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三章 卑劣なやり方

 カイルの作った朝食を食べ、荷物をまとめ、穴を抜けて外へ出た。

 思った以上に、日が昇っている。クラリと、目のくらむ眩しさに。フィリスは少しでも光を遮ろうと、手で小さな屋根を作る。

「いい天気だね」

「そりゃあ、この時期はほとんど降らないからな」

 毎年毎年、水が不足しがちな時期だ。それでもたまには、ザアッと大粒の雨が降って、サッと上がることもある。

 もしもその時、雨を避けられない状況にいたら。びしょ濡れで歩き回るのも、着替えを手に入れるにも、いらぬ苦労を強いられそうだ。

 最初から着替えを持ち歩いても、雨が降れば無駄になる。かといって、濡れたまま近くの街で買おうものなら、やはり目につく。人の記憶に残れば、追ってくる奴らに見つかりやすくなってしまう。

 そんな面倒は、できるだけ避けたい。だが、時には綺麗な湯を浴びて、新しい服に着替えたいとも思う。

(しばらく、降らないといいんだけど)

 ぼんやりと願いながら、フィリスは歩き出したカイルの背中を追う。

 太陽の方角から、北へ向かっているようだ。昨日と打って変わって、カイルの足取りに迷いは見られない。

 彼の中では、すでに行き先がはっきりと定まっているのだろう。

(……北っていえば、父さんと母さんが今いる遺跡も、北の方だったっけ)

 そういえば、会ってすぐに、発掘作業に参加しているようなことをこぼしていた。といことは、両親もいるし、発掘中の遺跡に連れていくつもりなのか。

(まあ、僕だけどこかに放っていけるような人じゃなさそうだし、それが無難かもね)

 フィリスとしても、両親のそばにいれば、少しは安心できる。ただ、余計な火種を持ち込む可能性が、少なからず引っかかるくらいで。

 両親のいる遺跡まで、一日二日で行ける距離ではない。追っ手を避けつつ向かうことを考慮すれば、半月はかかるだろう。

 その間に何としても、『ペルデレ リッテル』を正しく戻したい。

 まだ、最初の一ページ目すらわかっていないのに。たった半月で、戻せるのか。どうしても、拭いきれない不安がひっそりと残る。

 大きな荷袋を背負った背中を追いながら、頭の中には本のページをずらっと並べる。一枚一枚をじっくり眺め、正解につながる手がかりを、どうにかして探さなければ。

(プリームム、が二枚。ブライアン……っと、この言語だと確か、ブリュンって発音だったかな? それで始まるのが三枚。えーっと、こっちは地名かな? 二枚あるけど、これ、ブリアって読めばいいのかな? それっぽい地名は、今は残ってないと思うけど……)

 探索の終了している土地は、すべて地図となっている。もちろん、誰でも見ることができるし、フィリスの頭の中に入っているのは最新のものだ。

 ただし、未開の地である空白部分が、地図の半分ほどを占めている。だからそこに、『ブリア』と発音できる地名がある可能性は否定できない。

(あとは、クレールスと、アルクス、フートゥム? に、ゲネシス。ティミドゥス、プクス……かな? スクリフィキウムにデーポルツーティオー? にレベリオーって、ずいぶん怖い言葉もあるなぁ……)

 職業を示す言葉に、性格や行動を表す言葉。そんな中に、生け贄だの反逆者だの、少々恐ろしい単語もちらほらと並んでいる。一部は、発音の法則を知っていても、読み方がいまいち定かでないものもあった。

 初めて一読した時にも感じたが、つらつらと並ぶ単語も、かなり乱雑な印象だ。間をつなぐ言葉が一切ないせいか、すんなりと読めない。前後の意味のつながりが、想像の範疇を超えることもある。

 身振り手振りがない分、幼い子供の片言よりも、はるかに読み取りにくい。

(他に手がかりになるとしたら、最後の言葉かな? ……んー、ウィデーレ、アウディーレ、ロクィー、スキーレ……見る、聞く、話す、知る? 出だしに名詞が多いのは、この文末を受けて、ってことかな?)

