路が敷かれ、高層の骨組みが散見される。大陸の奥行きに比して、立体建築物は違和感しかない。数年後には、人工物が集約され、違和感が消滅するのだろうか。中国の発展のスピードを、"浸食”と表現したくなるのは、日本人だからか。新設の舗装された幹線道路から突然右に外れ、地雷でも埋まっていたかのような凹凸のあるラフロードに入る。車両の揺れに身を任せ、目的地が近づいたことを知る。

 雨後のぬかるみに気をつけるように言われるも、待ち受ける両親と親戚に気を取られる。実家は、大地に埋もれた、むき出し煉瓦の平屋であった。江戸の長屋のような、横に十軒ほど連なっている。表は小さな家庭菜園と、道を挟んで平行にのびたため池、裏手は小麦の畑が広がっている。実家からの眺めは、薄靄がかかっており、遠く数棟の高層建築物の無骨さは分かるが、地平線などというロマンはなかった。この煤けた薄靄は、中国農村の現状を示唆しているのか、ただ愚鈍な脳が作り上げた心象なのか、曖昧だった。

 明瞭な挨拶もなく、到着と同時にはじめられた昼食は、いかにも中国的な展開だった。明らかに歓待されているとわかる、豚、鳥、鴨、魚の料理と白酒。陳ちゃんに、ぼくには何もしてくれるなと伝えてはいたが、一つの儀式みたいなものだと納得し、近い皿から箸をつけていく。中心は、迎えに来てくれた親戚のおばさんだった。迎えに行ったことをさも大変な苦労だったかのように大げさに語ること(そして豪快に酒あおる)で、場を暖めてくれ、何もしゃべらない自分と、明らかに堅さのある義両親のフォローをしてくれていた。関係性はわからないが、ほかにも子ども連れの親戚が日本人見学にきており、食事に参加していた。

 実家に到着した瞬間から、陳ちゃんは"子ども”に戻った。杭州では、母であり妻であるところの働き者なのだが、ここでは、娘として、両親のあいだに挟まり働く。囲いと屋根があるだけの家の、食事の準備には、菜園から青菜摘み、生きた鳥を絞め、竈に薪をくべつつ料理を煮込む、習慣のまるで異なるなかで、陳ちゃんは、明らかに幼少のころより染み着いている生活に、瞬時に切り替わった。生活の違いは、ぼくにはまるでキャンプに来ているかのような感覚を得ただけに、娘として家に浸透した陳ちゃんの様変わりに、驚かされた。働き者ゆえにこうなったのか、働かざるを得ない環境に身体が形づくられたのか、ただしっかり者の娘という役は、親への甘えからくる幼さがあり、彼女の子ども時代が、くっきりと目に浮かんだ。

 そもそも家事のできないぼくは、手持ちぶさたと、この家を見たときに、何故か思い浮かんでしまった三匹の子豚の童話への罪悪感から、奇妙な使命感にかられた。繊細な文明を持つ日本人として、次に来るまでに、何か便利な生活な道具を取りそろえてあげよう、と。だが、この使命感は、すぐに頓挫した。ここの生活は、これで完成されており、余人の浅知恵を受け付けない。だからこそ、陳ちゃんは実家に戻った瞬間に、家に溶け込んだのだ。ここには、炊飯器がある。つかった形跡がほとんどないから、聞いてみると、戻ってきた回答は、旧正月で家族がみな戻ってきたとき、ご飯をたくさん炊く必要があり、そのときに使う。ちなみにこの炊飯器は数年前に会社の忘年会で配られた景品で、陳ちゃんが親にプレゼントし、一年に数日使うために存在している。中庭にはタライが置いてある。野菜や食器洗い、衣服の洗濯などをする万能の道具だ。それに小さな穴が空いており、少しずつ漏れていることに気がついた。陳ちゃんに、タライなら近くの町にあるだろうから、こっそり買って交換してあげればいいと、告げたところ、彼女はほんの少し顔を赤らめて言った、「奥に新品はあるんだけど、もったいないから、このまま使ってる」。ぼくは、野蛮な西洋人ではないから、西洋文明が唯一無二で、みなが画一的に習うべきだ、などとは思わない。便利さへの流れは、決して止めることはできないだろうけれど、それにあらがう意識もなく、完成された生活を維持できるのであれば、それにこしたことはないはずだ。

