ハル遠からじ (7)
ホワイトデーの朝。良い天気だ。いつもよりも清々しい。お弁当の準備をして、カバンに詰めて、「いってきます」って言って、玄関の外に。
「おはよう、ヒナ」
「おはよう、ハル」
すぐそこで、ハルが待っている。そういう約束だった。
学校に行く前に少し寄り道したいから、ヒナの家の前で待ち合わせしようって。天気予報もばっちり確認済み。まあ、雨だとしても別に構わなかったかな。ハルと一緒に雨音を聞いていると、昔を思い出して今でも胸がときめく。
ヒナを助けてくれたハル。ハルの背中の感触。心臓の音。そして、恋に落ちる音。ふふ、ヒナ、なんだか今とってもどきどきしている。
「何処に行くの?」
「そんなに遠くじゃないよ」
ハルについて歩く。そういえば、去年告白された時もこんな感じでした。学校の裏まで歩いていって、そこで好きだって言われて。ヒナの、明るい高校生活は始まった。
この一年で、ヒナは多分一生分の幸せを手に入れた気がするよ。ずっと欲しかった、ハルの気持ち。これが手に入ったなら、もうこれ以上の幸せなんて何も無いんだから。間違いなく、人生最大級です。
太陽の光が暖かい。春だ。ハルの季節だ。霧が出ている。ふんわりと、世界をソフトフォーカスに沈めている。
土手の上の道に出た。早い時間だけど、ジョギングしている人や、犬の散歩をしている人たちがちらほら。見下ろす河原の芝生が、霧の海で霞んでいる。まるで、ナシュトの見せる乳白色の湖みたい。
ハルが何処に向かっているのかは、もうはっきりとしている。
二人が始まった場所。ヒナがハルに恋をして。ハルがヒナを背負い続けようと決めた場所。
昔、ヒナが小学校三年生の頃。ヒナは生まれたばかりのシュウにお母さんを取られると思って、雨の中自転車で家を飛び出した。宛てもなく走り続けるうちに、ヒナは転倒して、この土手の下に転げ落ちた。
怪我をして動けないヒナの泣き声を聞いてくれる人は、誰もいなかった。ヒナは一人ぼっちだ。もうヒナのことなんて誰も助けてくれないんだって。そう思った時。
ハルは、来てくれた。
ヒナを背負ってここを登った。ハルのお母さんに病院に連れていかれる間、ずっと手を繋いでいてくれた。「大丈夫だよ」って言ってくれた。
そして。
中学の時、一度だけ見てしまったハルの心の中。ハルがヒナに望んでいたこと。
二人で並んで、笑って。あの場所、河原の土手の上に立っていること。優しい願い。純粋で、素敵なハルの気持ち。
ハルは今、願いを叶えようとしている。ずっとずっと、ハルの心の中にしまわれていた、宝物のような眩しい想い。
うん、ヒナも、一緒にいたい。その場所で、ハルと同じように感じたい。だから。
大丈夫だよ。待ってます。
思っていた通りのその場所で、ハルは歩みを止めた。ヒナが横に並ぶ。ハルの顔を見て、微笑む。ハルは真剣な表情。緊張してるね。
「ハル、堅くなってる」
「そりゃあ、一世一代なんだから。それなりの覚悟を決めてるんだ」
それはそれは。有難いことです。軽くてもなんでも良かったのに。ハルは真面目だなぁ。そういうところも大好きですよ。
「じゃあ、聞かせて。ヒナが待っているもの」
多分、ハルは正しく応えてくれる。ヒナが欲しいものなんて、きっとハルは判りきってる。何年も一緒にいるんだもの、当たり前だよね。
お互いの気持ちだって、本当は判ってた。ちょっと臆病になって、遠回りしちゃったこともあった。でも、そのお陰で高校生活はどきどきしっぱなしだった。
好き、っていいな。こうやって相手の全てを受け入れて。優しくなろうって、思える。
世界が、きらめいて見える。
「ヒナが待っているって言うよりは、俺がそうしたいってだけなんだ」
でしょうね。ハルは独占欲が強いからなぁ。まあ、ヒナもそうしたいと思っているから、それでも良いんじゃない?