 首をひねりつつ。時には、カイルの背中がそこにあることを確かめつつ。フィリスは頭の中の作業に没頭する。

 そのせいか、足下がすっかりおろそかになっていた。

 いきなり右足ががくんと沈み、体は大きく右へと傾く。左足は地面から離れる寸前で、支えたり踏み止まったりはできそうにない。

「きゃっ!」

 思いがけず悲鳴がこぼれる。取り繕っている余裕はなかった。

 今の状況がさっぱり把握できない。だが、何とかして立て直さなければ。

 左手で何でもいいからつかもうと、懸命に手を伸ばす。その手が、突然引っ張られた。

「……っにやってんだ!」

 体が沈むことのない地面に触れ、安堵の息をつく暇もなく。頭の上から、空気をビリビリ震わせる怒声が降り注ぐ。

「でかい穴が開いてるから避けろっつったとこだろーが!」

「……え?」

 思考にのめり込みすぎていて、まったく聞こえていなかった。

 きょとんとしているフィリスに、心底呆れ果てたのか。カイルはふうっと長く重い息を吐き出して、左手で頭をガシガシとかく。

「ぼけっと考えごとすんのはお前の勝手だけどな、人の話は一応耳に入れろ」

「あ、うん。なるべく気をつけるけど……」

「なるべく、じゃなくて、他人の話はきっちり聞け」

「そうすると、『ペルデレ リッテル』を正しく戻すなんて、とてもじゃないけどできないんだけど」

 いつもより低い位置から、カイルを見上げる。自然と、フィリスが睨みを利かせる形になった。

「ゆっくりやればいいだろ? そんなに急いでどうすんだ?」

「何となく、早く戻さないといけない気がするんだ。というか、ちゃんと戻せたら、安全になる気がするんだよね」

 確信があるわけではない。ただ、『ペルデレ リッテル』を正しい形にできれば。手元からなくなって、追われる理由もなくなる。

 なぜか、予感めいたものを感じていた。

「ふーん……じゃ、今度危ないとこがあったら、強引に進路を変えるか」

「あー、うん。その方がありがたいかも。あんたの背中は、ちゃんと見てるから」

 乾いた土のついた服を、両手でパタパタと払いながら。フィリスは何気なく、落ちかけた穴に目を向ける。

 ぽっかり。そんな表現の似合う穴だ。成人男性でも、二人はゆっくり並んで入れる。底までの距離も、パッと見た印象では、フィリスの背丈より深い。

 人の手で作るには、人数も日数も相当にかかるだろう。それだけの労力をかけながら、こうして放っておくとは思えない。かといって、自然にできたにしては、あからさまに不自然だった。

 自然物の匂いというか、雰囲気がない。

「この穴ってさ、何なんだろうね」

「埋葬用だ。死んでから準備すると、できるまでに遺体が腐って変な病気が流行ったりするからな。もう長くない住人がいる時は、早めに近場に用意しておくんだよ」

「……そう、なんだ」

 フィリスの暮らす村では、そういった習慣は見られなかった。森が近く、比較的やわらかい土地が多かったからかもしれない。

 ふわっと抜けた風が渦を巻き、穴の底から砂塵を巻き上げる。

 見るからに水気のない、乾ききって固いだろうそこに落ちていたら。さすがに、無傷というわけにはいかなかったはずだ。

 もし、足を痛めていたら。血が流れるような、大きなケガを負っていたら。

 あえて想像してみなくても、結果は目に見えている。

「……カイルさん」

 歩き出そうとしていた背中に、そっと呼びかける。振り返りはしなかったが、彼の足はピタッと止まった。

「助けてくれてありがと」

 できるだけゆっくりと、はっきり告げる。そのとたん、いくらか離れている背中は、ひどく驚いた顔を乗せて振り向く。

 そこまで極端に驚かれるようなことを、言った覚えはない。

「……何でそんな顔してるわけ?」

「いや、お前、ちゃんとお礼とか言えるんだな、と思って……」

「あのねぇ……僕だって、ありがたいと思った時は、感謝の気持ちくらい伝えるんだけど」

 お礼に対する返礼、を期待していたわけではない。それこそ、「ああ」でも「うん」でもいいから、聞こえた意思表示をして欲しかっただけなのに。

 まさか、礼もまともに言えない人間だと思われていたなんて。

 カイルに対する不満をあらわに、フィリスはジトッと彼を睨む。

「……行くぞ」

 気まずくなったのか。かろうじて聞き取れるくらいの小声でぼそっと呟き、カイルはさっさと歩き出す。仕方なく、フィリスは後を追った。


        §


 街で食料や飲み物を補給しつつ、調査済みの遺跡で寝る。数日に一度は、宿で湯を浴びたり、街で着替えを探したりして、日暮れまでに遺跡に着けなかったことがあった。そういう時は、わずかな月明かりの中を必死に歩く。ランプに明かりを入れるのは、ある程度遺跡の奥まで進んでからだ。

