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二章 抱え込んだ秘密

 カイルを見失わないように、薄汚れた大きな荷袋を追う。そうしながら、フィリスは頭の中に、先ほど読んだ『ペルデレ リッテル』のページを一枚ずつ、次々に広げていく。

(多分、番号に意味はない。言葉を知ってたら解ける程度の疑問を、父さんが「正しく戻せ」なんて言うはずないし)

 そこで、文章そのものに注目した。

(……あれ?)

 同じ語句で始まるページが、複数ある。そして、それらをちょいと入れ替えても、前後のつながりに大きな齟齬を生じないことがわかったのだ。

(ひょっとして、父さんの言う「正しく戻せ」って……)

 内容が一番しっくりくるように、ページを並び替えろ。そう伝えたかったのだろうか。

 だが、同じ語句から始まる部分を入れ替えても、何となく成立するのだ。どれが最も自然な流れなのか、すぐには判断がつかない。

(だいたいさ、プリームムから始まるのが二つあるって、どうすればいいわけ?)

 始まりとか、最初といった意味合いの単語。それが出だしのページが二つある。どちらを最初にしても、まったく違和感がなかった。

「……【創世記】みたいに、わかりやすくしてくれたらいいのに」

「いきなり何だ?」

「何でもない!」

 心の中で呟いたつもりが、声に出ていたらしい。突然振り返ったカイルに問われ、フィリスは強い調子で言い放ってごまかす。

 じっくり、コツコツと。地道に並べ替えを繰り返していくしかなさそうだ。

(正直、カイルさんが読めたら、ちょっとは助けになったんだけど)

 単語と意味を、すぐに把握して記憶できる人間はいない。何度も同じことを繰り返して聞かせるより、一人で考える方がずっと楽だ。

 両親が何を考え、役に立つかもわからない彼を寄越したのか。そこがどうにも、さっぱり理解できなかった。


        §


 街や村をつなぐ街道を使うことも、宿に泊ることも避けよう。そう決めたため、夕暮れ間近に街で食料などの補給を手早く済ませると、フィリスとカイルは再び砂地の中へ向かった。

 村や街と違い、吹きつける夜の風はあっさり体温を奪う。できるだけ風を受けずに、けれどゆっくり眠れる場所を、少しでも早く確保したい。

 整備された街道を外れるカイルを、フィリスが懸命に追いかける。

 たどり着いたのは、休憩に使った調査済みの遺跡だった。

(確か、ここの遺跡って、インディキウムって言ってたっけ……)

 発掘が終わると、遺跡には名前がつけられる。古語から適当に選ぶ、識別記号のようなものだ。単語の持つ意味と遺跡の実態は、まずかみ合っていない。

(『発見』なんて意味の言葉で呼ばれるようなもの、僕がいた時もいなくなってからも、一つも出てなかったと思うけど)

 自嘲に似た笑みが、フィリスの口元にひっそりと浮かぶ。

 遺跡に名づけると、遺跡内の地図を作る。どんな構造になっていて、どこに何があったか。それらを余すことなく記録するためだ。同時に、出土品の一覧も作られる。

 この地図や一覧表は、一般にも広く公開されている。ただし、書き写すことは禁じられていた。

「ここで寝るわけ?」

「遺跡の奥に入っちまえば、火も使えるだろ。あと、音が響くから、入ってきたやつがいるとわかりやすいっつー利点もあるぞ」

(……いいとこ、一つ見つけた)

 カイルは真っ当な【探求者】だけあって、一般人には無縁な状況に慣れている。

 どうすれば、より安全に過ごせるか。その辺りの知識が、助手の資格を持っているだけのフィリスより、恐らくはるかに上だ。

 フィリス一人だったら、寝る場所の確保にも苦労したかもしれない。顔を覚えられやすい街の宿に、うっかり泊ってしまった可能性もある。

(利用できるとこは、利用すればいいってことかな?)