 ぼくが、竈のサイズに合わせた大きな中華鍋をふるう義母の側で、ぼんやりその姿を眺めていると、義母は鍋から目を離すことなく、一言問うた。「子ども(陳ちゃんの連れ子)はどうして来てないんだ」。面接の採用不採用を決定づける、切り口の鋭さに、この人は、母なのだ、と緊張しつつ、用意していた答えを告げる。「小学校5年間これまで皆勤で、休みを取りたくないって本人が言ったんです。嬉々として友達の家に泊まりに行きました」。作り話ではないので、よどみなく回答できたと思う。「そう」、それで終わった。面接官の表情を読みとろうとしたが、なんら変化はなかった。それが正しい回答だったのかどうかもわからない。背丈は陳ちゃんと変わらず、小柄で、口元はそっくり、体型は丸まるとしている人なのだが、非常に特徴的なパーツがある。眼。黒眼勝ちで、その黒眼が動かない。鍋から目を離さないようでありながら、こちらが観察されているようにも感じる。視線がなく、常に全体を見抜いているかのようで、昆虫の複眼を思わせる。決して無表情なのではない。陳ちゃんと談笑しているときは、目尻に深い三本のしわが寄り、愛嬌のある顔つきになる。それでも、何故か義母の視線を追えない。

 この実家訪問の後しばらくして、陳ちゃん、義母、中学生の姪との四人で、上海の浦東空港に行く機会があった。飛行機を間近でみることがはじめての二人を、陳ちゃんが率先して案内する。国際線の到着ロビーを横切ったとき、そこは帰国でのぼせた中国人ツアー客、スーツケースを不安そうに押す西洋人や、迎えに待ちくたびれた人たちで、ごった返していた。人混みをすり抜け進む中、義母が何かつぶやき、陳ちゃんは振り返り何かを探すそぶりをみせた。「何?」「母がね、さっきすれ違った帽子かぶった女の人、足の細さに比べて、靴が異常に大きかったって」

 目線、視線は、直線的であり、その人の興味や性格が、無意識のうちにあらわれ、吐き出す言葉よりも雄弁に、真実を語る。義母には、視線がない。空港での出来事は、義母が「靴」や若い子のファッションに興味があったわけではなく、異常を関知したことで、それを言葉にしたように思えた。そこにあるのは単に警戒なのだろうか。厳しい母でありながら、娘のよき理解者であることは見て取れ、ときに、いたずらがばれた子どものように、はにかんだ表情すら浮かべる人なので、その虚無の瞳が何をあらわしているのか、よくわからない。義母が笑顔を浮かべたとき、必要以上にほっとする自分がいる。


 義父とは、義母以上に会話を交わしていない。自分は、義父と二人きりになったときの沈黙に、居心地の悪さを感じないのだが、義父が近所の人とは、屈託なく世間話をしているのを見るにつけ、やはり自分にたいして含むところがあるのだろうと思う。刻苦勤勉を体現している人であり、働き好きの陳ちゃんのリズム感のあるそれとは、重量感が異なる。文字通り、農夫。農閑期には、建築現場などに出稼ぎにでるという。浅黒い肌、節くれ立った指、無駄のない細身に、すり切れ、継ぎを張ったジーンズをはく。陳ちゃんが物思いに耽るときにする眉を寄せる動作は、父譲りだ。心と体ともに、無駄をそぎ落とし、凝縮したかのような、硬さがある。義父に対する印象を決定づけたのは、言葉ではなかった。