 そんな生活も、もう八日目になった。その間、一度もクマっぽい男たちとは遭遇しなかったため、油断があったのだろう。

 食料の補給に立ち寄った街は、今までのどの街より大きかった。

 街をぐるりと取り囲む塀は分厚くて高く、門の脇には物見台もある。街並みは、どこまでも一面の灰色で、ひんやりした雰囲気だ。木の板や赤茶けたレンガではなく、どっしりした石造りのせいだろうか。

「ここは結構大きな街だから、フラフラするなよ。もし迷子になったら、入ってきた門へ行って待ってろ。門の方向がわからなけりゃ、どこでもいいから門を目指せ。後で回収してやるから」

「あのねぇ、僕は迷子になんてならないってば」

「……毎回毎回、街でフラッと店に近寄って眺めてるくせに」

「うっ……」

 痛いところを突かれた。

 女の子らしい、可愛い小物や服。村にいても、身につける機会のない類なのに。ひょろっとして男っぽい外見には、似合いやしないのに。

 そういったものが目に入ると、ついつい近寄ってしまうのだ。

「恋人に買ってくなら、逃げ切ってからじっくり選べばいいと思うぞ」

「……はぁ?」

 うっかり目をすがめて、思い切り睨みつけてしまった。

 せっかく、男と勘違いしてくれているのに。わざわざ訂正する理由もないのに。これまでの快適さが失われ、ぎこちなくておかしな空気になったら。

(それはそれで、冗談じゃないんだけど……)

 事実を知ったら、彼は絶対に、態度も扱い方も変える。そんなことは、これっぽっちも望んでいない。

 わかりきっているのに、現状に不満を抱く部分がある。

「お前の村に、可愛い女の子がいただろ? 十六、七歳くらいの、髪の毛が長くてフワフワしてる子。その子が恋人で、土産を見てたんじゃないのか?」

 顔を見られたくなくて、フィリスはできるだけさりげなく、視線を足下に落とした。

 知られたくないのに、妙に苛立つのはなぜなのか。

 そもそも、恋人どころか、家族と同性の友人以外には「好き」だと言われたことさえないのに。

「……その子だったら、新婚だよ」

 彼の言う特徴に当てはまるのは、ただ一人。

 一つ年上で、ほんの数ヶ月前に結婚したばかりだ。見た目だけでなく性格も可愛い子で、三人の男が取り合っていたと、噂では聞いている。もっとも、彼女は最初から、夫となった男性しか見ていなかったが。

 ただ、同年代の同性は二人きりのため、友人と言える間柄ではある。フィリス自身、彼女に何か土産を買っていくのは、案外悪くないと考えていた。

「っていうか、いったいどんだけ村にいたわけ? あの子、今はあんまり家から離れないようにしてるはずなんだけど」

 元々、よそ者が来た時には、子供は顔を出してはいけないことになっている。既婚未婚問わず、年頃の娘も変わらない。警戒しすぎるに越したことはないのだ。

 しかも、彼女の今の家は、村の入り口に近くはない。中心から、いくらか外れたところにある。村の入り口から彼女の家まで、他の誰にも会わないというのは、いくら何でも考えにくい位置関係だ。

「入ってすぐのとこで歩いてたから、お前の家を聞いただけだ」

「えっ? あの子、そんなとこを歩いてたの? その上、カイルさんを見ても逃げなかったわけ? えー……どうしたんだろ……」

 女子供は、よそ者を見たら逃げるのが基本だ。それが、第一印象の悪いカイルならば、なおさらだろう。

 必要な食材は、フィリス同様、わざわざ家に届けてもらっている。暇を持て余さないように、毎日数人が話相手になりに家を訪れているはずだ。

 よりによって、カイルが訪ねてきている時に外にいる理由が。逃げなかったわけが。どう考えてもわからない。

(戻ったら、お土産を渡すついでに聞いてみようかな?)