 まったくの役立たずではない。助けになる部分だけ頼って、後は素知らぬ顔を貫き通せば。良心の呵責にさえ耐えれば。

 案外、どうにかなるのだろうか。

「真っ暗になる前に、薪になりそうな枝だけ拾っとくか」

 呟き、カイルは囲われた遺跡の周囲を見て回る。フィリスは自然と、彼とは反対側へと足を向けた。

 西は鮮やかで目に痛い夕焼けだが、東はすでに夜の装いだ。場所によっては、視界が利かず足下もおぼつかない。

 フィリスはジッと目を凝らし、燃やしやすそうな小枝を黙々と拾い集めていく。

 遺跡の入り口に戻ると、カイルが待っていた。

「お、結構集めてきたな。よしよし」

 小さな子供にするように。カイルは空けた左手で、フィリスの頭をゴリゴリとやや乱暴になでる。ガクガクと前後に大きく揺すられ、フィリスは持っていた枝をいくつか、パラパラと取り落とす。

「あのさぁ!」

 枝を残らず放り出し、フィリスは勢いよくカイルの手を払う。

「確かに僕はあんたより年下だろうけど、子供扱いしないでくれる? 頭なでてもらって褒められるのが嬉しいのは、文字も読めない小さい子くらいだよ!」

 もう、十六だ。相応の自尊心もある。

 フィリスが思い切り睨み上げると、カイルはきょとんとした顔で目を瞬かせた。

「……何?」

「一人で心配とか言うから、俺の弟と変わんないくらいかと思ってたんだが……お前、いくつだ?」

「あのねぇ。親ってのは、子供がいくつになっても心配するものなんだって」

 唇を軽くとがらせ、頬をわずかにふくらませて。フィリスはしゃがみ込み、落とした枝を乱雑に、けれど取り残さないように集める。

「その『心配』を真に受けて、おかしな期待して来られても、こっちは迷惑なんだよ。だいたいさぁ、本当に心配だったら、僕は【探求助手】持ってるんだし、現場に一緒に連れていくって」

 この【探求助手】も、両親と行動をともにしたいがために取得したのだ。けれど、フィリスの思うとおりにはならなかった。

 両親と同じ現場に行っても、四六時中、両親と一緒にいられるわけではない。見知らぬ相手がどういう人間かわからないのに、指示を仰いで手助けをすることもある。迂闊なことは言えないし、聞かれても答えられない。

『まだまだ子供だから、仕方がないか』

 次第に、嘲笑を混ぜたそんな言葉を浴びせられるようになった。発掘に関係ない雑用すら、満足にさせてもらえなくなったこともある。

 あっという間に、人間関係に疲れてしまった。

 結局、片手で足りる程度の現場を、ほんの少し経験しただけ。

 資格を持ちながら、村でのんびりと暮らしていた時間の方が。現場にいた時間より、ずっとずっと長い。

「そもそも、様子を見に来た人が異変を知らせたって、父さんも母さんもすぐには帰ってこられないんだし。何でわざわざ寄越すのか、いまだに理解できないんだけど」

 なかなか出会いのない同業の男性に、ささやかな巡り会いを提供している。まさか、いくら何でも、そんなつもりではないだろう。

 もし、万一、そのとおりだとしたら。今後は、両親との距離も考えなければならない。

「……そんだけ可愛げがないから、かえって心配なんだろ?」

 言ってから、しまった、という顔で目を逸らす。そんなカイルを横目で睨み、枝を抱えたフィリスはさっさと遺跡へ入っていく。

 入り口付近はそうでもない。しかし、奥へ行くに従って、一つの靴音が何度も跳ね返って騒々しく響いた。

 これなら間違いなく、侵入者には気づける。だが。

「ところでさ、もしもここに踏み込まれたら、いったいどこに逃げるわけ?」

「調査済みの遺跡は、どこも別に出口を作ってあるんだよ。たいていは、途中や奥からちょちょいと掘って、外につなげてる。そっから逃げりゃいい」

「へぇ……最後までいたことないから、知らなかったよ。公開されてる地図にも、そんなの載ってないし。じゃあ、今のうちに、出口がどこにあるか、どこに出るかを確認しとかなきゃ」

