Ib〜囚われの少女〜
その絵は散らかった部屋の奥の壁にかかっていた。
――やっと見つけたわよ。
長い道のりだった。
異常な空間に迷い込み、ギャリーは追われながらここまで来た。
――あの絵が全ての原因に違いないわ。
ギャリーはこの美術館に、目的があって訪れていた。
それは一週間前に遡る。
ギャリーの事務所に中年の男性が訪ねてきた。
駅から歩いて十五分。
三階建てのビルの最上階に、ギャリーの事務所はあった。
お世辞にも広いとは言えない部屋の中に、所狭しと本棚が並び、窓側にデスク、扉側には来客用のローテーブルとソファーが置かれていた。
現在そのローテーブルを挟み、ギャリーの向かい側のソファーに男性が座っていた。
男性は全てを話し終え、額の汗をハンカチで拭っていた。
「つまり、美術館で神隠しが起こっているという事かしら」
突然人が消える。
美術館で神隠しとしか思えない現象が起きているという。
「はい、今までこんな事はなかったのですが」
男性は美術館の関係者で、依頼の為にギャリーの事務所を訪れた。
「初めのうちは無関係でいられましたが、こう何度も続きますと……」
「さすがに無視できなくなったと」
ギャリーが男性の言葉を続けた。
確かに一人二人なら本人の病気か何かで片付けられただろう。
しかし、十人ともなればごまかすのは難しい。
「被害にあわれた方達はどこかをさ迷い、何時間も美術品に追いかけられた、と言っています。しかし、来場時間から考えましても被害にあった時間はせいぜい二、三十分ぐらい。そもそも、美術品が動き出したらもっと騒ぎになっているはずです。もちろん当館に隠し通路の類はございません」
ギャリーは男性が持ってきた美術館のパンフレットを見た。
二階建ての美術館で、パンプレットに載っている写真を見る限り変な所はない。
どこにでもある白い建物だ。
「被害者の検査はしたのかしら」
こういった現象が起きた時は、まず被害者を疑う。
薬による幻覚という事も多い。
「はい。病院の検査では何も出ませんでした」
男性はまた汗を拭う。
今日は汗が噴き出るほど暑いわけではない。
この話は彼にとって、体調に変化が出るほどのストレスになっているのだ。
「被害者に接点はないのね」
被害者についてまとめられたファイルに、ギャリーは目を移す。
被害者は男性が六人に女性が四人。
職業や居住場所はバラバラ。
過去に会った事はなく、知り合いでもない。
被害者は無差別に選ばれていた。
「ちょっと厄介だわ」
調査に向かって、反応が全くない可能性もある。
「依頼を受けて頂けますでしょうか?」
男性が不安そうな顔でギャリーを見た。
「このような心霊現象を調べるのがアタシの仕事だもの。もちろん引き受けるわ」
ギャリーが笑顔で答えると、男性はあからさまにほっとした顔をした。
後日、ギャリーは美術館を訪れた。
調査を始め、一時間とたたずに心霊現象に遭遇した。
被害者が言っていた通り美術品に追われ、ギャリーは危なく命を落とす所だった。
そこをイヴという少女に救われ、協力しあい、この部屋までたどり着いたのだ。
部屋の奥にかかっている絵は、中央の部分がなくなっていたが、残っている部分の黄色い薔薇をギャリーは覚えていた。
この絵の名前は『メアリー』。
ゲルテナの最後の作品だ。
ギャリーとイヴは部屋の奥に進む。
「だれかいるの?」
部屋の半分まで来たところで、部屋にメアリーが入って来た。
この少女も美術品。
部屋の奥にかかる『メアリー』がこの少女なのだ。
ギャリーとイヴはメアリーに驚いて立ち止まる。
メアリーは何もなかったかのように話しかけてきたが、話すうちにみるみる表情が変わっていった。
そのメアリーの後ろに、どす黒いもやのようなものがまとわり付いているのをギャリーは見た。
黒いもやが大きくなるにつれ、メアリーの様子はますますおかしくなる。
メアリーはついに狂ったように叫び出した。
「出ていけええええええ!」
その声は低く響き、まるで男。
メアリーの後ろでくろいもやが人間の形を成し始める。
もやが作り出した人間の顔をギャリーは知っていた。
この美術館で行われている美術展のパンフレットで見た顔だった。
――ゲルテナだわ。
ゲルテナがゆらりと動きだし、メアリーの腕を後ろから掴む。
するとメアリーがパレットナイフをポケットから取り出した。
パレットナイフを振りかぶり、メアリーはギャリーとイヴに襲いかかった。
逃げる道はどこにもない。
ギャリーとイヴは部屋の奥に走った。