 なるべく、自宅から出ないように。

 それはあくまで、新婚の女性に限った昔からのしきたりだ。外出を完全に禁止しているわけではないから、単なる気分転換だったのかもしれない。

 ただ、それがはっきりしないままというのは、どうにも座りが悪くて落ち着けなかった。

「……お前の村は、不思議なとこだな」

「まあ、いろいろあってね。よそ者が居着くなんて、滅多にないところだから」

 フィリスの言う『いろいろ』には、当然フィリス自身のことも含まれている。

 細かで記憶力の必要な規則が、それこそ嫌になるくらいある。それらを正確に守り通せる人間でなければ、村に住み着くことはできないのだ。

 何日か滞在したことのある者も、過去にはいた。

 気軽に愛称を呼びたがって、しつこく聞き出そうとしたり。既婚女性でもかまわず口説いたり。注意した人に暴力を振るったり。そんなことばかりで、全員あっという間に叩き出されている。

 何を警戒しているのか。どうして、あんなに住人以外を敵視するのか。その理由を、知りたいと思うことはある。だが、誰に聞いても教えてくれなかった。だからきっと、聞いてはいけないことなのだろう。

「最後に居着いたよそ者は、実は僕の両親だったりするんだよね」

 十七年ほど前。結婚を機に、あの村に住むようになったらしい。やはり、最初は歓迎されなかった。家が村の中心にあるのも、村人の監視が行き届くように、との考えがあったのか。しかし、細かな決まりを覚えて守る両親は、だんだん村の一員として迎えられるようになったそうだ。

 初めの数年は夫婦で、残りはほとんどフィリス一人で。

 ずっと、暮らしてきた村だ。いつか、帰る場所だ。

「んじゃ、その前はどうなんだ?」

「もう亡くなってる人が、最後に嫁に来た人だって。僕はそう聞いたけど」

「……まあ、ずいぶん外れにあるしな」

 呆れたような、引きつったような。妙な表情で、彼はため息と一緒に言葉を吐き出す。

「【探求者】か【探求助手】でも持ってないと、村から外に出ること自体がほとんどないからね。あの村で王都の方角を聞いても、逆に「おうとって何?」って聞かれるよ」

 誰に聞いても、村から徒歩で行ける距離の村や街しか、はっきりとはわからないに違いない。基本的に、万人に公開されているはずの大陸の地図すら、まともに見たことのない者ばかりだ。

「まあでも、ルールさえきっちり守ってくれる人だったら、ちゃんと歓迎するんじゃない? 僕の両親っていう例があるんだし」

 そんなことを話ながら歩いていると、カイルが「ちょっと待ってろ」と言い置いて、やや離れた店へ近づいていく。

 人の流れはそれなりにある。この場に留まるのは、邪魔になりそうだ。だからといって、人をかき分けて後を追うのは少々難しい。流れがゆるやかな場所で、大人しく待っているのが最善だろう。

 フィリスはキョロキョロと辺りを見回して、人の少ない一角を見つけた。

 ほんの少しだけ、流れに逆らって。フィリスは急ぎ足でそこへ向かう。

 家の壁に背中を預けて、ふうっと息を吐き出した。

 カイルの向かった店とは、人の川を挟んでいる。流れがゆるやかになった時を狙って、元いた辺りへ戻らなければ。

「……ねえ、お兄ちゃん」

 足下から聞こえた声に気づいてはいたが、それが自分のこととは思っていなかった。だから、服を引っ張られるまで、下に目を向けることもしないでいた。

「ねえ、お願いがあるんだけど……」

「悪いけど、僕は人を待ってるから。勝手に離れるわけにいかないし、他を当たってくれる?」

 相手は、十歳になっているかどうか、といった年頃の子供だ。

 ひどく冷たくて大人げない言い方だと、自覚している。それでも、彼の頼みを聞こうと頷けなかった。

「……お兄ちゃんの持ってる本、ちょうだい?」

 囁くような小声で呟かれた言葉に。フィリスはサッと顔色をなくして、背負っている荷物を家の壁にギュッと押しつける。

 同時に、見下ろしていた視線を睨みつけるものに変えた。

「……その本があったら、母さんに薬が買えるんだ」

 とたんに、フィリスの眉根が互いにグッと近寄る。

「他人から奪ったもので買った薬で、お母さんを助けたいの? それで、お母さんが喜んでくれるって、思ってるの? だいたいさぁ、その前に、自分でできること、全部やったわけ?」