 見下ろす手やズボンさえ見えない、しっとりした闇の中。

 フィリスはためらうことなくスタスタと、真っ直ぐ歩いていく。まるで、煌々と明かりに照らされる中を進んでいるようだ。

「お前、よくこんな暗いとこを迷わず歩けるな」

「そう? ここは発掘中にちょこちょこ来たし、頭に完成した地図が入ってるし、曲がり角から次の角までおおよそどのくらいかわかるから、僕は全然困らないけど?」

 何の気なしにこぼしてから、フィリスは思わず息を呑む。だが、足は止めない。失言などしていない風で、歩き続ける。

 普通の人間に、こんな芸当はできない。そもそも、本や地図を丸々暗記して、それをすぐさま完璧に引っ張り出せること自体が、大いに異端だ。

 そのことを、すっかり失念していた。

 気づかれないように、それとなく。背後の気配をそっと探る。しかし、彼が何を思い、考えているか。うかがい知ることはできない。

(……油断、しちゃったなぁ)

 彼は、今までやって来た人間とは違う。どこかが、大きくズレている。そのズレがごくたまにうっかり、警戒心をスルッと取り払ってしまうのだ。

 まったくもって、厄介なことこの上ない。

 つかみきれない苛立ちを抱え、フィリスはギュッと下唇を噛んだ。


 最深部に到着し、フィリスは真っ先にランプに明かりを入れた。これだけは、真っ暗でもすんなりできるように、何度も練習をしたから完璧だ。

 闇に慣れた目には眩しいそれを頼りに、作られているはずの出口を探す。

 すぐにはそれとわからないように、厳重に隠されている。そう考えていたフィリスだが、実際の出口はやけに堂々と、ぽっかり口を開けていた。これが昼間ならば、外からの明かりが燦々と、心地よく差し込んでいるのかもしれない。

「何これ? こんなんでいいの?」

「全部調べ終わってるから、無資格者が入り込んでも困るわけじゃないだろ?」

「それはそうだけどさぁ……」

 盗られて困るものは、何一つ残っていない。理屈はわかる。だからといって、誰でも簡単に出入りできること自体に、何ら問題はないのか。

「飯を作るから、ちょっと待ってろよ」

「僕だって、そのくらいできるけど?」

 ケンカ腰に言い放って、けれど腕前が段違いであることはわかっていた。

 一人暮らしとはいえ、周囲に助けられている自分と、現場に入れば嫌でも自力でどうにかしなければならない彼と。経験に、あからさまな差がある。

「ちゃっと作って食って、ゆっくり寝とけ。疲れてて逃げ損なうとか、最悪だろ?」

「別に、そんなに疲れてないけど」

「自覚がないだけで、慣れないやつが歩きっぱなしっつーのは負担が大きいんだ。寝袋に入って体が温まったら、いつの間にか朝になってるって」

 ムッとして言い返したフィリスに、カイルは笑って告げた。

 頭をなでようとしたのか、はたまた軽く叩こうとしたのか。伸ばしかけた手に気づくと同時に、彼はサッと引っ込めた。

「食ったら、先に寝かせてくれ。最低限寝たら、後は朝まで譲ってやる」

「いいけど……最低限ってどのくらいなわけ?」

「お前の成長に支障が出ない程度、だと思うが……まあ、勝手に寝て起きるから、起きたらお前の番だ」

「僕の成長って……いくら何でも、もう止まってると思うけど?」

 腕を組んで、やや頬をふくれさせて。フィリスはスッと目をすがめてカイルを睨む。

 ただでさえ、平均よりずっと背が高いのに。この年になってもまだまだ伸びてもらったら、かえって困る。別の場所が育つなら歓迎するが、そちらはまったく音沙汰がない。

「バカ言ってないで、きっちり寝ろ」

 フィリスの頭に手を乗せたカイルは、ガシガシと数回なでた。やってから、また『しまった』と顔に書く。

 もう、ため息しか出ない。

 あたふたと、居心地の悪さをごまかすように。カイルが背を向け、食事の支度を始めたのを見て取ると、フィリスは彼から少し距離を取る。

 ふと、疑問が頭を過ぎった。

(……カイルさんってばひょっとして、僕のこと、男だと思ってる?)