 二日目の朝だった。中庭にぼんやり座って歯を磨いているとき、目に映った光景。義父はただ、正門で、背を向けて立っていた。門の内側は明かりなく、暗闇で、門の四角形が額縁となり、義父が大地に屹立する絵となり映った。視線は見えないが朝靄の奥にある何かが見えていたのかもしれない。背中が大きく見えたわけではない、少しがに股の足が踏みしめている大地と、たった一人の人間。ふと、昔見た魯迅の版画の出てくる農夫が思い浮かんだ。凄みのある黒さ。

 都市に住む人間は、人間社会が作り上げたシステムの城に守られている。地震や台風など自然の脅威にさらされようが、それを組織でリカバリする術があり、たまに孤独死などというイレギュラーこそあれ、城の中にさえいれば、自然と対峙することもない。本来自然の中にある、熾烈な生と死の淘汰、それを日々実感しながら暮らす日本人はもう皆無だろう。

 ここの農夫は、たった一人で、自然に対峙しなければならない。のっぺりと平野広がる地面に、身を隠す場所もない。天を支えるアトラス。大地に足を踏みしめる者に、人生を呪うことも絶望もない。ここでは、思想は、鎧ではなく、骨を溶かす酸だ。都市社会が常識になっている自分にとって、人間がたった一人で自然と対峙するというのは、物語世界でしかなかった。

 自分は、人間の築いた社会に全くの信用を寄せていないくせに、その中から離脱しようともせず、むしろその安全な内奥へとにじり入ることしかできない。

 星野道夫のエッセイに、アラスカのある島にたった一人で住む漁師の話がある。アザラシの皮を採って暮らす。他の人間との交流は年にたった一日。人の集まる村まで出てきて、一年分のアザラシの皮を売り、そのお金で、一年分の新聞を購入する。その漁師は、毎日、ちょうど一年遅れの新聞を読むのを習慣にしているという。

 義父は、もちろん、家族あり近所つきあいもある。社会の一員である。家の壁には、何年前かわからぬ旧正月の対聯が張ってあり、鶏小屋の屋根には、村政府の指示で買ったという小さなソーラーパネル(隣の家のもあった)がある。出稼ぎ先の工事現場で働いていれば、一人の苦力クーリーにしか見えないだろう。それでも、ぼくが目撃した"絵"は、確かに"たった一人で自然に対峙する農夫”だった。義父の水気のない硬さは、自然にあらがうために、人工的に作り上げられたものだ。柔軟さは、押しつぶされてしまう。吹きさらしの猛威と同じだけの人工的硬度。自然が"恵み”でない文化は、人間本位になる。西洋文化がいうところの、神の創造物であるところの人間本位とは、根本的に違う。生存していくために不可欠な人間本位。それが文化の礎になるからこそ、たとえばオリンピックを開催するにあたり、天候をコントロールするために、ミサイルを使用することにためらいがなく、優秀な遺伝子を残すための遺伝子操作に躊躇しない。この中国文化の原点は、自然との対峙だろう。義父は体現者だ。義父はたった独りだった。

 自分の父は、英語教師で、数年前に退職した。優しい人で、弱さも強さもさらけ出せる、柔らかさがある。ぼくは、父の優しさは学べなかったが、折にふれて、影響されたことを実感する。学べなかった優しさを含めて、敬愛している。義父に対しては、絵となった一瞬から、"畏敬”の念が生まれた。つたない中国語で、会話する必要もない。接するのに、言葉を必要としないというのは、とても安心感がある。義父からどう思われようが、一方通行の畏敬の念は変わらないだろう。食後の短い時間、抗日ドラマを微動だにせず見る義父に。


 陳ちゃんが祖母の見舞いに行くというので、同行した。小さい頃はよく面倒をお見てもらっていたが、痴呆がひどくなり、義父母と親戚とのあいだにトラブルもあり、養老院に入っているとのこと。義父の電動三輪の荷台に乗り、ゆるゆると風を切る。新設の六車線ある幹線道路を横切り、ぬかるむ泥道を器用に避け、対向車に一声かけ、等間隔にならぶ街路樹をくぐり、ビニール袋をつつくアヒルを尻目に、さらなる郊外に外れていく。終わりの見えない平野部でも、道の終わりまでくると、世界の果てにきてしまったかのような感覚になる。