 声音があまりに冷ややかだったからか。少年は、ゆるゆると下を向いてしまう。

「不幸だ、不幸だ、って嘆いてたら、誰かが絶対に助けてくれるの? 違うよね? 嘆いてるだけじゃ、誰も助けてくれない。何とかしようってすっごく頑張ってるうちに、優しい誰かが手を差し伸べてくれるんだよ」

 子供相手に、きついことを言ってしまった。

 そうわかっているから、フィリスは服のポケットを探る。

「これは僕から君への、手助け。残りは自分で頑張って」

 硬貨を一枚、少年の手へ強く押しつけた。

 呆然として動かない少年に、何となく居づらくなって。フィリスは仕方なく移動する。

 ジメジメと湿った細い路地を、気分で右に曲がった直後。

「フィリスだな」

 前方に人影が見えた。しかも、その人影に名前を呼ばれるだなんて。

(最悪!)

 返事をせず、踵を返す。だが、左右どちらの道にも、やはり人影がある。

 軽く舌打ちしたフィリスは、下唇をキュッと強く噛み締めた。

 居心地が悪いから。

 きっとこれは、そんな身勝手な理由で、彼に何も言わずにフラリと離れた罰だ。

 荷物の肩紐をギュッとつかんで、辺りを慎重に見回す。

 逃げられる場所は、もちろんない。うまく使えば、相手への障害物にできるものも、ほとんど見当たらない。

 自力でかいくぐるのは、あまりに無謀だ。

 かといって、カイルが探しに来るのを待っていたのでは、つかまってしまう。

(……この本を、渡すくらいなら)

 もう一度、肩紐をつかみ直した瞬間だった。

「フィリス!」

 カイルの怒声が響く。バタバタ走る足音が、重いものと軽いものの二種類。

「こっち!」

 声を張り上げて返事をすると、足音がぐんぐん近づいてきた。

 救援が来る前に片をつけようと考えたのだろう。男たちが一気に距離を詰めてくる。

「このっ!」

 運動は普通より得意。

 そう言っていたとおり。カイルは走ってきた速度を乗せて、道をふさいでいた一人を背中から蹴り飛ばす。

 思わず身を避けたフィリスをかすめ、飛んだ男は正面にいたもう一人を巻き込んだ。

「ちょっ……カイルさん! 僕まで巻き込むつもり!?」

「……わ、悪い……」

 むくれて怒りを表現しつつも、慌てて駆けつけてくれたことが何より嬉しくて。彼の顔を見て、心から安堵したことに驚いて。

 自分の気持ちが、よくわからなくて。

 フィリスは素直に、駆け出していけない。

「逃げるぞ!」

 背後から飛びかかってきた男から、逃がすように。駆け寄ったカイルが、フィリスをグイッと引き寄せる。

 一瞬だけ触れた体から、かすかなぬくもりが伝わって。どこにも逃げ場のない熱が、あっという間に頬を支配して。

 そのまま引っ張られたフィリスは、カイルと街を駆け抜ける。門を飛び出し、荒野の中を突き進んだ。


        §


 また、迷うのか。まだ、信じられないのか。

 自問しても、答えは出ない。いや、答えはもう、はっきりしている。

「……ねえ、カイルさん」

 夕食の支度をしている背中に、静かに呼びかけた。

「何だ?」

「……もし、もしもだよ? 僕が『ペルデレ リッテル』を正しく戻せたら……カイルさんは、どうしたい?」

 何があっても信じたいから、信じさせて欲しい。

 絶対に、幻滅させないで欲しい。

「読みたい……っと、俺じゃ読めないんだっけか。じゃあ、お前が音読して、意味を教えてくれ」

「……それだけ?」

「本なんだろ? 読む以外に使い道があるのか?」

 大金持ちに売れば、死ぬまで遊んで暮らせるだけの金が手に入るのに。

 カイルらしい答えに、ついつい笑い声がこぼれる。

「……じゃあ、早めに完成させるね。そしたら、一緒に読も? わかんない単語とか、全部教えてあげるから」

「ああ、期待してるからな」

「任せてよ」

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