 村の同年代の少年を参考に、あえて少年っぽく振る舞ってはいる。

 だが、まさか本当に、実年齢よりいくらか下の少年に見られているとは。これっぽっちも思ってもみなかった。

 少なくとも、今までの来訪者に、そんな勘違いをされたことはない。

 見るからに男っぽい娘で渋々手を打つほど、結婚相手に困窮していると思われたくない。そのくらいには彼らにも自尊心があったようで、捨て台詞を残していかれたこともある。

(でも、カイルさんは何でそんな勘違いをしたわけ?)

 ざっと思い返してみても、取り立てて思い当たるものがない。

(……弟がいるらしいし、そのせいかな?)

 しかし、それはそれで無性に腹立たしくなる。

 山にした枝に火をつけ、太めの枝で作った支えと橋に鍋をかけて吊るす。風の強い場所では、火が消えないように、土や石で風よけも作る。発掘現場内ではやらない方法だが、一歩外に出れば当たり前に見られる光景だ。

「よし、できた。たいしたもんじゃないが、熱いうちに食えよ」

 渡された器からはふんわりと湯気が立ち、ほのかに香辛料の匂いがした。

 木製の器とスプーンというのは、彼なりのこだわりがあるのか。ほどよい温もりが伝わってきて、少し冷えていた手がじんわり温かくなる。

 ほんのり黄色っぽい色のついた、透明なスープの海。そこに、小さめに刻まれた食材がユラユラと浮かんでいる。スプーンで底からすくってみると、少し形の崩れた、白くて四角いものがいくつか乗っていた。

(ニンジン、タマネギにイモ……と、刻んだ干し肉。で、塩と香辛料で味を整えて煮込んだってとこかな)

 熱いスープと、今日焼いたパン。追われている身としては、かなりの贅沢だ。

「いただきます」

 普段は食事の前に、両手を組んで目を閉じ、軽く祈りを捧げる。だが、今日は器を持っているため、それをはっきりわかるくらい持ち上げた。

 器を持ち直して、スプーンをパクッとくわえる。

「……あふっ!」

 今まで、熱いものはことさら苦手でなかったから、つい油断した。

(まさか、嫌がらせみたいに熱いなんて!)

 膝の器を落とさないように。スプーンをギュッと握りつつ、口元を仰いで必死に熱を逃がす。あまりの熱さに、涙がにじんできた。

「焦って食うなよ……」

 飛んできた言葉に何か言い返しておきたいが、それどころではない。

 フィリスがジタバタしているのを見かねたのか。カイルはカップに飲み物を入れて、呆れた苦笑いを浮かべながら差し出した。それをひと息に飲み干して、フィリスはようやく人心地がつく。