 そして、果てまで来て姿を現したのが、養老院に併設されている簡素な教会だった。世界の果ての十字架。ここまでシンボル性の強い十字架を、はじめてみた。十字架をみたとき、ああ、大陸の田舎の町から、さらに外れた場所で、人生の最期を過ごすひとたち、この人たちも、最期に救われたいんだ、という変な感動がぼくを満たした。もし教会がなければ、もしかしたら、この老人たちを、仙人か何か、人ならざるものに見えたかもしれない。そのくらい、男女の老人たちは、いきなり三輪車で乗り付けてきたぼくたちに対し、なんら言葉を発することなく、奇異な目で、あるいは、まるで無関心に、迎え入れてくれた。

 人生の最晩年に、救いを求めて神にすがる。

 近年、中国でキリスト教徒が増えてきているという。ぼく自身、工業地帯を走る路線バスの中で、中国語訳の旧約聖書を読んでいる若い人を見かけたことがある。無類のお金好きである中国人が、精神的な何かを求めることは、バランス感覚なのだろうか。どこかしら満たされない日本人の若い人たちが、宗教に救いを求めるという話は、あまり聞いたことがない。決して批判的な意味ではないが、宗教的な部分を科学で否定してしまうと、心の拠り所が不安定になってしまう人が、少なからず出てくるはずだ。そのときに、心の健全さは、どのように保つのだろう。平坦で凹凸のない人生を、都市社会は、近づけてくれこそすれ、保証はしてくれない。ふとした機会に、それは近親の病気でもいい、生や死を思うとき、神にすがれないとすれば、自分自身が強くあるしかない。

 ぼく自身は、自分の”運”を信じている。今回の結婚でもそうだが、もともと結婚する気もないと嘯き、悩み、諦め、ある日突如スイッチが入って、結婚すると決めた、その瞬間の自分の決断を信じることにしている。頭で考え抜き、決めつけ、その先に、天啓のように閃く、それまで悩んだことを否定する決断、その決断が、正しいものと、信じることにしている。広島から大阪へ、文学研究から製造業への就職、そして子どものいる外国人との結婚。つねに、周囲からの期待や予想を裏切る決断をしてきている。この天啓的な決断は、ぼく自身は、宗教的だと思う。神、どの神か知らないが、それでもぼく自身の中にいて、天啓を示してくれる。よく近しい人から、何を考えているのかわからない、と言われるが、正直なところ、自分でも何を考えているのか分かっていない。ただ、優柔不断なぼくが、大きく下した決断、これは正しい道だと信じている。

 この養老院の老人たち。家で世話をしてくれる人もなく、世界の果てで呆けている老人たち。人生の最期に出会った十字架は、彼らを天国に導いてくれるのだろうか。

 結局、陳ちゃんの祖母は、町の病院に入院していることがわかり、ここにはいなかった。町への戻り道は、幸せ、だとか、神、だとかいう言葉が、頭の中をぐるぐる回り、景色は素通りしていった。


 夜

眠気はさざ波のようにやってくるのだが、潮が引くと目が覚める。

時を告げる鶏は、明け方ではなく、夜中にも鳴く。

静けさを意識したときの騒々しさ。



 帰りは、路線バスで合肥まで戻った。オンボロのバスの座席カバーにあった、精神病の特効薬を発見、特許申請済み、という田舎の病院の広告に心惹かれた。

 隣に座る陳ちゃんは、帰り道もまた幸せそうで、実家でもらった小麦や小魚の乾物などの戦利品の一つ一つを嬉しそうに語り、予想通り父母にも気に入ってもらえたでしょ、と笑顔を見せた。


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