走りながらギャリーは壁にかかる『メアリー』を見た。
絵を黒いもやが覆っている。
ギャリーはこの絵が原因だと確信した。
メアリーがすぐ後ろに迫る。
時間はない。
ギャリーはライターを取り出し『メアリー』に火を点けた。
「やめろおぉぉ」
ゲルテナは苦しみ咆哮を上げる。
絵は勢いよく燃えた。
額のガラスが割れ、ギャリー達に降りかかる。
「あぁ……ぃやだ……」
絵が燃え尽きると、メアリーの身体も黒く崩れた。
ゲルテナは形を保てなくなったのか、人間の形をしていたもやは散り散りとなりやがて消えた。
部屋の中が静まり返る。
「……はあ」
しゃがみこみ、ギャリーはため息を吐いた。
どっと疲れが押し寄せる。
――これで終わりね。
火は全てを浄化する。
ゲルテナの魂も浄化されただろう。
これで神隠しが起こる事はもうない。
ギャリーは強張っていた身体をほぐした。
緊張が取れると、ギャリーは違和感に気が付く。
イヴがギャリーに抱き付いて固まっていた。
――イヴには辛かったわね。
ギャリーはイヴの頭を優しく撫でた。
イヴの力が徐々に緩む。
ギャリーは立ち上がり、イヴの両手を握りしめた。
「イヴ、大丈夫?」
ギャリーはイヴの目を覗き込む。
イヴはギャリーの目を見返した。
――大丈夫そうね。
イヴの瞳はしっかりとしていた。
「ギャリー……手が……」
イヴの顔が急に曇る。
ギャリーの手が切れているのにイヴが気付いたのだ。
イヴがハンカチを取り出し、ギャリーに渡す。
レースのキレイなハンカチだった。
ハンカチをギャリーの手にイヴが巻きつける。
「ありがとう、イヴ」
ギャリーはにっこりと笑った。
イヴも笑い返す。
「さあ、行きましょう」
ギャリーとイヴは手を繋ぎ、出口へと歩き出した。
「あら、なあにイヴ?」
イヴがギャリーの手を引っ張り引き止める。
ギャリーが止まると、イヴは床に落ちている本を指した。
本は開かれており、クレヨンで文字が書かれている。
ギャリーは本を拾い上げ、文字を読み上げた。
そこにはメアリーの外に出たい気持ちが何ページにもわたって書かれていた。
「メアリー……」
メアリーもゲルテナによって囚われていたのかもしれない。
ギャリーは本を閉じ、本があった場所に戻した。
「行きましょうか、イヴ」
イヴはこくりと頷く。
二人はお互いの手をしっかりと強く握りしめた。
部屋から出る直前、ギャリーは部屋を振り返える。
メアリーの絵があった所を見つめた。
「ギャリー?」
立ち止まったギャリーを不思議そうな顔でイヴが見る。
ギャリーは首を横に振った。
「何でもないわ」
ギャリーとイヴはそろって部屋から出た。
長い長い美術館の時間は、もう終わるのだ。
後日、報告の為にギャリーは追加調査をした。
ワイズ・ゲルテナについてだ。
ゲルテナには一人の孫がいた。
その名はメアリー。
ゲルテナ最後の作品『メアリー』は孫を描いた物だった。
メアリーは幼くして亡くなっている。
ゲルテナは愛する孫をなくすと部屋にこもりきりになり、誰とも会わなくなったそうだ。
しばらくして心配になった隣人が訪ねたが、ゲルテナはキャンバスの前でイスに座ったまま亡くなっていた。
そしてそのキャンバスに描かれていた作品が『メアリー』である。
ギャリーは確認していた報告書を封筒にしまい、事務所の机の引き出しに入れた。
一人掛けのイスに深く座り、ギャリーはため息を吐く。
全ての発端はゲルテナにあった。
ゲルテナの強い想いが美術品に宿り、自我を与えた。
そして、愛する孫への想いにより、ゲルテナは孫を描いた絵に憑りつくこととなった。
悪霊と化す結果となってしまったが、それはとても純粋な想いだった。
ギャリーはゲルテナの最後を思い出す。
あの時は燃やすしかなかったが、他に何か手があったのではないかと考えてしまう。
「アタシもまだまだ未熟ね」
ギャリーは自嘲気味に呟いた。
この仕事をしていると、後味の悪い思いをよくする。
しかし、今回は一つだけ救いがあった。
「あら、もう約束の時間だわ」
今日はイヴと会う約束をしている。
イヴの家に招待されているのだ。
イスから立ち上がるといつもの上着を掴み、ギャリーは玄関に向かった。
扉を開き、暖かな日差しに目を細める。
晴れ渡る空がギャリーを迎えていた。
――外はこんなにも美しい。
『メアリー』の部屋を出る間際、ギャリーは確かに聞いた。
メアリーの安らかな声を。
『ありがとう』と。
「あの子はこの景色が見られたかしら」
ギャリーは青い空を見つめた。
解放end