「私は、ハルがそうしてくれることを待ってるんじゃないかな?」
今日はあんまりとぼけないでおこう。ハルがちゃんと言ってくれるように、ね。
「どうかな。どうも、俺はヒナが思うよりも、なんというか、ずっと重いことを言おうとしているのかもしれない」
へぇ。ハル、ヒナのことそんなに好きなの?
じゃあ、ヒナと勝負してみる?どっちの愛が重いのか。ヒナも負けない自信はあるよ?
ハルがちゃんと言ってくれたら、ヒナも教えてあげる。
ヒナの愛が、どれほど重いのか。
「ええっと、まずは。俺は、ヒナのことが好きだよ。ずっと好きだった。今でも好きだ。ホントに、すごく好きだ」
「ありがと。とっても嬉しい」
好きが溢れてますね。くすぐったい。ハルに好きって言われると、心がふわふわしてくる。
「ヒナは俺に色んなことをしてくれる。何でもしてくれて、何でも許してくれて、その、つい甘えてしまう」
ハルにされて嫌なことなんて何も無いんだよ。ハルのお世話をするのも大好き。甘えてくれても良いよ。ハルはヒナの居場所なんだから。ハルも、ヒナの所にいてほしい。ヒナを、ハルの居場所にしてください。
「ヒナは、ずっと俺の大事な人だ。大切で、その、簡単に手を出すというか、そういう気持ちになっちゃいけないというか」
はいはい。我慢してるんですよね。別にいいのに。思うままに汚してくれても構わないのに。その辺はちゃんと理解出来てるつもりだよ。ハルも男の子なんだなって。
「無理しなくてもいいのに。それとも私、そんなに魅力ない?」
「そんなことないよ。可愛いよ。ヒナは、可愛い。綺麗で、素敵だ」
そう言ってもらえれば満足です。ハルのために可愛くしているんだからね。ヒナは全部、ハルのものだよ。
「この前、ウチに来て晩飯作ってくれただろ」
ハルのお誕生日だね。あれは大変だった。作るのもそうだけど、ハルもカイも、ハルのお父さんも矢鱈食べるんだもん。ハルのお母さんちょっと不機嫌になっちゃったじゃない。そっちの気遣いもしなきゃで、ヒナはいっぱいいっぱいだったよ。頼むから、普段からお母さんのこと、もうちょっと感謝してあげてね?
「あの時、凄く楽しくてさ。家族がいて、ヒナがいて、みんなで賑やかなのが、俺は好きなんだなって」
ハルが笑った。あんまりしない笑顔だ。ハル、そんな風に笑うの、ヒナは初めて見た。ヒナが見たことの無いハル。
「ヒナ」
ハルの右手があがる。ヒナの頬に、掌が触れる。くすぐったい。あたたかい。
ハルの笑顔から、目が離せない。優しい。ヒナのことだけを見て。ヒナのことだけを想って。
すごい。どきどきが止まらない。ハル、ヒナ、今すごくどきどきしてる。
きっと今までの人生で一番、ハルのことが好きだって思ってる。ハルの笑顔が、視線が、ヒナを照らして、貫いて。
ヒナの中にいる本当のヒナが、ハルの姿に見惚れている。うん、自分でもわけがわからない。なんだろう、この感じ。ハル、ヒナは今、ハルに全てを開いている。
「俺がそうしたいってだけのわがまま。こんなことを言って、ヒナを困らせるだけかもしれない。でも、俺からのお願いだ」
ハル。ヒナは、待ってた。今この瞬間のためだけに、ここまで生きてきた。
「ヒナ、俺と、家族を作ってほしい」
ぼうっとしてしまった。確実に意識が飛んだ。何にも考えがまとまらない。ええっと、ええっと。
顔が熱い。うわ、熱い。ハルの掌。思わず両手で掴む。何やってんだ。ええっと、ええっと。
「ヒナ?」
ご、ごめん、ハル。ちょっとだけ待って。ちょっとでいいから。ホントにちょっと。
落ち着け心臓。もう、いいから静まって、止まらない程度に。一瞬なら止まっても良いから。ブレーキ。急制動。エマージェンシーブレーキ。
深呼吸しようか。大きく吸って。吸って。はい、吸って。吸ってー。そのまま吸ってー。吸ってー。
・・・過呼吸で死ぬわ。何を混乱しているんだ。
「ええっと、やっぱり重かったかな。そういうつもりじゃ・・・」
「違うの。そうじゃないの」
ハル、そうじゃないの。
「その、今の、プロポーズ、だよね?」
演技でも計算でもなく、目が潤んでしまっている。うん、判ってた。こういう言葉をかけてくれるって、そう思ってた。
「まあ、そのつもりだ」
思ってはいても、いざ現実に言われてみたら、感情が完全に大爆発してしまった。うわぁ、って。もう理性とか思考とか、何処に行ったのか判らないくらい砕け散った。星になれィ、って言われた気分。
ハルはヒナと、家族を作りたいの?