「チビじゃないんだから、冷ましてから食えよ」

「こんなに熱いなんて思わなかったの! あーもう! まだ口の中がジンジンする!」

 手でパタパタと仰ぎ、フィリスは口の中へ風を送る。

「よし。じゃあ、次からは、食う前に冷ませって言ってやるからな」

「ちゃんと冷ますからいらない!」

 強く言い放ったフィリスは、スープをすくう。数回、スプーンに作った水たまりを波立たせてから、そっと口に運んだ。

 空気が、ふわっと鼻に抜ける。

「おいしい!」

 無意識に、素直な感想が口からこぼれていた。

 今後の食事をすべて任せたくなるほど、手際がよくて手早くて、しかもおいしい。

「そうかそうか。まだ残ってるから、たっぷり食えよ?」

 夢中になって器を空にし、フィリスの拳大のパンを二個食べ終えた。

「ごちそうさまでした!」

 今度は両手が空いているから。普段と同じように両手を組み、目を閉じて少し顔を伏せて告げる。

「もういいのか? そんなんじゃ、育たないだろ」

「背はこれ以上伸びないだろうし、横に広がると後が面倒だからね」

「あのなぁ、太る心配する暇があったら食え!」

「ちょっ! 言っておくけど、それ、僕にとっては死活問題だから!」

 ただでさえ、父親に似て縦に伸びてばかりなのだ。この上、必要のないところに無駄な肉がついたら、それこそ目も当てられない。

 フィリスの剣幕に驚いたのか。カイルは数回、忙しく瞬いた後。

「……お前だったら、もうちょっと肉をつけてもいいんじゃないか?」

 迂闊にも呟いてしまったカイルは、すぐにでも射殺しそうなフィリスの視線に、おののくはめに陥った。


        §


 食器を片づけ、万一の時に逃げやすいよう、寝袋以外の荷物をすべてまとめた。最悪、寝袋は捨てて逃げ、また手に入れればいい。

 カイルはすでに、彼の寝袋で気持ちよさそうに寝息を立てている。まだわずかに残っている火のそばに座り、フィリスはぼんやりと『ペルデレ リッテル』を眺めていた。

 言葉の書かれた紙は、全部で十八枚。

 本の背に、しっかり厳重につけられている。そう思っていたが、意外と簡単に、一枚一枚をペリペリと、破ることなくはがすことができた。さらに不思議なことに、バラバラにしたページをちょいと挟んで逆さにしても、紙は落ちてこないのだ。

 これは案外、本物なのかもしれない。

 そんな期待が、沸々と湧いてきた。俄然、やる気が出るというものだ。

 まずは単純に、数字の小さい順に並べてみる。途中で、同じ単語で始まるページが立て続けに現れた。当然、話の内容はまったくつながっていない。

 今度は逆に、数字の大きい方から並べてみた。これまた、暗号より暗号めいた、意味不明な文章の羅列になってしまう。

 では、『最初』の意味を持つ単語を冠するどちらかを、仮の始まりに──。

 そこまで考えて、フィリスは小さなうなり声をこぼした。

(……もしかして、プリームムから始まるんじゃないってこと?)

 最初。始まり。そういった意味を持つ言葉があるくせに、それから始まらない。

 そんな物語が、あるはずがない。きっと、誰もがそう考えるだろう。恐らく、だからこそ、誰もが「正しく戻せ」ないのだ。

 これを、単なる高価な書物と思ってはいけないのだろう。

(完成したからって、何がどうなるのか、さっぱりわかんないけど)

 一歩前進したような。まったく進んでいないような。

 どちらとも言えない気分がして、フィリスは本を布で包んで荷袋にしまう。

 本を触ったり、荷物を移動させたりして、何度か音を出したためか。ふと眺めたカイルと、ばっちり目が合った。

「交代だ」

「え……もういいの?」

 正確な時間を計っていたわけではないが、思っていたよりずっと短いはずだ。

 明日以降も、彼の知識や判断が必要になる。それなのに、寝不足でフラフラされて、判断を誤られてはたまらない。

「金を稼ぐのに、無茶してきたからな。すっきり目が覚めたことだし、平気だろ」

「……『ペルデレ リッテル』を売ったら、そんな無理しなくたって」

 信じていい人か、はっきりしないから。だからつい、試すようなことを言ってしまう。

 それが悪いことだと、自分でもわかっているのに。

 強い自己嫌悪を覚えると同時に。彼がビシッときっぱり否定してくれるのを、心待ちにしている。そんな、どうしようもない自分自身にも気づく。

 保証があるなら、彼を信じたい。

 それは、ごまかしようのない本心の一部だ。

「あのなぁ、お前のもんを俺が売る、って前提がおかしいだろ。それとも、お前はそれを売っ払いたいのか?」

「僕は売らないよ」

「じゃ、そんでいいだろ」

 もぞもぞと寝袋から這い出たカイルは、真っ先にフィリスの頭に二回、ポンポンと優しく触れた。反射的に、フィリスは彼の手を払いのける。

「あー……悪かった」

 苦笑して、謝って。多分次は、手を出そうとして迷ってやめるのだ。

 それが、ほんの少しだけ、寂しい。

 同じ村に住む、ほとんど一人暮らしの子供ではなく。ちょっとした期待を持って訪ねてきた、同業者の娘でもなく。

 純粋に、一人の人間として接されることが。きっと、たまらなく嬉しいのだ。

 だから、少しでも早く気を許したくて、あくどく試す真似をしてしまう。

 わかっているが、気持ちを素直に伝えることはできない。

 心のどこかでまだ、彼を信じていない部分が存在している。それが、邪魔をする。

「ほら、さっさと寝袋に入って寝ろ」

 急かされて渋々、用意しておいた寝袋にもそもそと潜り込む。

 地面に置きっぱなしとはいえ、寝袋は冷たくはない。かといって、暖かくもなかった。

 何気なく視線を向けた先でカイルと目が合って、フィリスは慌てて目を閉じる。けれど、眠気は一向に襲ってきてくれない。

 周囲がまったく見えないせいか。かえって、カイルが動き回っている気配がどうにも気になってしまう。

(……寝れない)