震える。
手が、足が、身体が。心が。
どうしよう。ハルはちゃんと応えてくれた。ヒナに、全部の気持ちをぶつけてくれた。
ハルの愛を感じる。ヒナは、ハルの気持ちを手に入れた。ずっと見失っていた、大切な人の、大切な想いを。
こんな。
こんな素敵なものを、ハルはヒナに与えてくれた。
嬉しい。どうしよう。涙が出てくる。身体も、意識も、何もかもが言うことを聞かない。
しっかりしなさい、ヒナ。ハルが、全部の気持ちをヒナにぶつけてくれたんだよ?だったら、ヒナにもやることがあるでしょう?
ヒナも、一歩前に進まないと。ハルの気持ちに、応えないと。
止まれ、涙。止まれ、震え。止まれ、心臓。あ、心臓はダメだ。動いて動いて。
「ハル、あのね」
心の中で約束したから、言わないとだよね。ヒナの夢。ヒナの願い。
「私、夢があるの。ハルがいないと叶えられない夢」
ハルの手を、強く握る。そうか、ついにこれを言葉にするのか。まさかこんな日が来るなんて。それも、こんなにも早く。
恥ずかしい。恥ずかしくて死んじゃう。
でも、ハルだってちゃんとヒナにプロポーズしてくれたんだ。
なら、ヒナも言うんだ。告白するんだ。
ずっとずっと、想い続けてきた夢を。願いを。大好きなハルにぶつけるんだ。
「えっとね、色々誤解とか、変な印象とか持たれるかもしれないから、ずっと言えなかったんだけどね」
なあなあでも良かった。なし崩しでも良かった。結果が得られるのなら、過程なんて本当にどうでも良い。
そう考えていた時期もあった。
「ハルが、私のことをそんなに大切に想ってくれてるなら、言ってしまっても良いかなって」
ううん、ハルがヒナのことをそこまで愛してくれているから。
ヒナは、この願いを口にします。ハルに、ヒナのことを知ってほしいから。
ごめんね、愛が重くて。ヒナの愛は、やっぱりハルに負けない。少なくとも、同じくらいは重い。そう思うよ。
「私ね」
ハル、大好きだよ。
「私、ハルの子供を産みたいの」
今度はハルが固まる番だった。完全に真っ赤。まあ、そうだよね。そうなるよね。
ええっと、プロセスの方じゃないよ?結果の方ね。その、行為じゃなくてそのリザルトの方だからね。もう、だから言いたくなかったんだ。滅茶苦茶恥ずかしい。
ヒナの中に、大好きなハルが入ってきて、ヒナと一つになる。それが新しい命になって産まれてくる。
それって、もう考えただけでどきどきして、幸せな気持ちになってくる。だって、ヒナとハルが、一つになるんだよ?それが子供になって、ヒナの中で育つ、産まれてくる。大好きなハルと自分の子供。すごく素敵。
ヒナとハルの想いを繋いで、この世界に残す。二人の絆の証。世界のきらめき。
とっても重い、ヒナの愛。
ずっと、それが出来たらいいなって思っていた。だって、ヒナはハルのことが大好きで。ずっとずっと、いつまでも一緒にいたくて。ハルのために、ヒナに出来ること、ヒナにしか出来ないことがないかなって思ってて。
お嫁さん、になれれば、それが一番良いんだけどさ。それには、ハルにちゃんと選んでもらう必要があるでしょう?