 フィリスはこっそり目を開けて、カイルの様子を窺う。彼は使った寝袋を丸めて、自分の荷物に詰め込んでいるところだった。

 視線に気づいたのか、彼は不意に顔をフィリスへ向ける。

「うるさかったか?」

 気配は気になるが、うるさくて眠れないわけではない。だからフィリスは、ゆるゆると首を横に振った。

「ねえ、カイルさん」

「何だ? 早く寝ないと大きくなれないぞ」

 起きていた時なら、間違いなく苛立っている。それでも、今は大して気にならない。

 ほんのり暖まってきた寝袋で。フワフワした気分が、全身をゆったりと包み込んでいる。

「カイルさんは、僕の両親と、どんな知り合いなの?」

 ほんの一瞬。カイルの顔が強ばったのを、フィリスは見逃さなかった。

(聞いちゃ、いけないこと……だったのかな?)

 十六の娘がいるとは思えないほど、母は若々しくて可愛い人だ。とても、三十を過ぎているとは思えない。

 フィリスと並んでいるところを、関係をまったく知らない人が見れば。女性がちょっと年上の恋人同士、といったふうに映る可能性が高い。

 幼い頃から、母が既婚と知って涙を飲んだ男たちを、何人も見てきた。それこそ、嫌になるくらいに。

(そういう縁だったら、言いたくないかも……ね)

 フィリスも、母親に恋慕していた、などといった話は聞きたくない。

「言いたくないなら……」

「……死んだ俺の親が、ジェフリーさんたちと懇意にしててな」

 ──無理に話さなくても。

 言いかけたフィリスを遮るように、カイルがぽつりと呟く。

「ほら、三年くらい前に、珍しい大雨で崩落して、完全につぶれた遺跡があっただろ。それで、な……」

「え……」

 それなら、知っている。

 両親が手紙で、大雨による遺跡の崩落と、発掘作業の中断。それから、ちょっと用事があるから、元々の予定くらいで帰る。そう連絡してきた時の遺跡だ。

 運良く、両親は外にいて巻き込まれなかったらしい。だが、帰ってきた両親は深く沈み込んでいて、詳しい話を聞ける雰囲気ではなかった。第一、戻ってきたと思ったら、またすぐに飛び出していったのだ。

 だからフィリスは、あの崩落がいつ起きたのかも、巻き込まれた人がいたのかも、ずっと知らないでいた。

「俺は【探求者】だから、どうにかなる。でも、弟は【探求助手】でもなかったからな……街の養護院に弟を預ける手続き一つとっても、俺じゃ満足にできやしないし。ジェフリーさんたちがいなかったら、どうなってたか……」

 目を閉じて、険しかった表情をわずかに和らげたカイルは、ふうっと息を吐き出す。

(……そういう、縁なんだ。だから……)

 一緒に、逃げてくれている理由。両親からの贈り物である『ペルデレ リッテル』を、絶対に取り上げようとしないわけ。むやみやたらと、子供扱いしてくれること。

 それらが何とはなしに、線でつながっていく。

 フィリスはぼんやりと、カイルを見上げた。

 悲しみも、痛みも、自嘲も。すべて飲み込んで、ひたすら堪えている表情だ。今まで想定していた年齢以上に、大人びて見える。

(……僕は、子供だ)

 ぬくぬくした環境に身をひたして。嫌なことからはさっさと逃げて。周囲に庇護され、安穏と暮らしてきたのだから。

 複雑な感情が見え隠れするカイルの横顔を、ジッと見つめていたはずが。気がついたら、外へつながる穴から、眩しいほどの光が差し込んできていた。

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