ヒナはそんな、物凄く可愛い子ってわけじゃない。どんなに頑張っても、せいぜい普通の女の子。他に沢山いる女の子の中から、ハルに選んでもらえる、奥さんにしてもらえるだなんて。そんな自信は、正直全然無かったんだ。
だったら、せめてハルの子供だけでも残したいなって、そんな風に思ってた。ハルの赤ちゃん、ヒナも欲しいもの。ハルが望むなら、ヒナはハルの好きにしてもらって構わない。ヒナに出来ることは、そうやってハルの子供を身ごもって、産んであげることくらいかなぁって。
そんなこと考えてたんだよ。馬鹿でしょ?馬鹿だよね。大馬鹿。
本当に、なあなあでも、なし崩しでも良かったんだよ?ハルが思うままに汚してくれても良かったんだよ?ヒナはね、ハルの子供が産めれば、それで幸せだったの。そんな、投げやりな夢だったんだ。
それなのに。
ハルは、ヒナのことを好きだって言ってくれた。
ヒナのことを大切だって言ってくれた。
ヒナと家族を作りたいって言ってくれた。
ヒナに、プロポーズしてくれた。
嬉しい。
嬉しくて死んでしまいそう。
去年、ハルに告白された時、ヒナは一度その場で死んだよ。ばらばらになって、また生まれ変わった。そのくらいの衝撃だった。ハルに好きって言われるの、ヒナにとってはものすごいことだったんだよ。
それが今度はプロポーズだって。もうおかしくなっちゃいそう。こんな日が来るかもって、想像していなかったわけじゃない。でも。
現実にこの時が来たら、その衝撃は、もう何もかもを上回っていた。ヒナは今、ハルで満たされている。それ以外の何もかもが、光になって意味を成さない。世界は、光になった。ヒナとハルを包む、眩しくて優しい光に。
ハル。ヒナは、ハルのことが好き。もう一生離さない。ずっとずっと、ヒナの傍にいてください。
「作ろう。私たちの、家族」
ハルの胸に顔をうずめる。ハルが抱き締めてくれる。あたたかい、ヒナの居場所。ここは、もうヒナだけの場所になった。良かった。心の中が、ふわふわしてくる。
「一生、大事にしてください」
あの時、バレンタインの日に言おうとした言葉。ハルが、ヒナに言わせようとしたお願い。
お待たせ、ハル。引き留めちゃってゴメンね。はい、ちゃんと言いましたよ。一か月間、頑張って溜めました。
「ああ。約束する。ヒナのこと、一生大事にするよ」
ありがとう、ハル。ヒナは待ってました。ハルのその言葉を。
ヒナは、ハルのことが好き。誰よりも、何よりも。ハルのこと、大好き。愛してる。
で、どうするの?まだ我慢するの?
「いや、だって高校生だし。その、何か間違いとかあったら困るだろ?」
はあ、ハルはそういう間違いが起きかねないやり方を望むんですね。そういうこと考えるから言いたくなかったんだよ。
「ちょ、事故とかだってあり得るんだぞ?」
はいはい。ハルは真面目なヘタレですからねー。
「ヒナとは家族を作る約束をしたんだ。俺は、それをちゃんと守りたい」
うん、わかった。ハルの気持ちはちゃんと伝わったよ。ヒナはハルにお任せ。方針変更はいつでも受け付けるからね。
「ヒナがそう思っていてくれてるなら、それで良いんだ」
じゃあ、子供は何人欲しい?一人じゃ寂しいよね。男の子?女の子?
「いきなりそれかよ」
あー、ハルのエッチ。ハルこそいきなり何考えてるんだか。
世界は光と優しさに満ちている。
ヒナは、そう信じてる。
これからヒナとハルが生きていく世界。そこには、夢と希望がある。
愛がある。
そう、信じてる。
曙川ヒナ、十六才になりました。
読了、ありがとうございました。
物語は「ハルを夢視ル銀の鍵」シリーズ「ハナのカオリ」に続きます。
よろしければそちらも引き続きお楽しみください。